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 はじめて足を踏み入れるプラネタリウムの内部には、映画館のような座席が、前後で広めに間隔をあけて整然と並んでいた。ドーム状の天井は壁との境目もなく、端から端まですべてスクリーンになっている。思わず感嘆の息が洩れた。
「感動するの早くね?」
 淡い青の照明に照らされて、青く沈んだ黒尾くんに笑われる。
「だってずっと来たかったんだもん。もう、なに? わくわくがすごい」
「わくわくがすごいって感想しか出てこない名前がすごい」
 座席は自由になっており、原則として入場順に好きな場所を選ぶ。私たちは後ろの方の、隣り合わせたふた席を選んだ。座席の前方は一段高くなっていて、マイクが設置されている。黒尾くんの身長を考えれば、できるだけ後方の席に座った方がほかの客に親切だ。
 後からあとから入ってくる客は、私たちと同じくカップルばかり。先ほどめでたく付き合ったカップルも、にこにこしながら入ってきた。受付でもらったパンフレットを見てみると、夜の回は多少大人向けの難しい内容になっているらしい。
「パンフレット見る限り、爆発とかはしなさそう。黒尾くん残念だったね」
「言われなくても分かってますーぅ」
 いつも言われるばかり、やられるばかりなのでたまには反撃してみた。黒尾くんがすねた顔をしたので、してやったりという気分になる。
 席についてぼんやりしていると、ほどなくしてプログラム開始のアナウンスが流れた。夏休みだからだろうか、平日の夜だというのに場内はほとんど満席だ。静かなざわめきの後ろで、幽かにBGMの音楽が流れ始めた。
『本日はようこそ、広大な宇宙の片隅へ』
 落ち着いた女性の解説員の声で説明が始まる。
『今宵のプログラムではギリシャ神話や天体について、少し専門的な内容にも触れていく予定です。ですが肩肘を張らず、どうぞゆるりとお楽しみください。この美しい星空を眺め、日ごろの疲れを癒し、そして少しだけ星に興味を持っていただければ幸いです』
 クッションのきいた座席に身体をあずけ、ぼんやり説明を聞いていると、どこからか微かにいい香りが漂ってくる。おや、と思い暗闇で目を凝らして手元のパンフレットを見ると、プログラム中はアロマを焚いていると書かれていた。なかなか趣向が凝らされている。
 ふと隣の黒尾くんを見ると、私と同じようにぼんやりしながら天井に映し出された疑似星空を眺めている。その表情がいつもより何処かあどけなく見えて、こうやって見ると普通の男の子だなあ、と微笑ましく思う。
 暗闇に乗じて、そっと黒尾くんに肩を寄せた。肩と肩が触れるか触れないかの距離だ。黒尾くんがこちらを見ているのには気が付かないふりをして、頭上の星空を見つめた。
 星の名前なんて分からないが、こうしていると本当に、黒尾くんと一緒に天体観測をしているような気分になってくる。肩の向こうには黒尾くんがいて、満員の会場にいるにもかかわらず、まるで二人きりで星空を眺めているような、そんな心地がする。
 しばらくすると、黒尾くんに寄せた方の肩にささやかな重みが乗った。ついと視線をそちらの向けると、黒尾くんが私の肩に凭れかかるようにして頭を預けている。眠ってはいるわけではないようだから、ただ単にいちゃついていきたいだけだろう。もしかしたら私がさっき肩を寄せたことに対するお返しなのかもしれない。
 久し振りに感じる黒尾くんの温度やにおいに、胸がざわざわと騒ぎだす。夏休みに入ってからというもの、私と黒尾くんはまだキスすらしていない。
 身じろぎすると、首筋に黒尾くんのつくつくした髪がふれる。黒尾くんの呼吸に合わせて髪が首を掠め、少しだけこそばゆい。
 解説員の話題は流星群に移る。頭上の星空が一層輝きを増した。
『流星群は地上の私たちから見ればあれだけきらきらと美しく輝いて見えるのに、実際には一、二センチ程度しかない宇宙の塵みたいなものなのです』
 きれいな発音で紡がれる説明を、私はぼうっとした頭で聞いている。
 きっと私たちがこうやって隣にいることも、大きな世界の中ではそういう塵みたいな幸福なのだろう。けれど、たとえ塵みたいな私たちの幸福でも、見ようによっては流星のようにきらきらと、それはそれは眩く輝いて見えるのかもしれない。さっきのカフェで告白して付き合ったふたりが、私の目にはきらきらと輝いて見えていたように。黒尾くんに出会ってからの日々が、曇りなくきらめいているように。
 暗闇のなか、肘置きに乗せていた手をそっと、黒尾くんの方へと伸ばす。黒尾くんは私が伸ばした手に気付き、すぐにぎゅっと握ってくれた。
 誰かにとっては小さな小さな幸せなのかもしれない。けれど私にとっては、今この瞬間が人生最大風速のきらめきで溢れている。

 ★

 一時間ほどでプログラムは終了し、私たちは科学館を後にした。あたりはすっかり暗くなっている。そこかしこに夏の夜の、湿った空気のにおいが満ちている。
 歩き出してすぐ、さりげなく指と指を絡めた黒尾くんに、そっと寄り添ってみる。見上げた黒尾くんは笑っていた。
「名前がこういうの好きだと思わなかった」
 駅に向かう帰り道、黒尾くんは妙に感慨深げに呟いた。そうかな、と応えて見上げた夜空は、さすがにプラネタリウムで人工の夜空を見たあとだと、いささか精彩を欠いている。私の目にうつるのは、ただただ真っ黒なだけの空だ。いつか本物の美しい夜空を見てみたいと思う。できることなら、その時隣にいるのが黒尾くんであればいいとも。
「星、きれいじゃない? それになんかこう、ロマンがあるし」
「星とかって結構感覚派の人間が好きそうだからなー、イメージだけど」
「えっ、それって私が情緒のない人だってこと?」
 むっとする私に、黒尾くんはつないだ手にぎゅ、ぎゅっと力をこめた。
「そうは言わねえけども。でもまあ、名前ってそんなに感覚派じゃなさそうではある。結構理屈で話すこと多くない?」
「そうかな……? あ、でも天体って理系だし、観測するにも知識とか技術も必要だろうから、本腰入れてハマるのは理論派の人なんじゃないかな。私が理論派かどうかはさておき」
「なるほど、それも一理あるか」
「それにキラキラしたもの、見るの好きだよ。身に着けるのはちょっと抵抗あるけど」
 そう言うと黒尾くんが噴き出した。
「キラキラしたものが好きって、烏みたいだな」
「うわ、失礼な!」
 今度こそ本当にむっとして、私は黒尾くんをむすりと睨んだ。よりによって自分の彼女をカラス呼ばわりする彼氏がいるだろうか。ひどいたとえにも程がある。
 そう抗議すれば「俺は烏好きだけど」とよく分からないフォローをされる。
「カラス、だめ? 賢いし生命力強いし悪くはないだろ」
「生物としてのカラスがどうとかじゃなくて、私が言いたいのはカラスのパブリックイメージの話なんだよね……」
 それきり黙り込んだ私を見て、黒尾くんは私が怒っていると思ったらしい。ごめんごめん、ともう一度顔の前で両手を合わせて謝って、黒尾くんはそれとなく話題を変えた。
「キラキラしたものってことは、じゃあそれ繋がりで夜景とかも好きだったりする?」
「うーん、好きっていえば好きだけど……。自分で見に行ったりする機会がないから、テレビとかネットとかで見てきれいって言ってるだけかな」
「ふうん」
「どっちみち高校生のときってあんまり夜は出歩かなかったし。うちの近所って標高低いし、東京の割に田舎だから、別に夜景がきれいなところもないよね」
 夜景も星空も、好きではあるがわざわざ自ら足を運ぶほどではない。黒尾くんが連れ出してくれなければ、こうしてプラネタリウムを見に来ることもなかっただろう。
 隣を歩く黒尾くんは、何か思案するように空いている方の手を顎にあてている。
「そうか、確かにまあ女子は夜はやたらと出歩いたりしねえか」
 そしてふと、
「あ、じゃあ花火も好き?」
 と、一枚のビラを指差し尋ねた。
 黒尾くんの指さす先にあるのは、駅の掲示板に貼られた花火大会のビラだった。この近所の河川敷が会場になっている。そういえばもうそんな時期だった。
 この時期、小さな花火大会ならば毎週のように何処かしらで開催されている。だが、このあたりで花火大会といえば、この河川敷の祭を連想するだろう。そのくらい、地域住民に親しまれる花火大会だ。
 私も高校時代に一度だけ、友人と行ったことがある。周辺の市からも人手があるようで、私が行った年もかなり賑わっていた。中学生のころは混雑を理由に、会場がうちの近所であるにも関わらず、行くことを禁止されていたほどだ。
 開催日時は来週、八月の最終週。濃紺の夜空と花火がプリントされたビラには、目立つよう黄色の文字で日程が記されている。
「花火かぁ。そういえばまだ今年一度も花火見てないや」
 先週末には近所でお祭りがあったが、そのときは花火は上がっていなかった。高校まで一緒に花火大会に行っていた友人とも、今年はまだ何の予定も決めていない。大学に入ってから多少疎遠になっているので、もしかしたら今年は一緒にはいかないのかもしれない。あるいは私と黒尾くんが付き合っていることを知っていて気を回してくれたか。
 この流れは、私から黒尾くんをお祭りに誘ってもいいのだろうか。今のところ何の約束もしていないが、夏のはじめに一緒にお祭りに行きたいという話はしている。
 窺うように、ちらりと黒尾くんを見上げる。私の視線に気付いた黒尾くんは、私の頭に手を置き言った。
「丁度いいし、これ一緒に行こうぜ。この日確か部活休みだったはず。バイトも今ならまだシフト融通してもらえるし」
「うん、私も夜なら空いてるはず」
 とんとん拍子に話はまとまり、次のデートの予定が決まった。念願の、彼氏と一緒に花火大会だ。想像するだに甘やかなイベントに、早くも胸がときめきだす。
 友人と一緒にお祭りで騒ぐのも楽しかったが、黒尾くんと一緒のお祭りはまた違う楽しさがあるのだろう。きっと今まで見た花火とは、違う花火が見えるに違いない。
 今日のデートも楽しかったのに、間を空けずにまたすぐに次の楽しみができたことが嬉しかった。幸せが溢れてしまいそうになる。今年の夏の〆としては申し分ない。
 そんな私の思考とシンクロするように「なんか、もう夏も終わるんだな」と黒尾くんが寂しいことを言う。
「まだ大学は夏休み一か月くらいあるけどね」
「たしかに」
 まだ一か月、されど一か月。ともあれ、来月にはまた来月のお楽しみもある。ひとまずは目の前の花火大会だ。
 家に帰ったら去年新調した浴衣の具合を確認しなければ。花火大会への期待に胸を膨らませ、わくわくしながら考えた。

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