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 夏祭りの日から一週間。カレンダーは九月に突入したが、夏の盛りのような暑い日々が続いている。
 大学生の夏休みは長い。あと一ヶ月近く残っている夏休みを思いながら、バイト終わりの足をのろのろ動かし家路につく。アスファルトからの照り返しに、日傘をさしていてもじんわりと汗が滲み首を伝って落ちていく。
 夏祭りの晩以降、黒尾くんとは連絡こそとっているものの、直接顔を合わせる機会は今のところ一度もない。
 あの日、シャワーからあがった黒尾くんは、不自然なくらい清々しい顔をしていた。私ひとりがぎくしゃくして、勝手に緊張していただけだ。当然ながらキスやそれ以上のこともなく、それどころか黒尾くんはシャワーから上がると、何食わぬ顔で自分の家へと帰っていった。呆然と黒尾くんを見送った私は、濡れ髪のせいでいつもと違う雰囲気の黒尾くんが、妙にかっこよく見えたことくらいしか覚えていなかった。

 あの日の黒尾くんのことを思い出すたび、体が芯からかあっと熱くなるような心地になる。理由もなくもぞもぞして、黒尾くんのことを思って胸がじんじんする。気が付くと唇をなぞっていたりして、いよいよ本格的に挙動不審である。
 これは情緒不安定なのか、それともいわゆる欲求不満というやつなのか。その判断をしようにも、私には経験値があまりにも少なく、ただただ自分の中で持て余した感情や熱に戸惑うばかりだ。
 黒尾くんと付き合っている以上、遅かれ早かれいつかはそういう関係になるだろうとは思っていた。ことさら純潔にこだわっているわけでもない。黒尾くんのことは信用しているから、そういう関係になることに躊躇もない。
 それでも、そういう関係になるタイミングまでは考えていなかった。考えないようにしていた気もする。黒尾くんが相手ならばと思う気持ちがある一方で、はじめてのことを恐ろしく思う気持ちも、当然私の中には存在している。
 しかし、いくら私の心構えができていなかったとはいえ、据え膳食われなかった身としては、それはそれで不安にもなるもので。あの日の黒尾くんのことを思うにつけ、自分が途轍もない粗相をしてしまったような気がしてくる。まったく気が気ではない。
 あの日、黒尾くんは一完全にスイッチが入っていたように思う。少なくとも、私の目にはそう見えた。正直あのまま最後までいってしまうのではないかとすら思えたほどだ。
 そのスイッチを、黒尾くんが再びオフにしたからには、何か理由があるのだろう。その理由が私にあるのか、それとも黒尾くんにあるのかは分からない。分からないが、私にあるとしたらそれは由々しき問題だった。
 暇さえあれば『エッチ はじめて 感想』なんてくだらない単語で検索をかけている。私の頭はそのくらい、黒尾くんとのあれこれでいっぱいになっていた。生殺し状態なのはこちらの方ではないだろうか。中途半端に覗き見てしまったものの実態を、知りたいと思うのは人間の性だ。
 と、そんなことを考えながら歩いていたら、鞄の中で携帯が震えた。日傘の柄を首に引っ掛け、鞄から携帯を取り出す。
 最近は大学のグループトークの通知をオフにしているので、私の携帯を鳴らすのはもっぱら家族か黒尾くんだ。画面を確認してみると、送り主はやはり黒尾くんだった。文面は、
  “ 旅行の準備進まない” 。
 今週末で付き合って半年を迎える私たちは、記念日のお祝いを兼ねて日帰り旅行を計画していた。行き先やプランは完全に黒尾くん任せ。夏休みのデートに部活で何度か遅刻してきたので、その埋め合わせのつもりらしい。
 日帰りと言っても、記念日旅行であることには違いない。黒尾くんはどうやら私の知らないところで、かなり入念に準備をしてくれているようだった。
 “頑張って”
 これではあまりに簡素すぎるだろうか、と思いつつ、しかしほかに送る言葉も特に思いつかなかった。悩んだすえ、そのまま送信する。再び携帯を鞄にしまい、大きく溜息を吐き出す。
 日帰りなので、いつも通り夜には解散になる予定の今回の旅行。あの日以来、はじめて黒尾くんと向かい合うことになる旅行のことを、私は考えるともなく考えた。
 お互いもう子供ではない。たとえこの間のことが気がかりであったとしても、露骨に意識してしまうことはないはずだ。それでも今まで通りとはいかないと思う。少なくとも、私には、まったくの今まで通りは難しい。
 黒尾くんのあの手つきや深いキスを知ってしまった以上、黒尾くんを見てそれらを思い出さない自信はない。
 無事に旅行が終わりますように。旅行はまだ始まってすらいないのに、私はすでにそんなことを真剣に考えていた。

 ★

 旅行の日は午前中に駅で待ち合わせた。目的地までは電車で二時間ほど。元々温泉街だった土地だけあって、観光客の年齢層は高めらしい。近年は若者向けにカフェやアートギャラリーを建てたりと、新しい街づくりが進んでいるとも聞く。
「名前が好きそうな店も沢山あるってよ」
 下調べをしてきてくれた黒尾くんが、携帯を見せながら紹介してくれる。その態度にぎこちなさはまるでなく、緊張していたのが私の方だけなのだということを嫌というほど思い知る。
 あの雨の日などありはしなかったとでもいうような、黒尾くんの自然なふるまいは、あの日の記憶に翻弄され続けている私を、ただただ混乱させるばかりだ。それとも黒尾くんにとっては、あのくらいのことは何でもないことなのだろうか? 疑念と困惑ばかりが心の中に降り積もる。
 それでもせめて、今日一日は機嫌よく気分良くやり過ごそうと決めていた。混乱などおくびにも出さず、私もにこにこ笑って黒尾くんに応える。
 歩くときの肩と肩の距離はつかず離れず。その微妙な距離感をキープすることが、今日の私の使命だ。乗換案内を頼りに現地に辿りついたのは、太陽が頭のてっぺんに昇りきるより少し前だった。
 電車をおりると、駅の地図案内で辺りの地理関係を確認する。昔ながらの町並みや商店街が、駅からほど近いところに東西南北にそれぞれ広がっている。行ってみたい観光スポットはいくつかあったが、黒尾くんが効率的に回れるルートを調べてきてくれていた。
 空は晴天。天気予報では台風が近づいているらしいが、今のところはそんな気配は微塵も感じられない。
「歩きながら飯食うつもりだけど、それでいい?」
「はーい」
 まるで遠足にきた小学生のように、黒尾くんの言葉に元気よく返事をする。基本的に今日の私は黒尾くんについていくばかりだ。黒尾くんのプランニングには私の趣味が大いに反映されているので、わざわざ口を挟むこともない。
「食べ歩きとかってお祭りみたいで楽しいよね」
「この後名前の好きそうなカフェとか行くし、そんなにがっつり食わなくてもいいぞ」
「さすが黒尾くん、私の趣味をよく心得ていらっしゃる」
「そりゃあ彼氏ですから」
 黒尾くんの案内で、街道をのんびりと歩いていく。道のわきに立ち並んだ路面店からは、元気な呼び込みの声がさかんに聞こえた。漬物屋や乾物屋から試食の声がかかるたび、ふらふらと見に行ってしまう。あまりに頻繁に酔っていくので、そのうち黒尾くんにも笑われた。
「名前、引き寄せられすぎじゃない?」
「だってこういう所のお漬物って美味しいから」
 試食のたくあんをかじりながら私は答える。がっつり食べなくてもいいとは言われているが、かといってがっつり食べてはいけないとは言われていない。こういうのも旅行の醍醐味だ。
 自分もごぼうの漬物を試食しながら、黒尾くんは私に呆れた視線を向ける。
「うまそうなのは分かるけども。実際間違いなくうまいし」
「そうなんだよねえ……、お土産に一袋買っていこうかな。お母さん喜びそう」
「帰りにしたら? 帰りもここ通るだろうから」
「そっか、まあ荷物になるしね」
「そうそう、ほれ食ったなら行くぞー」
 黒尾くんに促され、お店の人に「また来ます」と伝えてから、また歩き始めた。

 途中にあったギャラリーではガラス細工が販売されていた。このギャラリーは黒尾くんのプランに組み込まれてたようで、私がずるずると引き寄せられていると「入っていいよ」と手を引かれる。
 店内には所せましとガラス細工が展示されている。うっかり鞄をぶつけないように細心の注意を払いながら、私たちはゆっくりと見て回った。繊細な柄や美しく薄い玻璃にほう、と息が漏れる。黒尾くんもきらきらと輝くガラスを手に取り光に透かして見たりしている。
「将来一緒に暮らしたらこういう揃いのグラスがあってもいいかもなー」
「そう、だね?」
 思わず声が上ずる。黒尾くんがにやりとした。
「動揺しすぎね」
 黒尾くんから視線を逸らしてガラス細工を眺めるふりをしながら、私は顔に集まった熱を必死で散らす。
 結局、ギャラリーでは小さな飾りのついたヘアゴムをひとつ買った。ギャラリーを出ると、先程よりも少しだけ風が強くなっている。台風の影響だろうか。空はまだ晴れているが、徐々に雲が多くなりつつあった。
「早めに回って夕飯食べて帰るか」
 空を見上げて黒尾くんも言う。
「名前、歩くペース上げて大丈夫?」
「全然大丈夫。こんなこともあろうかと、歩きやすい靴をはいてきています」
「さすが、準備がいいことで」
 そこからは少しだけ予定を繰り上げて、早足に次の目的地へと向かった。昔ながらの街並みが続く街道なので、ただ歩いているだけでも十分に楽しい。
 風景写真を撮っていると、時々黒尾くんがキメ顔で写真に映り込んできたりして、それも楽しい。当初は緊張したこの小旅行も気付けばすっかり楽しんでいて、つくづく私は黒尾くんと一緒にいることが好きなのだと実感する。
 そうして夕方近くまでしっかり食べ歩いたり遊んだりして、さて一休みとカフェに入って軽食を食べていたところで、突然、ざあざあと強い雨が降り出した。
 窓を叩く強い雨は通り雨かと思いきや、すぐに激しい雷を伴う雷雨に変わる。つい先程まで晴れていただけに、店内は私たちと同じように困り顔で、茫然と窓の外を見つめる観光客で溢れていた。
「ちょっとのんびりしすぎたな。台風直撃っぽい」
 携帯で気象情報を検索していた黒尾くんが、渋い顔で低く呟く。朝からの晴天は嵐の前の静けさだったとでもいうように、外の天気は次第に荒れていった。天気が回復するのを待ったところで、一向におさまる気配もなさそうだ。
「かなり強い台風みたいだし、風雨の本番はこの後って書いてある」
「これ、帰れるのかな……」
 ぽつりと呟いた言葉は、我ながらなんとも弱々しく響いた。
「んー、ちょっと待ってろ」
 そう言って黒尾くんは、やおら私を残して席を立つ。どうしたのだろうかと見ていると、すぐ近くのテーブルについていた若いカップルに、黒尾くんは何ごとか話しかけていた。
 しばらく席からその様子を見守っていると、やがて戻ってきた黒尾くんが
「俺らのこと駅まで車で送ってくれるって」
 と得意げな顔で笑った。どうやら彼らが観光客で、車でやってきたのを知ってお願いに行っていたらしい。
「すごい、なんで車で来てる観光の人ってわかったの?」
「テーブルに駐車券載せてたから。あとは聞こえてくる会話の内容でなんとなくな。向こうは近くのホテルとってるらしくて駅までしか無理って言われたけど、それでもここで足止めくらうよりはありがたいよな。駅まで戻ればどうにかなるだろ」
 黒尾くんの言うとおりだった。台風が直撃しているなかを徒歩で駅まで戻ることは、限りなく不可能に近い。快く乗せてくれるカップルと、話をつけてきてくれた黒尾くんには頭が上がらない。
 頼んでいたカフェオレを急いで飲み干すと、店を出るカップルについて私たちも外に出た。

 店を一歩外に出ると、途端に横殴りの雨風が私たちを襲う。実際の天気は、店の中から見ていたよりもかなりひどい状態だった。あまりの雨の強さにほとんど前も見えない。黒尾くんが手を握ってくれていたので、それを頼りに駐車場まで進んだ。
 往来に人の姿はない。二、三時間もすれば水没してしまいそうな道路を、急いで駅まで戻った。さいわい、駅まで戻るのにそう時間はかからなかった。
「電車も止まってるみたいだけど、君たちどうするの?」
 運転席から、カップルの彼氏の方が黒尾くんに尋ねる。その言葉に、思わず血の気が引いた。時計を見ると、すでに現在時刻は午後五時を過ぎている。
 普通の電車ならば待てば動くかもしれないが、東京まで戻る急行はただでさえ便数が少ない。きっと今日中には動かないだろう。まして、台風はこれからさらに勢いを増していく予報である。日が変わる前に東京に戻るのは絶望的だ。
「まあ、どうにかはなると思うんで」
 何でもなさそうな声で言った黒尾くんだったが、それが空元気であることは私には分かってしまって、なんだか余計に不安になった。

 駅でおろしてもらったものの、私たちに行く当てはない。ひとまず駅内のカフェに入り、今後の方針を話し合うことにした。ここも人で溢れかえっていたが、なんとか空いた二人席を見つけてそこにおさまる。全身ずぶ濡れは不快だが、それよりも今はまず考えることがある。
「あー、その、そういうわけだから」
「うん、そうだよね、大丈夫」
 気まずげに言う黒尾くんの言葉を遮り、私は言った。黒尾くんの言いたいことくらい、察するまでもない。東京に戻る手立てがない以上、ここで黒尾くんと一泊していくしかないのだ。それ以外に、私たちには選択肢がない。
「近くのホテル片っ端から連絡して、部屋が開いてないか確認する」
「私も手伝うよ」
「助かる」
 幸か不幸か、ここは日本有数の観光地だ。宿泊施設はごまんとあるし、高望みさえしなければどうにかはなるだろう。最悪、安心して睡眠がとれるならばどこでもいい。
 しかし現実はそこまで甘くはない。ビジネスホテルやカプセルホテル、ついでに言えばカラオケや漫画喫茶まで電話をしたのに、今夜はどこも満室だった。何せ外は台風。動かない電車に足止めされて、やむを得ず宿泊することを決めた人間は私たちだけではない。
 目ぼしい宿泊施設には総当たりして、あえなく玉砕した。時間だけがじりじりと過ぎてゆく。携帯の電池残量も心もとなくなっていき、精神的にも苦しくなってくる。
 こうなったら最後の砦として、終日営業のファミレスかハンバーガー屋にでも行って夜を明かすしかない。快適な眠りは諦めてでも、朝を待つしかない。
 そう考え始めた瞬間、同じように全玉砕した黒尾くんと目が合った。私の目を見た黒尾くんは、じいっと無言で私を見つめる。表情がなく、なんだか空恐ろしい。
 やがて黒尾くんは、溜息をひとつ吐き出したのち、やおら口を開いた。
「もう一か所、というかもう一つだけ、泊まる場所の候補があるんだけど」
「え、泊まれる場所で?」
 期待のあまり、ついつい前のめりになった。ベッドで眠れる場所があるのならば、それに越したことはない。
 期待を込めた目で黒尾くんのことを見つめるが、黒尾くんは何故かひどく渋い顔をしている。視線をそらし、大きな手で口許を覆っていた。まさか、ハンバーガー屋よりも悪い条件の宿があるのだろうか。どれほど劣悪な宿なのか。
 さすがに雨漏りとかがするのはちょっと、と焦りだした時──やっと黒尾くんが口を開いた。
「その、ラブホテル、なんですけど」

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