38

 何発も何発もあがる花火に時々歓声をあげながら、私と黒尾くんはずっと、ただただ空を仰ぎ続けていた。やがてその花火も終盤になる。滝のように光が降り注ぐ花火を打ち上がったのを最後に、花火大会は幕を閉じたのだった。
 あたりに微かにかおる火薬のにおいと、かき氷のカップでぬれた指先。それらが祭の終わりを物語るようで、少しだけさみしい気分になる。
「そろそろ帰ろっか」
 どちらからともなく立ち上がって、河川敷に沿い歩き始める。手と手が触れた拍子に、またどちらからともなく手をつなぐ。人の波に流されるようにして、私たちはもくもくと足を動かした。

 シャトルバス乗り場は大変な混みようだった。それでも幸い、うちの最寄り駅行きのバスは便数が多いのか、ほかの便よりも少しだけ待機列が短い。
「この分ならば次のバスには乗れそうだね」
「だな」
 黒尾くんと一緒に列に並び、ふうと一息吐いた。こういうとき、自宅の方向が同じだと、一緒に帰るのも面倒でなくてありがたい。
 と、その時、ぽたりとひとつぶ、雫が額に滴った。「雨だ」列に並んだ誰かが呟く声が耳に届く。ぽつりぽつりと足元の地面に染みをつくった滴は、瞬く間に本降りになってアスファルトを黒く染め上げる。
「わ、本格的に降ってきたね!」
「傘、傘っと」
 黒尾くんが慌てて鞄から置き傘を取り出す。鞄の中にぐしゃぐしゃに詰め込まれたジャージがはみ出しそうになり、黒尾くんが咄嗟に鞄の中にそれを押し込んだ。
「名前ひとり入るのがギリギリじゃない?」
「だからそれはおかしいよ」
 黒尾くんがひとりで傘を使うならまだしも、私がひとりで使うのでは筋が通らない。渋る黒尾くんを説得し、傘にはふたりで入ることにした。だが、本来ならば黒尾くんひとり入っただけでも荷物が濡れてしまうようなサイズだ。すぐに二人ともびしょびしょに濡れになった。
 部活帰りの黒尾くんの、大きなエナメルバッグは完全に傘からはみ出していて、最早傘は何の意味もなしていなかった。
「びしょびしょだね……」
「だから名前がひとりで入ればって言ったのに」
「黒尾くんがひとりで入ればよかったんだよ」
「頑固か」
 浴衣が濡れ、肌に張り付き薄寒い。だが、そもそもは傘を持ってこなかった私が悪かった。この状況で文句を言っても仕方がない。
「折角浴衣着たのにな」
 そう言って慰めてくれるだけ黒尾くんは優しい。自分もびしょぬれだというのに、黒尾くんは私のことばかり気に掛けてくれている。
 とはいえ喜んでばかりもいられない。このままでは間違いなく、二人揃って風邪をひいてしまうだろう。
 私はたとえ風邪を引いたところで、自分が苦しくなるだけで済む。だが黒尾くんの方はそうもいかない。九月から試合が始まるという今このタイミングで、万が一にも黒尾くんに風邪をひかせるわけにはいかなかった。
 ようやく次のバスが来て、私たちが乗り込む番になる。バスの奥へ奥へと押し込まれ、ようやく発進したところで、私は黒尾くんのシャツの裾を引いた。黒尾くんの視線が、ゆるりと私のもとへと降りてきた。
「黒尾くん、このあと一旦うちで雨宿りしていかない? このバスうちの最寄りにつくから、そこから濡れたまま冷房のきいた電車に乗るよりも、一回ちゃんと温まった方が良いよ」
 さっき黒尾くんのエナメルバッグの中にジャージが入っているのが見えた。使用済みとはいえ、着替えがあれば多少は寒い思いをせずとも済む。
 我ながら妙案だ。しかし黒尾くんは、何故だか妙に渋い顔をする。
「あ、大丈夫。今日は親と鉢合わせするようなことにならないから。うちの両親今夜は出掛けてるし、さっき携帯見たらおばあちゃんちに泊まってくるって連絡きてたし!」
 母からのメッセージを思い出し、それをそのまま黒尾くんに伝える。メッセージには明日の朝帰るから、戸締りをきちんとしておくよう書いてあった。そういうことはよくある。黒尾くんがうちで雨宿りをするというのならばそれは都合がよかった。
 黒尾くんはまだ渋い顔をしている。もしかして、逆に両親不在の我が家に勝手に入ることを申し訳なく思っていたりするのだろうか。いや、そもそも我が家に上がることからして嫌がられているんだろうか。
「あ、いや、別に無理にとは言わないんだけどね……」
 ぼそぼそと付け足すと、黒尾くんが咳払いをひとつする。
「いや、そういうわけじゃねえけど……。まあいいや、名前がいいなら、それなら、まあ、……ありがたくお邪魔します」
 いまいち歯切れの悪い言い方ではあったが、ひとまず話はまとまった。ほっと胸を撫でおろし、私たちはそれきり口をつぐんだ。

 二十分ほどバスに揺られ、すっかり身体が冷え切った頃、ようやく地元の駅に到着した。ほかの乗客に押し出されるようにバスを降りると、また小さな傘で相合傘しながらうちに向かう。
「そういえば黒尾くん、うちの中まで入るのはじめてだね」
 私のことを迎えに来てくれたり、うちの前まで黒尾くんが来ることは何度かあったが、家の中まで招き入れるのははじめてだ。
 付き合ってもうすぐ半年。けして黒尾くんを我が家に招くまいとしていたわけではない。ただ、わざわざ家に黒尾くんを招くような理由もなく、そのまま現在に至っていた。どちらかが一人暮らしをしていれば話は違ったのかもしれないが、如何せん自宅暮らしふたりではデートはどうしても外になる。
「今バスタオル持ってくるからそこで待っててね」
「お邪魔します」
 黒尾くんを玄関で待たせたまま、濡れた足でぺたぺたと洗面所まで走る。締め切った家の中はむっとした熱気に満ちていた。雨で濡れた浴衣が足にまとわりついて、どうにも鬱陶しい。
 自分の分と黒尾くんの分のバスタオルを持って、急いで玄関まで戻る。と、玄関には何故か上半身裸の黒尾くんがいた。戻ってきた私を見て「お」と呟く。
「ちょ、ちょっと!? な、なな、なんで服脱いでるの!?」
 思わず叫び、黒尾くんの胸にバスタオルを押し付ける。顔はしっかり横に背ける。
 上半身だけとはいえ、これまでの人生で男の人の裸なんて父親の裸くらいしか見たことがない。もっと幼いころには水泳の授業で見たことはあるが、なんというか、黒尾くんの身体はそういうものとはまるで質が違うのだ。とてもではないが直視できたものではない。
 それでもちらりと目に入った黒尾くんの身体は、さすがにずっとバレーを続けているだけあって、かなりがっしりとしていた。私のものとはまるで違う、紛れもない男の人の身体。急に胸がどきどきして、落ち着かない心地になった。
「悪い、濡れた服のまま家のなか上がるのも悪いかと思って」
 私から受け取ったバスタオルで髪を拭きながら、黒尾くんはしれしれと言う。そんな風に言われてしまえば、過剰反応を示した自分こそが恥ずかしい人間のようで、途端に別の意味で顔が熱くなった。
「そ、それもそうだね、そうだよね、そっか、そっか……」
「名前挙動不審すぎ。やーらしー」
「やらしくない!」
 にやにや笑う黒尾くんに大声で抗議して、私も顔が見えないように髪をぐしゃぐしゃと拭いた。

 玄関でしっかり水気を拭きとって、黒尾くんを洗面所に案内する。ひとまず黒尾くんにシャワーを浴びてもらい、その後私もお風呂に入るつもりだった。浴衣はただでさえ着脱が面倒だし、自分が入った後のお風呂場に黒尾くんを入れるのには、妙にはっきりとした抵抗感があった。
 そもそも、黒尾くんに風邪をひかせてはなるまいと、こうして家までついてきてもらったのだ。黒尾くんを濡れたまま放置するわけにはいかない。さっさとしっかり温まってもらわなければ困る。
 上半身裸の黒尾くんを洗面所に案内して、もろもろの設備の説明をする。バスタオルはさっき使ったものをそのまま使ってもらって、シャンプーやリンスはこれ、温度調節はここ。できるだけ黒尾くんを直視しないように、駆け足で説明する。顔に熱がたまっているのが自分で分かった。
「そ、それじゃあ、あの、私は向こうで待っているので」
 急いでそれだけ言うと、黒尾くんのわきを通り抜け、脱衣所を出ようと足を踏み出す。そのとき、私の肩が黒尾くんの腕にぶつかった。下ばかり見ていたせいで、視界が狭くなっていたらしい。驚き、肩がびくりと跳ねた。
「あ、ご、ごめんね……」
 自分がいやにどきどきしているのを、黒尾くんには悟られたくなかった。繕うように謝って、そのまま脱衣所を出ようとする。が、私の腕をつかんだ黒尾くんの手が、それを阻んだ。
「待って」
 黒尾くんの声が狭い脱衣所にこもる。その声を耳がとらえた矢先、ふいに視界を奪われた。半拍遅れて、やっと気付く。黒尾くんが私を引き寄せ、そのままきつく抱きしめていた。
 黒尾くんの胸板が、私の顔にぎゅうと押し付けられている。
「えっ、く、黒尾くん」
 ほとんど包み込むような体勢で抱きしめられ、濡れた浴衣が肌に張り付いた。その上に、黒尾くんの腕が回っている。濡れた布地はやけに生々しく温度を伝え、黒尾くんと私の肌の境目を怖いほどに曖昧にした。
 はっと上を見上げて、視線を合わせる。途端に身体がこわばった。
 先ほどまで一緒に花火を見ていたときの黒尾くんとは違う、まっすぐな瞳。その瞳が迷いなく、一心に私を見つめていた。射るように、穿つように。私の目を通して心の中を覗き込もうとしているように。
 そんなことを考えていたのも束の間、すっと黒尾くんの顔が近づいてくる。息を吸うより先に唇と唇が触れて、腰に回された手が再び強く私を抱き寄せた。密着した身体。熱い手。角度を変えながらも途切れることない口づけに、いつもよりも息苦しくなる。
 それはあまりにも唐突で、ぶつけるような口づけだった。たまらず息継ぎをしようとした矢先、ぬるりと温かいものが唇に触れる。息を呑んだその瞬間に、厚い舌を割り入れられた。
 そうしてまた、何度も何度も深く口づけられる。息が苦しくて身をよじるのに、体格差のせいで身じろぎすることもかなわない。自分の内側から聞こえる水音に、膝に力が入らなくなった。
「ん、……んっ、んんぅ」
 遠慮なく口の中を舐めつくされ、隅から隅まであらためるような黒尾くんのキスに、おさえきれない荒い息が洩れる。黒尾くんの息遣いも少しずつ荒くなっていって、それが余計に私たちの感情を煽るようだった。黒尾くんの舌の動きに慣れないまま、それでも必死でついていこうとするけれど、頭がぼんやりしてうまく思いを返せない。
 そうしているうちに腰に回された黒尾くんの手が、するりと浴衣の上から私の身体をなぞった。不意打ちのその行為に、思わず身体がびくりと反応した。その反応を確かめるようにして、黒尾くんが手をだんだんと下におろしてゆく。その間もキスの嵐は止むことがなく、今にも腰が抜けてしまいそうなくらい、私の身体から力が抜けてゆく。もしも黒尾くんの腕が離れたら、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「んあ、黒尾く……待って、」
 絞りだすようそう言うのに、黒尾くんの身体を押し返す腕には力が入らない。自分で自分をうまくコントロールできないようで、途方もない不安に襲われた。
 このまま黒尾くんに身を任せていたら、きっとどうにかなってしまう。そんな不安が胸を過ぎる。この行為のその先に何があるのか、何も知らないほど私も子供ではないけれど、実感を伴って何があるのか言葉にできるほど、私は大人でもない。
 黒尾くんは、その先を知っていてこんなことをしているの?
「あ……」
 ふいに黒尾くんが、私から身体を引いた。私を支える腕はそのままに、嵐のような時間は唐突に終わりを告げる。
 私は半ば以上呆けた頭で、黒尾くんの顔を見上げた。黒尾くんの薄く開いた唇は、何の言葉も紡がない。ただじっと、もの言いたげな瞳で私を見ているだけだ。
 何か言わなければ──そう思うのに、こんなときに限って何も言葉が出てこなかった。体が、指が、口が、思うように動かない。
「……俺、先にシャワー借りる」
 黒尾くんのその言葉を聞いて、私は弾かれるようにして洗面所を飛び出した。幸い膝に力も戻っていた。
 何時の間にか崩れた浴衣の襟もとを、このあと脱ぐだけだというのにわざわざ手で直しながら、自分の部屋へと急ぐ。脱衣所から、黒尾くんから、あの行為から逃げ出すように。
 そうして慌ただしく部屋に飛び込んで扉を閉めると、そこで緊張の糸が切れたようにぺたんと座り込んだ。
 ばくばくと心臓が鳴っている。痛いくらいの鼓動が、私の全身の血管を今にも破らんとしている。
 あの時の黒尾くんの熱がうつったように、顔が熱い。乱れたままの呼吸が、先ほどまでのあの熱が現実であることを、私に伝えてくるみたいだ。
 現実から逃避するようにぎゅうと目を瞑るのに、ひとつの感触すら遠ざけることはできなかった。私にふれる黒尾くんの大きな手。私の腰やそれより下を撫ぜる、掌と指先。侵略するように荒々しく絡めた舌。そのどれもが、私の知っている黒尾くんじゃなかった。熱くて強くて、そして怖いくらいに真剣だった。
 長い長い溜息をつく。
 どうしてあんな風にキスしたの。どうしてあそこでやめてしまったの。
 黒尾くんに訊けるはずのない問いは、澱のように心の中に沈んでいった。

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