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 黒尾くんとの夏休み最初のデートは、プラネタリウムに行くことに決まっていた。発案は黒尾くん。黒尾くんはなんと、すでに整理券まで用意してくれていた。

「名前、プラネタリウム行きたくない?」
 そう提案を受けたのは、バーベキューの日の帰り、駅から我が家に向かう帰路の途中だった。財布から取り出した整理券をこれみよがしに見せつけてくる黒尾くんは、沈みかけた夕日を背景に、後光がさしているかのごとく輝いていた。
「この整理券、バイト先で客にもらったんだけど、たしか名前が行きたいって言ってたよなーと」
「あああ……、い、行きたい……すごく行きたい……」
「さすが俺。そんな最高な彼氏のことが、もしや名前は好きなんじゃないですか?」
「好き……黒尾くんすごい、好き、大好き……」
「ハハハ、もっと褒めなさい、もっと好きになりなさい」
「最高……神……大好きになってる……」
 片言の日本語で讃えられた黒尾くんは、満更でもなさそうに頷いた。
 持つべきものはコミュニケーション能力の高い彼氏、そして記憶力の優れた彼氏だ。私が以前何気なく言った言葉を覚えていてくれたなんて、それだけでもう黒尾くんのご自宅がある方角へは足を向けて寝られない。
「そこまで喜んでもらえるなら、俺も整理券もらった甲斐があったわ」
 黒尾くんのことを拝みたおしている私に、黒尾くんはにやりと笑う。
 そもそもプラネタリウムに行きたいという話をしたのは、たしかまだ付き合い始めたばかりの頃のことだった。
 私たちの住んでいる市には、昔ながらの科学館が今もほそぼそ営業している。一時はこのままでは閉館、というかなりぎりぎりの経営状態にまで陥ったらしい。そんな危機的状態を打破すべく、科学館は一昨年から大規模な改装を繰り返していた。
 私が行きたいと思っていたのは、その改装の中でも目玉となる大規模プラネタリウムだ。新装オープン直後から瞬く間に評判が広まって、今では休日には長蛇の列ができるほどの人気となった。
 我が家から科学館まではそう遠くないが、わざわざひとりで行くのも寂しい。かといって長蛇の列に並ぶのも──とぼやぼやしているうちに来館のタイミングを失い、結局足を運ばないまま今に至っているのだった。黒尾くんに話したのも、たしかそんなような話だったはずだ。
「ううう、本当に嬉しい……」
 相変わらず拝み続ける私の頭を、黒尾くんがくしゃりと撫でる。その顔を見上げると、黒尾くんまで嬉しそうに見えた。
「実はその整理券、バイト先でほしい人は抽選って言われてたんだけどなかなか倍率高くてさ。全然知らなかったけど、プラネタリウム結構人気なんだな。抽選だと無理そうだったから、バイトの先輩たちに頼みまくってバイト三回肩代わりで何とかゲットしたっていう尽力エピソードつき」
「えっ、うそ。それ黒尾くん大丈夫?」
「全然大丈夫。バイト三回で名前のその大はしゃぎが見られるなら、安いもんですよ。実際、合宿の後はもっとバイト詰め込んでおきたいと思ってたから、何なら結果オーライ的な」
 軽く言う黒尾くんだが、そんなエピソードを聞かされてしまうと、何も知らず喜んだ自分が申し訳なくなってしまう。
 五か月ほど黒尾くんと付き合って分かったのは、黒尾くんはかなり無理が利くタイプだということだ。そして普段から飄々としているせいで、たとえ無理をしていたとしても、なかなかそれが表には出てこない。良くも悪くも格好つけだ。
「本当、あんまり無理しないでね。ただでさえ夏場の部活で疲れてるんだから」
「名前が心配するほどじゃないから本当に大丈夫。高校と違って大学の体育館は冷房つくし」
「それならまあ……大丈夫なのかな……? 分かんないけど……」
「心配すんなって。つーか整理券もらえたの、本当は合宿中に電話して教えてやろうかとも思ってたんだけどな。名前なんかテンション低かったし」
「え、そ、そうかな……?」
 それは黒尾くん不在のためだった、とは恥ずかしくて言えない。曖昧に誤魔化す。黒尾くんは特に気にせず、再びにやりと笑った。
「けどやっぱサプライズの方が喜ぶかと思って。大成功?」
「大成功だよ……」
「そりゃよかった」
 ともあれ、行きたかったプラネタリウムに、大好きな彼氏と一緒に行けるのだ。幸せすぎるにも程がある。黒尾くんが休みと引き換えに貰ってきてくれた整理券、楽しまない手はない。
 整理券はカップル向けの夜の回のものだったので、夕方に待ち合わせ、夕飯を食べてから行こうということになった。折角なのだから一日デートしたい気持ちもあるが、チケットには時間指定に加え日にち指定もある。あいにくとその日はバイトが昼過ぎまで入っていた。
「まあ俺も久々の休みだし。夕方までだらだらできたらありがたいし、夜からなら丁度いいんでない?」
 黒尾くんも黒尾くんで、ただでさえ夏休みはバイトを増やしている。お互いに夕方からの方が都合がいいということで話がまとまった。

 ★

 整理券の指定日当日、バイトを終えた私は急いで帰宅し身支度を始めた。外は真夏の茹だるような暑さだが、プラネタリウム内は涼しいだろう。そんなことを考えて、着ていく服を吟味する。
 付き合い始めてもうすぐ半年。私の黒尾くんへの「好き」は、一向におさまる兆しがない。付き合いたての頃から変わらないうきうきした気持ちで身支度を済ませ、私は足取り軽く家を出た。
 待ち合わせ場所は科学館近くの駅と決めていた。私が駅に着くと、ほとんど待つことなく黒尾くんがやってくる。ひとまず少し早めの夕飯を食べに行くことにした。
「あんまり食うと見てる途中で眠くなる気がする」
「そんなこと言わないでよ、きっと楽しいよ」
「爆発とかするなら起きてられるんだけどな」
「宇宙の誕生?」
 駅から科学館までの道のりにはファミレスなどもあったが、せっかくなので科学館の中のカフェスペースで食事をとることにした。プラネタリウムの整理券を持っている客にはデザートのサービスがつくらしい。
 駅からの移動だけで暑さにへばっていた私は、メニューのチェックもそこそこにサラダうどんを頼む。夏バテ気味で、冷たいものが恋しい。
 店内はさほど混んでおらず、客の姿は疎らだ。注文してすぐ、料理が運ばれてきた。
「名前のそれ、うまそう」
 野菜の色合いの鮮やかさと清涼感のためか、黒尾くんは運ばれてきたばかりの私のうどんをじっと見つめる。黒尾くんの前に置かれているのは、トマトパスタとサラダとパン。満腹になったら眠くなりそうと言っていたわり、ずいぶんがっつりしたメニューを注文している。
「名前の涼しげだな。歩いてきて暑いし、俺もそっちにすればよかったかも」
「一口あげようか?」
 ためしに聞いてみると、黒尾くんは「サンキュー、じゃあお言葉に甘えて」と、ぱかっと口を開けた。
「えっ」
 予想していなかった黒尾くんの行動に、私は箸を持ったまま固まった。これはつまり、「あーん」を要求されているということなのだろうか。
「え、えっと、黒尾くん」
「あーん」
 どういうことですか、と状況を訊こうしたが、先んじて答えを提示されてしまった。いくら店内が空いているとはいえ、まさか黒尾くんが公衆の面前で『あーん』を要求してくるとは。心の準備ができていない私は、ひとり赤面する。
 目の前には、ぱかりと開いた黒尾くんの口。そして恐らく、その口は私がうどんを入れなければ閉じないのだろう。こうして私がまごまごしている間にも、黒尾くんは無言で、しかし大きく開いた口でこれでもかと『あーん』の圧をかけてくる。
「……あーん」
 やるしかない。恥じらいを捨て、一口分だけ黒尾くんの口にうどんを突っ込んだ。うどんなんてもとからつるつる滑りやすいのに、緊張のせいで変に力が入ってしまい、うどんを箸でつまむのに異常に時間がかかる。
 うどんに四苦八苦しながら、私の羞恥心と引き換えにめでたく『あーん』を達成した黒尾くんは、口からはみ出したうどんをつるつる啜ると、満足そうに笑った。
「おやおや? 名字さん、どうしてそんなに顔を赤くしてるのかな?」
「こんなときだけ名字で名前呼ぶんだから……」
「というか彼氏彼女でそれ一口頂戴ってなったら、普通に『あーん』くらいするもんじゃない?」
「えっ、世間の男女ってこんな恥ずかしいことしてるの!?」
 しれしれと言い放つ黒尾くんに、文字通り雷に打たれたような衝撃を受けた。
 もしかしなくてもこと恋愛方面においては、私の常識、標準と世間の常識の間には多少のずれがあるのだろうか。今回の場合は黒尾くんに騙されているという可能性もあるが、男女の恋愛に関しては、私よりも黒尾くんの方が世の事情に精通している。
「だいぶ前のデートのとき、名前のケーキ一口もらったことあっただろ? その時名前が躊躇いなくお皿ごと差し出したから、あっこれ俺から催促しないと一生『あーん』してもらえねえんだなって気付いたんだよな。その後も一口頂戴って言うと大体皿ごと差し出すし」
「な、なるほど、そういうものなんだ……。確かに私毎回お皿ごと渡してたけど、だってその方が黒尾くんも好きなだけ食べられるかなって思って」
「名前の配慮も分かるし嬉しいけどな。けど俺としては、名前に食わせてもらう方がもっと幸せだから」
 そんな話をしていると、隣のテーブルに男女二人組が座った。店内はがらがらだというのに、何故わざわざ隣に座るのだろう。少しだけ怪訝に思うも、もう少し早かったら先ほどの『あーん』の件を見られてしまっていただろうことを思うと、現場を目撃されなかったことにほっとする気持ちの方が怪訝さに勝る。
 ちらりと盗み見たところ、私たちと同年代の男女だ。きっと例にもれずカップルでプラネタリウムを見に来たのだろう。その証拠に、テーブルの隅にプラネタリウムのチケットを置いている。
 そのカップルがしばらく和やかに談笑しているのを、私はぼんやりと視界の端に入れていた。なんだか雰囲気が初々しい。いや、初々しいというか、ぎこちないのか。
「あんまり見てると不審者だと思われるぞ」
 黒尾くんが目線をパスタに集中したまま釘をさす。慌てて私も視線を黒尾くんに戻す。

 お互い食事を終える頃には、プログラムの開始時刻が迫っていた。サービスでついてきたデザートのゼリーを大急ぎでかきこむ。
「うっ、これ見てる途中で気持ち悪くなるかも……」
満腹になったお腹を撫でさすりながら、私は半ば以上本気で呻く。
「まじ? 吐く前にちゃんと言ってね」
「は、吐かないよ!」
 そんな話をしていたその時、ふいにがたんと隣のテーブルが音を立てて揺れた。一瞬そちらに意識を奪われる。そして、
「もう気付いてると思うけど、俺、──のこと好きなんだ。俺と付き合ってください」
 隣のテーブルから、甘酸っぱいセリフと甘い空気が猛然と流れてきた。驚いて思わずそっちに視線をやりかけ、すぐさま黒尾くんに手で制止される。
「見ないの」
 そう言われ、隣のテーブルに向けかけていた首をすんでのところで正面向きに留める。反応してしまったのを誤魔化すように、わざとらしく自分の水をごくごく飲んだ。しかし意識は完全に隣のテーブルの遣り取りに向いている。
 告白の現場に立ち会うなんてことは、これが人生ではじめてのことだった。自分が告白されたのだって、黒尾くんからの一回こっきりだ。すぐ隣で愛の告白が繰り広げられている奇跡にどきどきしつつ、そんな場に居合わせながらも一切動じない黒尾くんに改めて尊敬の念を抱く。
 私が自分の浅さを恥じたり黒尾くんの同時なさに感じ入っている間に、告白された側の女の子は小さく「うん」と返事をした。めでたくカップルが成立したらしい。
 男の子の方がガッツポーズで喜んでいる。ただ隣の席に座っているだけの私だって、思わず拍手したくなるくらいだ。当事者の喜びたるや相当のものに違いない。
「そろそろ出るか」
 黒尾くんに促され、席を立った。それでもまだ、心は幸福のお裾分けをもらった余韻でほこほことあたたまったままだった。

 カフェを出て、黒尾くんとともにプラネタリウムに向かう。すでに整理券を手にした人たちが待機の列をつくっており、私と黒尾くんはその最後尾についた。
「名前、顔にやけすぎでしょ」
 開場を待っていると、ふいに黒尾くんが苦笑する。さっきのカップルの初々しく甘酸っぱい気にあてられて、妙に胸がどきどきしていた。
 気を抜くと表情筋がゆるんでしまう。あの新米カップルもこれからプラネタリウムに行くのだろう。初デートがプラネタリウムなんて、なんだかすごくロマンチックだ。
「あの彼氏の子の方、きっと彼女に告白するぞ! って気持ちで、プラネタリウムのチケット取ったんだろうねぇ……」
「フラれたらすげえ気まずいだろうけど、まああの感じだといい感触だったんだろうしな」
「そういえば、黒尾くんはいつから私のこと好きだったの?」
 何気ない質問のつもりで投げかける。しかし黒尾くんは私の言葉に何故だか変な顔をして、それからいつものように、にやりと意味深な笑みを浮かべた。
「絶対言わない」
「ええ! なんで!」
「教えてほしかったら見返りをちゃんと用意してくださーい。何事もギブアンドテイク、等価交換ってやつ」
「さ、さっき『あーん』したじゃん!」
「あれはプラネタリウムのチケットを頑張って確保したことへの報酬」
「そんな!」
 それからプラネタリウムの開場まで、何度も何度もいつから好きだったのかを問いただそうとしたものの、黒尾くんは頑として口を割ろうとはしなかった。

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