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「名前、今日雨降るらしいから、途中でお祭り中止になるかもよ。折り畳み傘持っていったら?」
「ええー、浴衣用のかばんに折り畳み傘なんて入らないよ」
「ずぶぬれになったら困るでしょ」
「もう、なんで今日に限って雨予報なのーっ!」
 母親に浴衣を着つけてもらいながら、私は悲鳴みたいな声を上げた。

 花火大会当日。バイトは昼で上がり、洗濯してもらっておいた浴衣を手に、私は母のもとに急いだ。自分では浴衣なんて着られないので、着付けは母に手伝ってもらう。
 大学生になるんだからと去年新調した浴衣は、落ち着いた紺の地と黄色や橙のモダン柄。これなら黒尾くんの隣に立っても妹みたいにはならないはずだ。
 網戸の外からはセミの鳴き声が聞こえていた。窓の外に視線を移すと、たしかに母の言う通り、雲が低く変な天気だ。今にも雨が降り出しそう。思わず溜息を吐く。
「花火が終わったらすぐ帰ってくるつもりだから、それまで天気がもってくれるといいんだけど」
「お母さんたちもおばあちゃんちで花火観てくるから、出掛ける時は鍵は持っていきなさいよ」
「そういえばそんなこと言ってたね。おばあちゃんによろしくね」
「たまには自分で顔を出しなさいよ。近いんだから」
 母の言い方が小言めいてきたので、これ以上余計なことを言わぬよう私は口をつぐんだ。
 祖母の家は我が家と同じ市内にある。花火大会の会場でもある河川敷からほど近い住宅街で、ひとり暮らしを満喫しているふうだ。
 ひとり暮らしでは何かと不便だろうと、父と母は祖母をたびたび訪ねている。特に花火大会の日は祖母の家の二階のベランダから花火がよく観えるので、私が幼いころは毎年祖母の家に行って花火を観ていた。
 ここ数年、私は家族の花火鑑賞会には不参加だ。理由は色々あるが、花火大会には友達と行くようになったからというのが大きい。もっとも今年は友達ではなく黒尾くんと花火を見に行くのだが、もちろんそのことを両親と祖母は知る由もない。
「おばあちゃんち行って、お母さんたちそのまま泊まってくるの?」
「帰ってくる予定だけど、遅くなるかもね。なんかおばあちゃん最近調子良くないみたいだから。名前もたまには顔だしてお手伝いのひとつでもしてあげなさい」
 はい、できた。そう言って、母が私のお尻を軽く叩く。いそいそと全身鏡を覗き込むと、鏡の中の私はヘアメイクも浴衣仕様にして、満足そうな顔をしていた。浴衣の柄が大人っぽすぎないかと不安だったけれど、化粧もして髪も可愛く結わえたのでちょうどいい塩梅になっている。
 出掛ける支度をしていると、家の外から女の子たちの楽しげな笑い声が聞こえた。うちの前を浴衣の女の子が歩いていくのが時折見える。
 黒尾くんには浴衣を着ていくことを伝えていない。浴衣は毎年着ているから、黒尾くんのために着付けたわけではなかったし、そもそも浴衣かどうかなど聞かれてもいない。聞かれていないことをわざわざ話しはしなかった。
 黒尾くんは可愛いと思ってくれるだろうか。そうだったらいい。可愛いと思ってくれたら嬉しい。鏡に向かって全身の最終チェックをしながら、そんなことを思った。

 ★

 結局折り畳み傘は持たず、雨が降らないことを天に祈りながら家を出た。浴衣が崩れないように気を付けながらも、時間が押しているので少しだけ小走りで駅に向かう。
 黒尾くんは部活が終わりしだい、そのまま待ち合わせ場所である花火大会会場の最寄り駅に来るらしい。一度地元に帰ってくると遠回りになってしまうし、時間もぎりぎりになってしまうそうだ。会場の最寄り駅は混雑しているだろうが、待ち合わせできないほどではない。
 駅や電車の中には、浴衣の女の子の姿がそこかしこに見える。色とりどりの浴衣はまるで花が咲いているようだ。
 電車に揺られながら携帯を確認すると、黒尾くんから ”もうすぐ着く” と連絡が来ていた。 “私も” と返事を返す。すぐに既読がついて、あ、今黒尾くんも携帯を見ながら電車に乗っているんだな、と嬉しくなる。
 付き合ってもうすぐ半年になる。それなのに、いつまでたっても待ち合わせのときには胸がどきどきする。全然慣れない。倦怠期なんてものは今のところ微塵も感じられず、それどころか日々黒尾くんへの思いは募るばかりだ。
 毎日黒尾くんの新しい一面を知る。
 毎日黒尾くんへの『好き』を更新する。
 今の私たちの関係は、多分すごく安定していて、だからこそ私は安心して黒尾くんのことを好きでいられる。好きすぎるのかもしれないという不安はあれど、ネガティブな感情はほとんどない。そしてそれはひとえに、黒尾くんがそういう関係を保つために努力を尽くしてくれているからだ。私はきっと、とても恵まれた恋愛をしているのだろう。
 窓の外の流れる景色を眺めながら、そんなことをふと考えた。

 改札を出るとすぐ、ごった返す駅の中で頭一つ抜けた黒尾くんの頭が目に入った。こう混雑していては、黒尾くんが普通サイズの私を見つけることは容易ではないだろう。こういうとき、大きい彼氏はありがたい。
「黒尾くん!」
 人の波に押されながらなんとか黒尾くんのもとまで近づいて、つい、とTシャツの裾を引っ張った。黒尾くんが、遠くに向けていた視線をやっと私のもとまで下ろす。ぱちりと視線が合った。
「お待たせ、駅すごい人だね」
「ん? ん、ああ、そうだな」
「ここから会場までちょっと離れてるし、行きは出店をいろいろ見ながら歩くにしても、帰りはシャトルバスに乗れるといいね」
 そんな話をしながら手をつなごうと指を絡めようと手を重ねる。と、
「待って」
 黒尾くんは私の手をくいっと軽く引き、それからわずかに身をかがめると、私の耳元に口を寄せた。
「俺にも喋らせろって。何? 浴衣着るとか聞いてないんだけど。すげえ可愛くてびっくりした」
「えっ、本当?」
 思わず声が上ずる。期待していた言葉のはずなのに、実際に黒尾くんの声で囁かれるとこんなにもどきどきしてしまう。
「本当に似合ってる?」
「似合ってる。いや、まじで浴衣着るなら言っといてよ。そのサプライズなんなの? 嬉しいんですけど」
 黒尾くんの嬉しそうな顔を見て、私もつられて嬉しくなった。やっぱり浴衣を着せてもらってよかった。
 浴衣の私に合わせて、いつも以上にゆっくり歩いてくれる黒尾くんに胸をときめかせながら、私たちは花火大会の会場へ向けて歩き出した。
 駅から会場までは歩いて十分ほどだ。駅から会場までの車道は完全に車両通行止めになり、道の両脇にずらりと屋台が立ち並ぶ。
 花火までにはまだ少し時間がある。ここはやはり屋台での食べ歩きこそが、花火大会の醍醐味だ。
 りんご飴にたません、イカ焼き、かき氷、チョコバナナ。色鮮やかな屋台の看板に視線を走らせながら、何を食べるか相談して歩く。まだ夕方で辺りも明るいが、部活終わりの黒尾くんはもちろん、昼食をはやめに食べた私もお腹が空いている。
「とりあえずから揚げはマストで」
「名前、いっつも肉食ってない?」
「おいしいから仕方ないよね。あと屋台で買うから揚げってやたらと美味しい」
「いや、分かるけど」
 屋台をよく見て、同じ食べ物でも個数の割に値段が安い屋台を吟味して買う。ふたりとも腹ペコなので、買い惜しみはしない。その結果、会場である河川敷に着くまでの間に、から揚げ、イカ焼き、とうもろこし、フランクフルトと、目につくものを次から次へ買うことになった。
 彼氏の前なのに何の躊躇いもなくイカ焼きに並ぶ女子って、きっと可愛くないだろう。イカ焼きをすべて食べ終えてから、そのことにはたと気付く。
「なんかごめんね、普通におじさんみたいな食べ物が好きで……。なんというか、あんまり可愛げがないよね、イカ焼き……」
「別にいんじゃねえの。枝豆とか普通にうまいよな」
「そう、最高なんだよね」
 苦笑いすることもなくフォローされ、私はほっと胸を撫でおろした。黒尾くんが彼氏でよかった。
「つーか名前が食べるの好きだってことは最初から知ってるし。俺も食うの好きだし、共通の趣味だろ」
「た、たしかに……」
「むしろ夏祭りまで来て好きなもん我慢される方が俺は気になる」
「懐の広い彼氏に感謝……。私もいっぱい食べる黒尾くんが好きだよ」
「知ってる」
 河川敷の土手になんとか二人座れるスペースを探し、持ってきたビニールシートを敷いた。こういうものを持ってきているから妙に荷物が嵩張り、結果として置き傘を持ってくることができなかったわけだが、それはもう考えても仕方がないことだ。
 すでに河川敷は人で埋め尽くされている。座るところを確保できたのはラッキーだった。
「名前はまだ何か食べる? 俺ちょっと食べるもの買いたしてくるけど。歩くの大変だろうし、名前はここで待ってていいぞ」
 黒尾くんの言葉に甘えて、ビニールシートに腰を下ろす。ちょうど下駄をはいた足が痛くなってきたころだった。
「うーん、じゃあかき氷かな。いちご」
「メロンとかブルーハワイとかでなくていいの?」
「なんで舌の色えげつなくなるやつばっかり選ぶの?」
「冗談。いちごな、了解」
「お願いしまーす」
 黒尾くんを送り出して一息つくと、私はぼんやりと周囲を見回した。
 さすがに地域で一番の花火大会なので、家族連れやカップル、友人同士や社会人グループなど客層は幅広い。その幅広い客たちがみな一様に花火を待ちかねている様子が、なんだか微笑ましくもある。
 時計を見ると花火の打ち上げ開始まで十分を切っている。いつのまにか、空は深い色に変わっていた。頭上にはやはり、重く暗い雲がたちこめている。この分だとそう長くはもたないはずだ。花火があがっている最中に雨が降ってくるかもしれない。
 ここまできた以上、小雨程度ならば雨天決行だとは思うけれど、念のため駅のコンビニでビニール傘を買って来ればよかった。黒尾くんが置き傘を持ってきていればいいのだが、最悪ふたりでずぶ濡れで帰るしかなさそうだ。
 しばらくして黒尾くんが戻ってきた。両手にかき氷、ズボンのポケットにラムネを突っ込んでいる。わんぱく腹ペコ坊主という様相に、思わず笑ってしまった。
「お待たせー」
「ありがとう、すごい沢山買ってきたね」
 お礼を言って受け取ると、黒尾くんも空を見上げて「降りそうだな」と小さく呟く。ふんふんと鼻をひくつかせた。
「空気も湿ってるもんな」
「黒尾くん折り畳み傘持ってる?」
「持ってはいるけど、小さいのひとつだけだから相合傘するにはちょっと厳しいな。名前ひとり入るには十分だと思うけど」
「なんで黒尾くんの傘に私がひとりで入ることになるの」
「それは、俺の方が風邪ひかなさそうだから?」
「黒尾くんが使ってよ。黒尾くんの傘なんだし」
「このまま降らないのが一番だけどな」
 夜空を見上げながら話をしていると、にわかに辺りが騒がしくなった。それとほぼ同じくして、夜空に一発目の花火が上がる。真っ赤な花火が、どんという低い音と同時に大きく花開く。
「お、始まった」
 わあっと歓声があがって、すぐに二発目三発目の花火もあがった。連続して何発も打ちあがる花火を、そこにいる全員がみんな空を仰いで見つめている。
 毎年観ている花火なのに、こんなにもきれいに思えるのはなぜだろう。じんじんと熱くなる胸に手をあてていると、隣でラムネを飲んでいる黒尾くんが「夏だなー」と一人ごちた。
 黒尾くんと付き合い始めたのはまだ春の訪れを感じることも少なかった頃だ。桜も咲いていなくて、並んで歩く道は肌寒かったことを覚えている。
 それが、ふたつの季節を一緒に過ごし、そして今、こうして夏を終えようとしている。
 黒尾くんと一緒に過ごしたはじめての春、そしてはじめての夏。何もかもがはじめてで、何もかもが愛おしかった。何もかもが幸福だった。
「一緒に花火見れてよかったな」
「うん、来年も一緒に見たいね」
 そう笑って答えると、黒尾くんもそうだなやわらかく微笑んだ。

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