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 大学祭だ何だと浮かれてすっかり忘れていたが、八月になれば大学は長い夏休みに突入する。夏休みに入るということは、即ち前期が終わるということ。そして前期が終わるということは、七月末には期末試験が控えているということだ。その事実に私が気が付いたのは、なんと七月に入ってからのことだった。浮かれすぎにも程がある。
 試験まではあと一か月もない。私は学部内でも一、二を争うほどの数の講義をとっており、人より試験も多い。レポートや出席点だけで単位をもらえる講義もあるにはあるが、試験もそれなりにこなさねば、早起きして一限から出席した前期の努力がすべて無駄になる。
「というわけだから、そろそろ勉強始めないと本気でまずい」
 パスタをくるくるとフォークに絡めとりながら、私はついつい溜息を吐く。テーブルを挟んで目の前に座っている黒尾くんも「俺も」と暗い顔で同調した。
 今日のデートはファミレス。本当は別の店の予定だったのが、道中にあったこのファミレスの夏の新作パスタののぼりを見て、ついつい店に吸い込まれてしまった。
 黒尾くんはパスタとハンバーグを頼んだうえ、追加でサラダまで食べている。今日は部活もなかったのに、まったく恐ろしい胃袋だ。黒尾くんの家のエンゲル係数に思いを馳せ、他人事ながら心配になる。
「つっても、名前は高校の時から成績よかったし、大学入ってもそれなりに勉強してるよな? 無駄に講義さぼったりしなさそうだし」
 ふいに呼ばれた下の名前に、頬がひくりと引き攣った。嫌なわけではないのだが、まだ慣れなくていちいち反応してしまう。そんな私に嫌な顔ひとつしない黒尾くんはつくづく優しい。
 ともあれ、黒尾くんの言うことは正しい。私は真面目だけが取柄。したがって、試験についてもまったく何の準備もしていないというわけではない。
「うーん、まあそこまで切羽詰まってるわけではないんだけども。それでもやっぱり、相応の準備は必要だよね。ギリギリになってから勉強始めて、ひやひやしながら結果待つみたいなのは避けたいし」
「うちの彼女は相変わらず真面目ですこと」
「そういう黒尾くんはどう?」
「俺ももうちょっと色々余裕ある予定だったんだけど、前期は部活だけでいっぱいいっぱいだったからなー。名前が言ったみたいな、ひやひやな感じになりそうだわ。既にそういう未来が見える」
「黒尾くんは部活やってるんだから仕方ないよね。私は部活やってないから」
「つっても、部内でも要領いいやつはちゃんと試験勉強もしてるからなー。そこは何とも。個人の資質ってやつか」
 黒尾くんと私の大学の試験日程は、同じ私立大とあって似通っている。夏休みの時期も大体同じだ。
 夏休み、黒尾くんは合宿があったり試合があったりと、今以上に部活が忙しくなる。それでも大学生活と部活、ついでにアルバイトの三足の草鞋生活である今に比べれば、部活に専念できる夏休みの方が、一日一緒にいられる日は増えるらしい。黒尾くんと一緒に過ごす時間が増えるのは純粋に嬉しい。
「夏休みは色々なところに行きたいなー」
 うっかり思考を駄々洩れにしていたら、黒尾くんがにやりと笑った。
「それ、『俺と』ってことでいいかい」
「うん、まあ友達とも出掛けるけどね。でも友達とだったら夏休みじゃなくても予定が合うから、基本は黒尾くんかな?」
「いやー、苦労かけてすまんね」
「いいんですよ。その代わり、夏休みいっぱい遊ぼうね」
「遠出……、は時期的にいけねえかもだけど、近場で夏祭りとかそういう夏っぽいことはしたいよな」
「いいね。彼氏と夏祭りって、実はちょっと憧れだった」
 夏祭りならば毎年友人とも行っている。仲のいい友達同士で浴衣を着て繰り出すのはそれはそれで楽しく、すれ違うカップルに微笑ましさこそあれ、羨ましく思うことは今までなかった。ただ、漠然とした憧れだけはずっと胸にあったように思う。
 今年は私も、大好きな彼氏と一緒に夏祭りに行くのだ。考えるだけで心が躍る。前期の間はお互い新生活に慣れることが優先で、無理のない範囲内でしかデートもしていない。非日常とは縁がなかった。
「そんなに大きなお祭りに限らなければ結構いろんなところでやってるし、どこかしらには一緒に行けるといいね」
「だな。まあ、何はともあれまずは目の前の試験乗り越えないと夏休みも来ねえけど」
 黒尾くんの一言に楽しかった気持ちは一気にしぼみ、私はがっくりと項垂れた。

 ★

 お互いにばたばたと慌ただしくしていたせいか、黒尾くんとはファミレスでご飯を食べて以降なかなか会う機会を見つけられなかった。私もバイトと授業と試験勉強と重なり余裕がなく、黒尾くんには連絡を返すだけで精一杯。気付けば最後に会ってから二週間経ち、三週間経ち。あっという間に試験期間に突入していた。
 レポート系は一通り終わっているし、レジュメ持ち込みできる試験は問題ない。試験勉強もある程度はどうにかなる目処がたった。
 しかし、油断は禁物。勉強机に向かいレジュメと睨めっこした私は、大きく溜息をついた。
 すでに試験期間も佳境に入っている。そんな中、翌日に控えている試験二つだけは毎年傾向も変わるうえ、かなり採点が厳しいともっぱらの噂だ。
「あああ、終わる気がしなーい」
 椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰ぐ。目の前のテキストとレジュメには、あちこち暗記マーカーで線を引いてある。だが、肝心の暗記はいっこうにできている気がしない。
 私が今苦しめられている講義は進級にかかわらない。必須の単位でもない。ただ、就職前に受けることになるであろう資格試験の内容と講義内容がかぶっているので、受けておくと後が楽だよ、と言われている講義だった。最悪落としても大丈夫──そんな慢心が私の中にささやかながら存在していて、その慢心がさっきから私の勉強を妨げている。
 集中もとうに途切れた。いっそ気分転換にコンビニにでも行こうかと、椅子から立ち上がった時、机の端に置いていた携帯が、タイミングよく鳴った。黒尾くんからの着信に、気の抜けていた頭が瞬時にはっきり覚醒する。
「もしもしっ」
「うお、出るの早いな。もしもしー、俺だけど」
「どうしたの? こんな遅くに」
「いやー、今ファミレスで試験勉強してんだけど、集中切れて限界だから、声聞きたくて電話した。名前も試験勉強あるって言ってたし、起きてるかなーと」
 察するに黒尾くんも同じ状況に陥っていたらしい。思わず笑みがこぼれる。
 コンビニに行くため部屋着から簡単に着替えながら、ハンズフリーで電話を続ける。身支度のための物音をマイクが拾ってしまったのか、「なんか物音すげえけど、片付けでもしてんの? 試験前に部屋の片づけ始めちゃうタイプ?」と黒尾くんが笑う。
「そういうわけじゃないけど。私も勉強してたんだけど集中力切れちゃったから、コンビニ行こうかなって思って、その準備してる。今日はまだ当分寝られなさそうだよ」
「お互い明日が山か」
「そうみたいだね」
 その割には呑気な声音の黒尾くんだ。その声を聞きながらふと、黒尾くんの声を聞くのも久し振りだなあと思う。実際には直接会っていなかっただけで、会わない間にも電話は何回かしている。けれど電話で聞く声は黒尾くんの密度が低いとでもいえばいいのか、直接声を聞くよりも「声を聞けた」と思える効果時間が短い。そう考えてしまうほど、私は黒尾くんと一緒にいることに慣れ始めている。
 幸せなことではあるのだが、不安にもならないわけではない。こんなにも目先の恋愛に気分を左右されていて、私は大丈夫なのだろうか。浮つきすぎではないだろうか。
 黒尾くんと付き合ってからというもの、私の価値基準は確実に黒尾くんに影響されている。それだけならばまだましで、実際には四六時中黒尾くんのことを考えているような有様だ。
 これは由々しき事態である。かといって考えないようにしようと思えば思うほど、黒尾くんの姿が脳裏にちらついて離れない。はじめての彼氏だからこうなるのか、黒尾くんが恋人として魅力的過ぎるのか。多分、どちらも理由として正しい。
 そんなことを考えていると、黒尾くんが少しだけ声を大きくして「聞いてる?」と言う。私は慌てて返事をした。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「大丈夫かよ。勉強しすぎで疲れてんじゃねえの?」
「うーん、まあそれは否めないけど。それで、ええと何だった?」
「だから、集中切れてんならいっそ名前も一緒にファミレスで勉強すればって言ったんだよ。俺が今いるの、名前んちから一番近い店だし」
「えっ」
「もう遅いし、来るなら俺が迎えに行くまで待っててほしいけど」
 壁の時計を確認──もうすぐ十一時になろうとしている。
 うちの両親は娘の素行をとやかく言うタイプではないし、大学入学以降はまったくといっていいほど口出しをしてこない。気分転換に外で勉強すると一言伝えれば問題ない。
 だから黒尾くんと一緒に勉強することについて、そういう意味での問題は特にないのだが。
「でも、黒尾くんと一緒で勉強できるかな?」
 素朴な疑問を呈する。本来勉強とはひとりでするものではないのか。彼氏と勉強って、果たして集中して勉強に取り組むことができるのだろうか。というか、黒尾くんを前に勉強に集中なんてできるのだろうか。この浮ついた私が。
 しかし私の懸念を、黒尾くんはまたのんびりと一蹴する。
「そこはまあ、お互い監視し合いながらってことで」
「黒尾くん監視してくれる?」
「するする。俺はかなり厳しいぞ」
 そういうことならば。逡巡のすえ、私は黒尾くんの誘いに乗ることにした。
「わかった、じゃあ勉強用具持って行くね」
「じゃあ家の前ついたら連絡するから家の中で待ってて。絶対外出てきたらだめだかんな」
「わかった。黒尾くんも気を付けてね」
「了解」
 それだけ言って黒尾くんは通話を切った。黒尾くんがうちに来るのを待つ間、私は再び服を着替える。何せ近所のコンビニに行くだけの予定で適当に選んだ着替えだ。こんな格好で黒尾くんと会うわけにはいかない。もう少しまともな服に着替えなければならない。
 両親の寝室をのぞくと、ふたりともまだ起きていた。すぐそこのファミレスに出掛けることを告げると、あっさり「気を付けてね」と返される。
 玄関で黒尾くんからの連絡を待っていると、ほどなくして「着いた」と短い一文を受信した。レジュメや辞書を詰め込んだ鞄を肩にひっかけ、極力音を立てないように、そっと家を出た。
 七月とはいえ、夜更けの空気は昼間と違って肌寒い。一歩外に出ると、しっとりとした空気がひやりと肌を包んだ。上着を羽織ってきて正解だったと、上着の襟元を掻き合わせながら思う。
 暗闇の中に立った黒尾くんは、門扉の前に立ち「よう」と軽く手を挙げた。ほとんど手ぶらだ。
「荷物、携帯と財布だけ?」
 挨拶もそこそこに尋ねる。黒尾くんは空いた手をするり私の手に絡め、そのまま歩き出す。
「勉強道具とかは重いから、そのままファミレスに置きっぱなしにしてきた」
「不用心じゃない? 大丈夫?」
「大丈夫だろ、今全然客いなかったし。貴重品は持ってきてるし。それにあんだけ全部置いてきたら、少しくらい席外しても怒られない」
「食い逃げ犯扱いされたら困るもんね」
「そゆこと」
 ちかちかと点滅する街灯に照らされた道を、ファミレスに向かって歩いていく。最寄りのファミレスは終日営業だ。うちからならば歩いて五分もかからない。
「黒尾くんいつからファミレスにいたの?」
「家で夕飯食ってから行ったから三時間くらいか」
「じゃあもう結構粘ってるんだ」
「そう。で、そろそろ限界だったところ。どんだけコーヒー飲んでも眠いし。名前が目の前にいたら多少しゃきっとすると思うから、悪いけど付き合って」
「いやこちらこそ。正直どんづまりだったから声かけてもらって助かった」
 黒尾くんは明日の数学の試験で、単位を落としそうな危機的状況にあるらしい。
「文系なのに数学?」
「そう。うちの学部は数学の講義があんだよ。しかも必修。数Uが限界の人間が数Vを理解できるはずないということを、偉い人たちはご存知ないのだろうか」
「それはそれは……なんというか、地獄だね。私も数学苦手だったからその気持ちはよく分かる」
「俺ら私文クラスだったしな。いや、でも大学入ってまで数学あるって知ってたら、ほかの学部受けてたわ」
「でも必修なんだから仕方ないね」
「そ。留年はしたくねえからな」
 そんな話をしながら歩いているうちに、あっという間にファミレスに到着した。黒尾くんが店員に声をかけて席につく。テーブルの上には黒尾くんの勉強セットが、遠慮なく思い切り広げられている。
 客は私たちと一組のサラリーマンだけ。これならば騒音で集中できないこともない。
 黒尾くんがテーブルの上をある程度片付けている間に、反対側のソファー席に腰掛けた。お互い目の前には、勉強セットとドリンクバーのコーヒーのカップ。
「じゃあまあ、やるか」
「そうだね、やらないとね」
 根が真面目なのは黒尾くんも同じこと。浮ついて無駄話に時間を割くこともせず、私たちは各々の試験勉強を開始した。

 そうしてしばらく会話もなく、稀に言葉を交わすことがあるとすれば「飲み物持ってくる?」と「お手洗い」くらいの会話だけで過ごし、お互いに何とか及第点が見えてきたのは時計の針が深夜二時を回った頃だった。ひとまずそこを区切りとし、私たちはファミレスを後にする
 普段からバレーで集中力を鍛えているだけあって、ひとたび勉強に取り掛かった黒尾くんの集中力は凄まじかった。浮ついて勉強が手につかないなんて、浮ついた私の杞憂に過ぎなかったことを思い知る。
「名前が来てくれて助かった。ひとりだとどうしても携帯見たりしちゃうんだよな」
「私もだよ。黒尾くんが誘ってくれたおかげで、なんとか明日の試験乗り切れそう。そしていらっしゃいませ夏休み」
「おお、いい響き」
 声をひそめて笑った黒尾くんの声は、夜道に響くこともなく、私の耳にだけひっそりと届く。
 流石に深夜二時も過ぎれば、通りに人通りはほとんどない。黒尾くんと並んで歩いていると、本当に世界中に私たちふたりしかいないような気分になってくる。
「静かだねぇ……」
「まあ、そりゃド深夜だし」
 と、私の呟きに返事をした黒尾くんは、そのまま身を屈めると、私に軽く口づける。息を呑んだ私の小さな呼吸まであわせて飲みこむように、黒尾くんは足を止めると、もう一度口づけを重ねた。そのまま抱え込まれるように、黒尾くんにぎゅっと抱きしめられる。
 ようやく腕の中から解放されたときには、頭の中は黒尾くんでいっぱいになっていた。
「い、今ので勉強したこといくつか飛んでいったんだけど……!」
「まじ? じゃあもう一回キスしたらショック療法でも思い出すかな」
「もっと飛んで行っちゃうだけだよ!」
「じゃあもうキスしないでおく?」
「…………」
「はい、目とじてね。こっち顔向けて」
「……単位落としたら黒尾くんのせいだから」
「そこで絶対に落とさないのが名前だろ」

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