32

 散々に私を苦しめた試験も無事に一段落。ここまでですでに成績開示された試験は、すべて単位を得ることができていた。これで思い残すことなく、憂い一つない夏休みを満喫することができる。心は七月の東京の空のように広く高く澄み渡っている、というほどのこともなく。
「あああ、黒尾くんに会いたい……」
 ランチの混雑もひと段落したので気が緩んだのか、バイト中だというのに煩悩が口から漏れ出した。洗い物をする私の傍らで在庫チェックをしていたオーナーがくすくすと笑う。
 店の大きな窓から見える東京の夏は今日も猛暑。コンクリートが太陽で焼け付くさまは、涼しい店内で見ていてすらうんざりする。今年は全国的に猛暑の夏らしい、とはテレビのニュースが伝えていたことである。黒尾くんが熱中症にでもなっていないか、恋人としては気が気じゃない。
 黒尾くんは現在、バレー部の夏合宿真っ只中だ。山梨だかどこだかの合宿所に黒尾くんが旅立ちすでに三日が経っている。合宿中は普段以上に連絡が取れないので、私としてはすでに黒尾くん不足が著しい。試験明けに予定が合わず、デートの時間をつくれないまま黒尾くんの合宿に入ってしまったのが痛かった。
「折角の夏なのに恋人に会えないなんて……世間は厳しい……」
 私がいくら世を儚んでみたところで、オーナーが同情してくれるわけでもない。
「合宿っていっても一週間かそこらなんでしょ? あっという間じゃないの」
「そうですけど……。こう、周りが夏休みを満喫してるのを見たりすると、やっぱり私も黒尾くんとのはじめての夏休みを楽しみたい衝動に駆られるというか。夏休みに入ってからというもの、客層もいつにもましてカップルばっかりだし、幸福な男女を見ていると、ついつい黒尾くんのことを考えてしまって」
「ははー、難儀ねぇ」
 簡単に言われてしまい、私は再び意気消沈した。
 大人のオーナーにしてみれば、私の恋愛初心者な悩み事などちっぽけで取るに足らない、他愛ないものなのだろう。会えない期間が愛を育む、ちょっとくらいの障壁はスパイスよ、とはオーナーからの有難い訓示だ。
 だが当事者の私にしてみれば、ちっぽけで取るに足らない他愛のない問題こそが死活問題だったりする。
 二人ともが東京にいて会えないというのは構わない。もちろんそれも切ないが、会おうと思えばいつでも会えるという安心感は心に余裕を生む。しかし物理的に離れてしまうと、会えないからこそ余計に会いたくなってしまう。考えたところで仕方のないことだと分かっていても、考えてしまうのだから仕方がない。
 洗ったコップをからぶきしながら、今日何度目かの溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げるというけれど、逃げた幸せが山梨あたりまで飛んでいって黒尾くんの様子を偵察してきてくれるのなら、どれだけでも溜息をつこうというものだ。
「で、黒尾くんの方はどうなの? やっぱり合宿が忙しくて、名前ちゃんどころじゃなさそう?」
「一応早く会いたいねとは言ってくれますけど、何せ数分の電話でのことなので何とも……」
「彼氏の言葉を信じなよ」
 信じていないわけではない。ただ、きっと充実した合宿期間を過ごしている黒尾くんよりも、私の方がずっと会いたいという気持ちが強い。そんなどうしようもないことを思ってしまうくらい、黒尾くんに会いたかった。

 定時でバイトをあがり、連勤でむくんだ足をのんびり動かしながら自宅へ帰る。夏休みに入ったものの、明日も明後日も私はバイト三昧だ。
 毎日毎日バイトに精を出してはみるのだが、稼いだお金で何がしたいということもなく、欲しいものがあるわけでもない。しいていえば秋に控える黒尾くんの誕生日のプレゼント資金、その後のクリスマスの軍資金といったところだろうか。
 と、携帯でシフト表をチェックしていたところ、画面の上部にメッセージ受信の通知がついた。歩きながらメッセージを確認する。送り主はクラスの友人だった。遡ってみると、私がバイトに精を出している間に、クラスのグループトークがずいぶん賑わっていた。
 大学祭以降、学部のクラスの結束はぐんと固くなった。四月につくったこのグループのトーク画面も、大学祭の後は稼働率が上がっている。今日の議題は夏休み中のバーベキューや飲み会の出欠確認らしい。
「前期はあんまり参加してなかったけど、こういうのも出た方がいいんだろうなぁ……」
 信号待ちで足を止め、誰にともなくひとりごちる。黒尾くんが私より多忙なこともあり、前期はどうしても私が黒尾くんの予定に合わせることが多かった。そうでなくても、元々それほど広く人間関係を築きたいわけではない。大学の友人との付き合いは、それなりでいいと割り切っていた。
 だが、こうして黒尾くんが不在のとき、ひとりで特にすることもないというのはどうなのだろう。これではあまりにも、恋愛に比重を置きすぎているのではないか。
 とはいえ飲み会に参加したところで、私は未成年。お酒は飲めないし、回数が多すぎるのでいちいち参加してもいられない。たくさんの人と一度に話すのも得意じゃない。
 参加の可否が確認されている催しの中では、少人数のバーベキューあたりが一番参加しやすそうだった。グループトークの履歴を遡ると、私が仲良くしている友人の何人かも、バーベキューに参加することになっている。あまり馴染みのない人ばかりだと気後れするが、これなら私も参加してもいいかもしれない。
 スケジュール帳を確認して、文字を入力、送信する。
 ”よければ私も行きたいなー!”
 簡単な文章を送信すると、たちまち何人かから、
”珍しい” ”やったー” ”名前ちゃん来るとかレア”
 と返信がくる。大学祭以降、試験対策の勉強会などにはそこそこ顔を出していたつもりだったが、やはり他の子と比べると参加の頻度は少ないらしい。
 バーベキューは早速、今週末に予定されている。その日は黒尾くんが帰ってくる日でもあるのだが、解散は夕方になると聞いている。帰ってきてから会うことになったとしても、バーベキューは昼間の予定なので十分に間に合う。
 ここのところ、少し黒尾くんのことばかり考えすぎている。その自覚はあるし、自省もしていた。会う頻度自体は世間の恋人並だと思うのだが、気付くと黒尾くんのことばかり考えているというのは、さすがに自分でもどうかと思う。おまけに黒尾くんは隙あらば私に甘い態度をとるので、自制しようにもすぐに絆されてしまうのだ。
 私は私、黒尾くんは黒尾くん。付き合ったからといって、その境界を曖昧にしてはまずい。好きだからこそお互いを尊重し、近づきすぎないよう気を付ける。恋愛方面に疎い私でも、そのくらいのことはどうにか理解できる。
「はぁ……」
 頭ではちゃんと理解している。それなのにまだ、黒尾くんに会いたい気持ちが拭いきれない。今頃黒尾くんはまだ練習中だろう。今日の連絡はまだない。

 ★

 週末は快晴だった。集合場所である大学の正門前まで行くと、今日のバーベキューのメンバーがすでに何人か集まっている。今日は集合したのち、主催の子が借りて来てくれるレンタカーで、近くのバーベキュー場まで移動するという手筈になっていた。
 用具類もすべて現地で借りることができ、用意するのは食材くらいだ。その食材だって、慣れている子が用意してくれる。私は会費を払って参加するでいいというのだから、なんとも気楽で申し訳ない。
「名前ちゃんが参加してくれると思わなかったから、返信きたときびっくりだったよー」
 レンタカーを借りてきてくれる子が渋滞に巻き込まれているとかで、到着が遅れるという連絡が入っていた。残りのメンバーでのんびりと待ちながら、他愛のない話をする。
「たまには参加しないとみんなに顔忘れられるかなって」
「忘れないよー!」
「まあでも珍しいのはたしかだよね」
「お手柔らかにお願いします」
 笑い話ではあるものの、もう少し集まりには顔を出した方がよさそうだと、内心汗をかく。
「そういえば、今日はあの背高い彼氏はいいの?」
「そうそう。学祭来てた、あのイケメンの彼氏」
「黒尾くんのこと? 黒尾くん今部活の合宿でいないんだ。今日の夕方には戻ってくるらしいんだけど」
「ふーん、じゃあ名前ちゃん寂しいね」
 まさに私の心中を言い表した言葉に、思わずどきりとする。自分以外の人の言葉で寂しいと言われると、途端に寂しさが募ってくる。今日は黒尾くんのことは考えないようにしようと思っていた矢先のことだったので、私は曖昧に頷きごまかす。
 そうこうしているうちに、私たちの前で一台の車が停車した。運転席から友人が顔を出す。
「お待たせ―、混んでたー!」
「いやいや、むしろ車ありがとね。じゃあ行きますか」
 八人乗りのワンボックスカーにぞろぞろ乗り込む。私が後ろの列の窓際の席に座ろうとすると、運転席から幹事の子が振り返った。
「名前ちゃん、あんまり後ろに座っちゃだめだよ。私も名前ちゃんの彼氏の話聞きたいんだから。後ろだと運転席まで話聞こえないでしょ」
「いやー、全然大した話はないからね……」
 一応苦笑しながら流してみたが、あながち冗談でもなかったらしい。後から乗り込んできた友人が、あっという間に私を真ん中の列のシートに押し込んだ。全員が乗り込んだのを確認して、車は発進する。
 バーベキュー場までは車で一時間ほど。ドライブの定番ソングを流した車内では、お菓子の袋を回しながらも、さっそく恋愛絡みの話題になっていく。
 今日のメンバーのうち、私ともう二人には恋人がいる。残りの三人は今はフリーらしい。彼氏持ちとフリーがちょうど半々。その手の話題に疎い私は、誰が彼氏持ちで誰がフリーかなんてまったく把握していない。みんなの間では常識のように語られている鉄板の話題でも、私がいちいち驚いたり笑ったりするので、みんな喜んで自分の恋愛話を披露してくれた。
 しかし当然、私にも相応のネタ提供は求められる。
「それにしても、いいなあ、名前ちゃんはラブラブで」
 話題はちょうど、彼氏もちの友人が若干の倦怠期を迎えているというくだりだった。完全に油断して聞き役に徹していた私は、唐突に自分の方に話題が流れてきたので思わず「えっ」と声を上げる。
 普段こういう集まりに顔を出さない分、今日は余計に根掘り葉掘り話を聞かれることを覚悟してきている。だが、今のはさすがに不意打ちだ。
「ラブラブって、いや別に、そんな、ねえ、普通だよ……」
 しどろもどろに答えるが、誰も信じてくれそうになかった。実際に大学祭では黒尾くんを見られてもいる。我ながら信憑性に欠ける言葉だと思いもする。
「彼氏が合宿でいなくて寂しいなんて、めちゃくちゃラブラブな証拠じゃん。うちなんてそろそろ付き合って五年だけど、彼氏が旅行とかでいないとラッキーくらいに思っちゃうもんね」
 先ほどまで倦怠期をネタにしていた友人が、私にポッキーの袋を回しながら溜息をつく。
 付き合って五年ということは、中学からの付き合いということになる。それだけ長く付き合えば、もしかすると、そういうこともあるのかもしれない。友人たちの間でネタにするため多少の誇張はあるのだろうし、五年の付き合いで落ち着いた恋愛に移行しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、付き合ってまだ数か月の私には想像もできなような高みからの意見だ。
「それでも私は、長く付き合ってるカップルはすごいなと思うよ。私、黒尾くんにそんなに長く好かれる自信ない」
「好かれてるっていうか惰性? 流れ? だけどね。名前ちゃんのところは愛されるより愛したい派?」
「うーん、どうだろう。どっちかっていうと私の方が多分、黒尾くんのこと好きだと思う」
「何それ、可愛い。付き合いたてののろけ可愛い」
「今も黒尾くん合宿で会えないけど、ふとした時に会いたくて仕方なくなる」
「今日は黒尾くんのこと忘れてうちらといっぱい肉食べようね!?」
「そうする……。黒尾くんへの依存度を、今日は下げにきました」
 さりげなく目下の悩みをこぼすと、意外にも神妙な顔で頷かれてしまった。
「分かるよ、そういうのあるよね……特に付き合いたてのとき……」
「うちの場合はむしろ彼氏が依存度高いよ。私がちょっと遊びに行くって話すると、誰と遊ぶのとかどこ行くのとかすごく聞かれるし。俺とは行ったことない場所なのに、とか正直知らんわって感じよね」
「重いよね、ふうちゃんの彼氏」
 なるほど、彼氏の方が重いというパターンもあるのか。新たな知見を得るのと同時に、黒尾くんの場合はどうなのだろうと思案する。
 やきもちを妬くこともあるにはあるが、基本的には黒尾くんは放任タイプだ。私が友達とのことをいちいち報告しなかったり、そもそも女子大なので心配することは少ないというのもあるかもしれないが、基本的には私が黒尾くんの女子関係を心配することの方が圧倒的に多いと思う。そうなるとやはり、程度の差はあっても世間的には私も「重い女」に分類されるのかもしれない。
「私、重い女かな……」
 思わずぼそりと呟くと、友人一同に一斉に笑われた。
「重いと一途は紙一重だよね」
「そうそう。そんなに重いのが気になるなら名前ちゃんももっと遊んだらいいんだよ」
「そうだよ、うちらが誘ってもバイトとか彼氏であんまり乗ってこないじゃん。大学生なんだしもっと遊ぼうよ」
「経験だよ、経験」
 そう言われてしまうと、たしかにそれもそうだと納得せざるを得なかった。
 大学に入学した時点で、大学生活ではある程度勉強を頑張ろうとは決めていた。けれど、もう少し要領よく色々なことに挑戦できたかもしれない。バーベキューに参加することに限らず、黒尾くんが部活を頑張っているように、私ももっと周りとかかわりを持った方がいいのかもしれない。そうすれば多少は黒尾くんへの依存度も下げられるのかもしれない。
「まーた難しい顔してる。名前ちゃんって真面目だよね」
 運転席の彼女が、バックミラー越しに私に呆れ笑いをした。

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