03

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 学校から帰宅して携帯を確認すると、黒尾くんからまたしてもメッセージが来ていた。お昼の応酬の続きのつもりなのだろうか。内容は他愛ないもので、スタンプひとつ返せばそれで事足りる。けれどそれではせっかくのメッセージに味気ないような、もったいないような気もする。
 結局、制服を着替えながら、私は返信の文面をもくもくと思案した。

 それにしても、今日連絡先を交換したばかりの私にこうもメッセージを送ってくるなんて、いくら受験が終わっているとはいえ、黒尾くんはずいぶん暇らしい。考えてみれば今は一、二年生の試験期間中だ。部活に顔を出して暇をつぶすこともできず、さりとて受験真っただ中の友達に絡むこともできず、結果黒尾くんと同じく受験が終わっている私に白羽の矢が立ったのかもしれない。
「まあ、私も暇だし……ありがたいといえばありがたいんだけども」
 誰にともなく、ひとりごちる。
 音駒高校と我が家は、だいたい自転車で二十分くらいの距離にある。中学三年のとき、都立で授業料が安く、くわえて家からも近いという理由だけで進学先を決めた。音駒の偏差値はけして低くはないが、おそろしいほどの難関高校でもない。私の学力でも十分に狙えるレベルだ。
 そういう諸々の事情により、高校在学中はあまり勉強に困らず済んだ。大学受験で推薦がもらえたのもそのおかげだ。
 しかし受験勉強も部活もない今の時期、家と高校が近い私は放課後の時間をかなり持て余している。学校が終わってから寝るまでが長すぎる。周りの友人はみんな電車通学で帰り道は一緒にならないし、そもそも一般受験を控えた受験生ばかり。のほほんと気楽な私なんかと遊んでくれるはずもない。
 そこへいくと黒尾くんがこうしてかまってくれるのは、黒尾くんにはまったく申し訳ないことだが、暇つぶしにうってつけだったりする。私は制服を脱ぎながら、受信したばかりのメッセージの内容を確認した。先ほど返信したばかりのメッセージに、さらに返信が来ていた。
 ”そういえば、名字さんってチャリ通なの”
 その文面に一瞬おや? と思う。話題がまるっと代わったことに、ではない。電車やバス通学者の多い音駒生のなかにありながら、黒尾くんが私の登下校の手段を知っていることが意外だったのだ。
 私が自転車で通学しているところでも、見られていたのだろうか。もしかしたら今日、ついさっき下校するところを見られたのかもしれない。私が教室を出たとき、黒尾くんは教室の窓際でぼーっとしていた。うちの教室の窓からは駐輪場が見えるはずだ。
 部屋着のスウェットを頭からかぶり、私は返信を打つ。
 ”そうだよー”
 ”家近い?”
 ”自転車で二十分くらい”
 黒尾くんからのメッセージは、ほとんど間を置かずに返ってくる。まるで向かい合って話をしているみたいだ。
 ”まじ? 近いの羨ましい”
 ”黒尾くんは?”
 ”電車。俺根炭中だったけど分かる?”
 根炭ならば、私の家のある学区のすぐ隣の学区だった。根炭中の出身者には知り合いもそれなりにいる。
 ”校区お隣さんじゃない? 私光が山中だった”
 ”え、じゃあチャリ通結構きつくね? 音駒までの道、坂じゃん”
 ”案外いけるよ。慣れかな?”
 ぽちぽちと返信しながらも、内心激しくうなずいた。黒尾くんが「きつい」と言っているのもその通りで、うちから音駒までは結構な坂道が続く。それでも最寄りの駅は高校と反対方向にあるからと、無理に自転車で通っているのだ。
 根炭学区は駅に近い。それに周辺に大きな施設がいくつもあることで、音駒に通うにも迂回路を通らねばならず、結果ずいぶんと遠回りになってしまう。自転車で通えないこともないのだろうが、家が駅に近いのであれば電車を使った方が早くて楽だ。

 それにしても、私と黒尾くんには意外と接点が多い。中学の学区は隣だし、進学予定の大学もご近所だ。それだけ見ても、私たちの生活圏はかなりかぶっている。今まで話をしなかったのが不思議なくらいだった。もしも今日図書室で話をしなければ、今後もご近所さんだということを知らないまま、高校を卒業していたのかもしれない。
 世間の狭さに思いを馳せると同時に、こうして話す切っ掛けをくれた黒尾くんにしみじみと感謝する。こういう如才なさが、きっと黒尾くんのモテる所以なのだろうとも。
 思い返してみれば、黒尾くんは図書室で会ったときにも感じがよかった。それにお昼も今も、こうして他愛ないメッセージを送ってくるマメさがある。私にはないまめまめしさに感動するのと同時に、こういうことを言い寄ってくる子や仲のいい女の子全員にやっていたら、さすがに収拾がつかなくなってしまうんじゃないだろうか、とお節介なことまで考えてしまう。
 もしも惚れっぽい女の子が相手だったら、あの黒尾くんにまめに連絡をもらえるというだけで、きっと舞い上がってしまうだろう。うっかり好きになってしまう可能性だって十分にある。斯くいう私だってそうだ。素敵な男子からこうしてまめに連絡をもらえば、当然嬉しくないはずがない。
 どちらかといえば私は、人生に恋愛を必要としていない方の人間。そりゃあ彼氏がいて毎日楽しそうな女の子たちを見れば羨ましいと思うものの、わざわざ好きな人をつくろうとまでは思っていない。出会いがあればラッキーだね、とその程度でかまえているせいで、ここ二年はそもそも好きな相手すらいない。
 そんな風に女子として枯れ始めているところに、気さくで面白くてかっこいい黒尾くんと親しくなんてなってしまったら。受験が終わった解放感とあいまって、なんだか楽しい気分になってしまっても仕方がないのではないだろうか。
「いや、いや。このくらいのことで好きになったりはしないんだけども」
 自分に言い聞かせるように、私はあえて思考を声に出した。
 こういうときにこそ相談したい友人は、目下受験勉強中でそれどころではない。連絡をくれるのは家族か黒尾くん本人だけ。行き詰ってる感があるなあ、と思わずにはいられない。
 いや、でもまだ誰かに話したいほどの何かがあるわけではないのだし。
 繰り返し自分に言い聞かせたところで、手のなかの携帯がメッセージを受信した。

 ”なんか俺ら、結構縁あるなー”

 その文面に、胸の真ん中あたりが突然うずうずむずがゆくなった。思わず携帯を布団の上に放り投げ、続いて自分もベッドにダイブする。
 何故だかまったく分からないが、むしょうに照れて仕方がない。手足をじたばた暴れさせ、ふうんと大きく息を吐く。特別な文面ではないはずなのに、短い文章の中からこちらの何かを探るような、駆け引きのようなものを感じてしまう。
 それともこれを駆け引きだと思ってしまう時点で、私は黒尾くんに踊らされているのだろうか。今日初めてちゃんと話したばかりの男子相手に、こんなふうに浮かれるのはどうかしているかもしれない。
 ぐるぐると、まとまりのない感情が胸の中で行ったり来たり忙しない。しばらく唸って悩み抜いたすえ、
 ”私も同じこと思ってた”
 その一文にスタンプを添えて送信し、私は枕に顔を沈めた。

 ★

 翌日は悶々とした気分のまま登校した。昨日黒尾くんからのメッセージを読んでからというもの、心臓がいやにざわついて仕方ない。あの後もメッセージの遣り取りは続いたが、差し障りのない内容ばかりなのが、却って私の心をやきもきさせた。
 鈍感な私でも、こういう状況が何を意味しているのかは分かる。まさか自分が、こんなに簡単に心をときめかせてしまうとは、思ってもみなかったというだけで。
 ともあれ、もやもやするようなふわふわするような、そんなどっちつかずの気分。そんな状況でまさか熟睡などできるはずもない。今朝の目蓋がいつもよりもずっと重いのは、夜通し悶々としていたせいだ。
 しかしそういう時に限って、私の頭を悩ませる相手が目の前にあらわれる。登校して早々、昇降口で黒尾くんとばったり会ってしまった。今までならば特に気にすることもなくスルーしていたのだろうけれど、一度意識し始めると、これでもかというくらい目につくようになるものだ。
 マフラーに顎をうずめてながら大きなあくびをした黒尾くんは、金髪の子と肩を並べて歩いていた。しかしこちらに気が付くと、「よお」と気楽な態度で私に向って手を挙げた。その些細な動作にすら、少しだけ心臓がはねる。
「はよ、名字さん。寒ィのに今日もチャリ?」
「そうだよ、手袋二重にして分厚いタイツ履いてるけど耳ちぎれちゃいそう。いっそ雪でも降ってくれたら、諦めて電車に乗るんだけど」
 よく分からない緊張のせいで、必要以上に言葉数が増えてしまう。黒尾くんに怪しまれませんように、と心の中で祈りながら視線を逸らすと、逸らした先で、くすんだ金髪の髪が目に入った。
「黒尾くん、そっちの子は後輩?」
「そ。で、幼馴染」
 幼馴染と紹介された金髪の子と、一瞬だけ視線が合う。長い前髪の下からのぞいた瞳が、探るように私を見た。少しだけ頭を下げると、向こうも義理で頭を下げてくれる。しかしすぐに視線はそらされて、猫のような大きな目は手元のゲームに視線を向けてしまった。
 名前を聞きそびれてしまったが、きっと人見知りなのだろう。となれば、初対面の私がここにいては、さぞかし気まずいに違いない。
「じゃあ黒尾くん。あとで、また教室で」
 そう言って私がそそくさとその場を立ち去ろうとすると、黒尾くんに「名字さん」と呼び止められた。
「同じ教室行くのに何そんな急いでんの」
「あ、いや、ええと……お邪魔かなって思って」
「お邪魔って、俺と研磨に? 研磨二年だからどっちみちここで別れるし。一緒に行こうぜ」
 にやりと笑ってそう言われ、私はどうしていいものか返答に詰まってしまった。
 私が先を急ごうと思ったのは、もちろん金髪の子に遠慮したというのもあるけれど、一番は黒尾くんと顔を合わせているのが少し気恥ずかしいからだ。
 何せ黒尾くんは、『もしかしたらちょっと好きになりかけているかも』という相手。気持ちに整理がつくまでは、できるだけ慎重に距離を詰めていきたかった。黒尾くんのペースにこのまま巻き込まれていくと、ずるずる黒尾くんのことを好きになってしまいそうな気がして、正直気が気じゃないのだ。
 出会ったのは二年前でも、ちゃんと知り合ったのは昨日から。それなのにこんなにもハイペースで惹かれているというのは、ちょっと尋常なことではない。このままのペースで黒尾くんに惹かれ続けたら、途中で息切れしてどうにかなってしまうかもしれない。
 だが私がそんな戸惑いを抱いていることなど知るはずもなく、黒尾くんはひらひらと金髪くんに手を振ってしまう。
「そういうわけで。じゃあな、研磨」
 金髪くんが浅く頷き、私たちに背を向けた。そうか、金髪くんは研磨くんという名前だったのか。現実逃避でもするように、思考を金髪くん改め研磨くんのことでいっぱいにした。
 あの研磨くんも、黒尾くんと同じくバレー部の子なのだろうか。強豪バレー部ともなれば、みんな黒尾くんみたいに身長の大きな人ばかりなのかと思っていたが、研磨くんは黒尾くんに比べれば少し、いやだいぶ身長が低い。夜久くんのようにそう長身でない部員もいるが、ポジションによってはバレーに身長は大きく関係しないのだろうか。なにぶんバレーには詳しくないので、考えたところで正解が分かるわけでもない。
 しかし、私の現実逃避もそこまでだった。
「何考えてんのか当ててやろーか」
 にやにやと笑っている黒尾くんが私の顔をのぞきこみ、飛び跳ねるほど驚いた。
「え、そんな驚く?」
「ご、ごめんね……」
「ぼんやりしてるなとは思ったけど」
 揶揄うような声音に黒尾くんを見上げれば、そこには妙に意地悪そうな表情を浮かべた黒尾くんの顔がある。親しいわけでもないクラスメイトの女子に向けるには、その顔は少しばかり親しさと茶目っ気を滲ませ過ぎていた。
 あ、この顔好きかもしれない。
 胸に感じた『どきっ』を隠すように、私は黒尾くんから顔を背けて俯いた。
「今、名字さんが何考えてるか当ててやろう」
「絶対無理だと思う」
「黒尾くん今日もかっこいいなー、だろ」
「申し訳ないけど全然違うよ」
 自意識過剰すぎだよ、と笑うと、黒尾くんもおかしーなー、と笑って言う。なんだ、悶々どきどきしてた割には普通に話せるじゃないか。さっき『どきっ』としたことが馬鹿らしくなってきて、私は黒尾くんと並んで教室に向かった。

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