30

「あ、あ、あわわ、あわわわわ……」
 口から洩れた言葉にもならない声と、本能的に逃げねばならぬと感じている身体。そして引き受けた職務を途中で放棄してはならぬという、なけなしの理性。
 それらが私の中で怒涛の勢いでせめぎ合った結果、私はさながら野生のクマと遭遇したときのように、黒尾くんから視線をそらさぬまま後方の友人のもとへとじりじりと後退した。そして黒尾くんに悟られぬよう、できるだけ口を動かすことなく小声で確認する。
「あの、本当に申し訳ないんだけど、私ちょっとトイレ行ってきてもいいかな?」
 私とは別の意味で黒尾くんと灰羽くんに釘付けになっている友人は、私の緊張感に満ちた声に我に返り、怪訝そうに尋ねた。
「え? ああ、それはいいけど……でも今あそこのイケメン、名前ちゃんの名前呼んでなかった?」
「いやいや、気のせいでしょ。あんなイケメン、恐れ多くてお近づきになんてなれないよ」
 と、適当なことを言って友人の追及を躱すと、私は手近に置いていた財布と携帯だけをひったくるように手に、全速力で校舎の方へと走り出した。後ろの様子を伺う勇気はない。が、「あっ、逃げたぞ!」とか「追え!」とか、背後からは物騒な言葉が聞こえてくる。内心悲鳴を上げながら、私はとにかくその場から逃げ去ることだけを念頭に、無我夢中でキャンパス内を駆けた。
 幸いにして地の利は私にある。ここは私の通う大学なのだから、建物の構造や位置関係はよく頭に入っている。これだけ混んでいれば、身長が大きくて目立つ黒尾くんたちと違い小柄な私は人ごみに紛れやすい。彼らのことは撒くだけ撒いて、とにかく服を着替えてこよう。そうだ、私は別に黒尾くんたちに会いたくないわけではなく、ただこのこっ恥ずかしい格好を見られたくないだけなのだ。
 それにしても、一体なぜ黒尾くんたちはここにいるのだろう。逃亡のさなか、私は息を切らせながら考える。
 今日の黒尾くんは音駒の部活に顔を出していたはず。私とのデートが夕方からなのはそのためだ。音駒から私の大学まで、特別遠くはない。だが、歩いてこられるほど近いわけでもない。だから黒尾くんたちが学祭にいるのなら、明確な目的を持ってやってきたとしか思えない。
 明確な目的。そんなものは考える間でもない。黒尾くんの目的は、十中八九私のはずだ。
「いや、なんで……!?」
 なんでそうなる。どうしてそうなる。制服を着ることさえ言わなければ、黒尾くんがわざわざ来たりはしないと踏んでいたのに。いや、たとえ制服のことを知っていたとしても、わざわざ来るとは思わなかった。何せ私と黒尾くんは三年間同じ学校に通っていたのだ。今更私の制服姿になんて何の希少価値もないはずだ。
 とはいえそれを言えば私だって、今更制服を見られたところでという話になってしまう。だがそれとこれとは別問題だ。コスプレだと自認している恰好を、まさか見られたいはずがない。
 しばらく走ったところで、人影に忍んで背後を確認した。灰羽くんも黒尾くんも、どこにも見当たらない。二人とも身長が大きいので、追いかけてくればすぐに見つけられるのがこちらのアドバンテージだ。
 ようやくほっと胸をなでおろし、目立たない校舎の影に移動した。地べたにそのまましゃがみこみ、ひとまず息を整える。人混みを縫うように走っていたため、全力疾走していたわけではない。それでも普段運動習慣のない私には、なかなか激しい運動だ。
 じわじわ呼吸が整ってくる。酸素不足だった頭も、しだいにクリアになってきた。現在地から更衣室までは距離があるが、人混みにまぎれていけば、更衣室までたどり着けないことはないだろう。黒尾くんたち部外者は更衣室の場所は知らない。知っていたとしても、女子大内で更衣室の周りをうろうろするほど、彼らは常識知らずではない。
 念のため携帯を確認すると、黒尾くんから何件も着信が入っていた。申し訳ないがこの電話をとることはできないし、かけ直すこともないだろう。心を鬼にして携帯をしまう。甘い気持ちでいては、黒尾くんと渡り合っていくことなどできない。
 ──なんて考え、立ち上がったその時。
「見つけた」
「……えっ」
 完全に虚を突かれ、反応が遅れた。はっとして見ると、いつのまに傍に忍び寄っていたのか、研磨くんが私の腕をしっかりと掴んでいる。
「えっ、なんで! 研磨くんいた!?」
「……いたよ」
「研磨くんも私を探してたの!?」
「そういうわけじゃないけど……静かなところを探してたら、たまたま名字さんがいて……。クロが名字さんを探してるのは知ってたから」
「ああ……」
 なるほど、そういうことだったのか。ここまでの疲労が一気に押し寄せ、私はがくりと脱力した。研磨くんがびくりと肩を震わせる。「大丈夫、ちょっと気が抜けただけ」と微笑むと、「ごめんなさい」と気まずげに謝られてしまった。
 そこから先は早かった。研磨くんの連絡であっという間に黒尾くんと灰羽くんが合流し、少し遅れて山のように食べ物を抱えた夜久くんと海くんがやってきた。てっきり灰羽くんと黒尾くんの二人しかいないと思った時点で、私の負けは決まっていたのだろう。
 合流した黒尾くんが、研磨くんの隣にしょんぼりしゃがみこむ私の頭に、ぽんと優しく手を置いた。
「名字さん、思ったより足はえーのな」
「捕まえた側の余裕ですかそうですか」
「いや本気で褒めてんだって。逃げるかなーとは思ってたけど、逃げたところで絶対捕まえられると思ってたのに」
「結局研磨くんに見つかったけどね」
「人混みから外れたのが運の尽きだな。人混みの中なら研磨には絶対見つからなかっただろうから」
 連行されるように黒尾くんにぴったり隣を歩かれながら、自分のクラスの出店へとすごすご戻る。その後ろを夜久くんたちがついてきており、今回も結構な大所帯だ。長身の男子がこうも固まって歩いていては、女子大内では目立つことこの上ない。
「黒尾くんたち、本当に目立つよね……」
 普段黒尾くんとふたりで歩いていても、視線を感じることは多い。単純に日頃見慣れない高身長だということもあるし、黒尾くんが人目を惹くルックスだということもある。今日はさらに灰羽くんや海くん、夜久くんもいるので尚更だ。
「みんな名字さん見てんじゃない?」
「それはないって分かってるから大丈夫です」
「いやいや、見るでしょ。俺の視線は釘付けですよ」
「そうですか」
「つーか名字って、高校んときそんなギャルっぽい感じじゃなかったよな?」
 後方を歩いていた夜久くんが痛いところを衝いてくる。いよいよ己の居た堪れなさに泣いてしまいそうだ。
「これはその、クラスの子が接客用に色々やってくれたのとか、そういう感じで」
「いいんじゃねえの? あんま見ない感じの名字さんで、俺の気分は上がる」
「名字さんの制服姿ってなんか新鮮っすねー!」
「三年間着てた制服に新鮮も何もないよ……」
「おいリエーフ、焼き鳥落とすぞ」
 わいわい纏まりのない話をしながら、視線を振り切りキャンパス内を歩く。皮肉にも、体格のいい男子たちに囲まれて歩くキャンパスは、自分ひとりで逃げ回っていたときよりもずっと歩きやすかった。

 バレー部を引き連れ出店へ戻ってみると、友人たちは途端にわっと色めき立った。それも然もありなん。こちらにはイケメン灰羽くんを始め、各種いい男が揃っている。乙女ゲームもかくやというものだ。
「ただいま戻りました。残り時間一生懸命働かせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします」
 半ばやけくそでそう言って、私は自分の持ち場であるレジ前に向かおうとする。けれどすぐさま友人に肩を掴まれ、私はその場に足止めされた。
「いいのいいの。今客足途絶えてるから」
「いや、でも仕事……」
「それで、名前ちゃんの彼氏さんはどなたかな?」
「どなたというか」
「どうも、名前の彼氏の黒尾です。いつも名前がお世話になってます」
 わざわざ一歩前に出て、滅多にないいい笑顔で自己紹介する黒尾くん。思わず眩暈がした。猫かぶりもここに極まれり。しかも今、しれっと私を名前で呼んだ。どさくさに紛れて好き放題やらかしている。
 軽くにらんでみるものの、黒尾くんはどこ吹く風で、友人たちからの質問攻めにあっている。
 その後も友人たちはバレー部の面々に、次々名前を聞いていく。私はそれを、複雑な思いで眺めているだけだ。迂闊に諫めれば私が集中砲火を受けることは想像に難くなく、また恋の狩人と成り果てた友人たちを邪魔しては後が恐ろしい。
 一通りの自己紹介と事情聴取を終えると、この場の総監督を務めている友人が私を呼んだ。にっこり顔の友人は大層機嫌よく言った。
「彼氏さん来てることだし、名前ちゃんはちょっと早いけどあがってもいいよ。あとは私たちだけでも回せそうだし」
「えっいや、それは悪いよ。四時までっていう約束で引き受けたんだし、四時まではやっていくよ」
「えー、でもせっかく来てくれた人たち待たせるのも悪いし。あ、そうだ。焼きそば買っていってくれたらそれでチャラってことにしよう」
「いや、でもね」
「いいからいいから。はい、まいどありー」
 押し切られるような形で焼きそばを二パック買って、私はほとんど無理矢理店番から解放された。半ば追い出されたような形で、焼きそばのパックを手に呆然とその場に立ち尽くす。すでに友人は私のことなど眼中になく、愛想よく海くんに話しかけていた。
「なんだかなあ……」
「名字さん、それ食わないなら俺にください」
 先ほどからしきりに空腹を訴えていた灰羽くんに頼まれて、パックを彼に手渡す。レジ係の合間に差し入れをちょこちょこ貰っていたので、私はそれほど空腹でもなかった。
「黒尾、お前名字さんと回るよな?」
 夜久くんが黒尾くんの肩を叩く。海くんは友人たちとの会話を切り上げて、灰羽くんと研磨くんを引き連れほかの屋台を見に行っていた。この場に残っているのは私と黒尾くん、夜久くんだけだ。
 黒尾くんはにんまりと笑って私をちらりと見る。そして夜久くんに視線を戻すと、
「おっ、何だい? やっくん気利かせてくれるの?」
 にやにや嬉しそうに言う。
「まあそのくらいはな。この間のときは木兎に散々邪魔されてたし。リエーフたちにはうまく言っておいてやるから、二人で見て来いよ」
 じゃあなー、と手を振って人混みに消えていく夜久くんは、それはそれは男前な顔をしていた。私の手からかばんを取り上げて、空いた手に向け黒尾くんが「はい」と手を差し出す。少しだけ悩んで、私はその手をとった。

 特にあてもなく、ふたりでキャンパスの中を練り歩く。学祭の終了時間が迫っているためか、飲食系の店は軒並み値段を下げている。
「黒尾くんお腹空いてる?」
「まあ、ぼちぼち。名字さん──じゃなかった。名前は?」
「……」
「名前は? おや、返事がない。名前はどうなのかな?」
「ちょっと、それわざとやってるでしょ」
 恥ずかしがっているのを隠し、むっと上目遣いで睨んだ。付き合って数か月、そろそろ名前呼びに変わってもおかしくない頃なのだろうが、だからといっていきなり呼ばれるとそわそわする。
 そんな私を、黒尾くんは楽しそうに眺めている。
「名字さんにも余裕が出てきたみたいだし、そろそろ次のステップに進む頃かと」
「次のステップが名前呼びなの?」
「心理的な距離が縮まる感じするだろ」
 黒尾くんの言いたいことは何となく分かる。「黒尾くん」「名字さん」という呼び方は、世間の同年代のカップルと比べて、たしかに多少他人行儀な感じはあった。ただの知り合いだった頃から変わらずなのだから、他人行儀で当然だ。
 けれど、私は男子に名前を呼ばれたことなどほとんどない。ただ名前を呼ばれるだけでも、ぐっと気恥ずかしい。
「もしかして名字さん、名前で呼ばれるの好きじゃないとかある?」
「……そういうことはないけども」
「名字さんが名前で呼ばれるの嫌なら、俺は苗字で呼ぶよ」
 私の反応が芳しくないのを察してか、黒尾くんが何ということも無さげにフォローを入れてくれた。その気遣いが嬉しくもあり、申し訳なくもある。
 逡巡ののち、私は答えた。
「嫌じゃないよ」
「本当? 名前って呼んでいいんだ?」
 恥ずかしくなって、浅く頷いた。嫌ではない。名前を呼んでくれるのが、黒尾くんならば。
「……いいけど、揶揄うみたいなのはやめてね。恥ずかしくなるから」
「了解」

 話がまとまったところで、出店をいくつか回って食料調達を済ませた。買ったものを手に空いたベンチを探すが、生憎とどこも満席だった。終了時刻が近くなって、店番をしていた学生を待っているらいき来客者もかなり見られる。
「しょうがない、校舎の中入ろうか」
 ちょうど私たちの現在地は教養棟の出入り口前だ。今日も通常営業している研究棟ではそこを使っている学生に迷惑をかけかねないが、教養棟ならば誰の迷惑になることもないはずだ。
「俺ここの生徒じゃないけどいいの?」
「今日くらいはいいんじゃないかな。もし怒られたら謝って出ればいいと思う」
「部屋に鍵とかかかってねえの?」
「多分大丈夫だと思うけど……」
 話しながら手近な講義室のドアを開いた。思った通り施錠はされていない。よく見ると教室の前方のホワイトボードには「ゴミは持ち帰る」と書かれている。どうやらここも、臨時の休憩スペースとして開放されていたらしい。
 外の喧騒は漏れ聞こえてくるものの、建物の中はひっそりと静まり返っていた。屋台やステージが見える窓際の席に座って、机の上に買ってきたものを広げる。少人数の講義で使うような小さな教室だ。こうしているとなんだか高校の頃を思い出す、とそんなことを考えていると、黒尾くんが「高校のときみたいだな。名前は制服着てるし」と笑った。
「つーか、なんで制服着るって教えてくれなかったの」
「だって、どう考えても恥ずかしいでしょ。コスプレってがらでもないし……」
「似合ってるしいいんじゃない? それに高校のときは名前と制服デートとかできなかったし、今日制服の名前と一緒に歩けて嬉しかった」
「制服ひとつで?」
「そりゃもう。ていうか今更だけど可愛すぎない? そんなんで接客して変なやつに絡まれなかった? 大丈夫?」
「あの混雑具合でそんな余裕なかったよ」
「よかったよかった。美味しい焼きそばに感謝だな」
 そういうものだろうか。私を褒めてくれるのは嬉しいし、その言葉を疑うつもはないのだが、それでも黒尾くんは私への評価が高すぎる気がする。何度も言うように私は黒尾くんが思うほどモテないし、黒尾くんが言うほど特別でもない。
 釈然としない思いを胸に、道中買ってきたわらび餅を頬張った。と、黒尾くんが私の口許に手を伸ばしかけて──何故かふと、引っ込めた。
「ん? なあに?」
「口のところ、きなこついてるぞ」
「え、うそ」
 指の先で口許を拭おうと手を上げた瞬間、その手を黒尾くんに掴まれた。そのままゆっくりと、机越しの黒尾くんの顔が近づく。
 あ、キスするんだ。そう思って目をつむると、少しの間の後、思った通り黒尾くんの唇が私の唇に重なった。黒尾くんが私の唇をはむ、と軽くついばむ。触れるだけよりも少しだけ積極的なキスに、とたんに頭の芯がふわふわとしてくる。
 キスもしばらくぶりだった。黒尾くんに身を任せ、キスの感覚に浸る。黒尾くんが手のひらをすり合わせるようにして指を絡め、私の手を握った。
 やがて口づけられたときと同じように、ゆっくりとくちびるが離れる。ぼんやりとした頭で目蓋を開き、黒尾くんを見つめた。「顔、とけてる」と黒尾くんが笑う。
「名前って普段ここの教室で講義受けたりすんの?」
「うん、週に何回か」
「じゃあ今度からこの教室で講義受けるたび、俺とキスしたこと思い出すんじゃない?」
「そ、そんな不埒な学生じゃないんですけど」
「不埒って。よく分かんねえ語彙が出たな」
 くくっと喉の奥で笑った黒尾くんは揶揄うような眼差しを私に向けている。その瞳になんだかむしょうに悔しくなって、私はふいと顔を背けた。

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