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 波乱に満ちた黒尾くんの大学の学祭も無事終わり、しばらはこれといったイベントの予定もない。大学入学以来何かと慌ただしい毎日だが、今週末はバイトもなく久し振りののんびりした休日だ。夕方の黒尾くんとの約束まで、だらだら過ごしてしまおうか。と、そんなことを思っていた土曜の昼下がり。
「お願い! 名前ちゃんしかもう頼れる相手がいないんだよー!」
 大学近くのカフェに急遽呼び出され、何事かと駆けつけてみれば、友人が周囲の視線もものともせず、机に額をつけそうな勢いで私に頭を下げているのだった。
 とにかく気まずく恥ずかしいが、今はとりあえず目の前の友人に顔を上げてもらわないことには仕方ない。
 できるだけ嫌だという意思表示の意味も込めて、私はもう一度、友人に確認する。
「えーっと、来週末の学祭の、人手が足りないって話だよね?」
 繰り返しの質問をする私に、友人は顔を上げ、ぶんぶんと首を縦に振った。
「そう、クラスで出す出店! 土曜日の一日だけ、いや半日だけ手伝ってくれたらそれでいいんだよー! その日に店番だった予定の子が何人か急にインフルエンザになっちゃって、まじで本当に困ってる」
「それはそれは……、こんな時期のインフルなんてその子たちも可哀想に」
 これは本心からのコメントだ。インフルエンザとなれば解熱後数日は学校にも出てこられない。まして、病み上がりの身で屋外の出店に立つわけにはいかないはずだ。
「ね、可哀相だと思うなら、半日だけでも手伝ってくれないかな……。ねっ、利益が出たらそれで美味しいもの食べられるし、ねっ」
 必死に懇願され、思わず呻いた。友人として、微力ながらも力を貸してやりたい気持ちが無いわけではない。だが、やはり気乗りはしなかった。
 うちの大学は都内にいくつかキャンパスを持っている。ひとつひとつのキャンパスはけして大きくないので、普段は人の出入りもそう多くない。勉強するのに最適な、静かな環境の大学だ。
 大学祭も各キャンパスごとに時期をずらして開催するため、ひとつひとつの規模はけして大きくない。どちらかといえば小規模でこじんまりとした部類だろう。
 ただし、うちの大学は女子大。そして我が校には伝統的に、かわいい子が多いという都市伝説が付き纏っている。大学祭の表向きの目的は研究室の開放および研究内容の発表、あるいは学生の自主的な活動の促進などであるのだろうが、実態としては他校生との交流──異性間交友の出会いの場。すると集客率、特に男の人の集客率が上がるのは言うまでもない。
 狭いキャンパスに溢れる人の海。つい先日黒尾くんの大学の学祭を見に行っただけに、当日の様子が目に浮かぶようだ。想像するだけでげんなりしてしまう。
 第一、出店を出すというのに、私のような勝手がわからない人間がいれば、かえって邪魔になりそうなものだ。
「でも私、今までの準備とか打合せとかも何も参加してないよ。当日の流れとか何もわからない自信がある」
「それは大丈夫。当日は私がずっと調整役でいるし、分からないことがあったら聞いてくれたらなんでも答えるよ。売るのは焼きそばだけど、調理はほかの子が担当だし」
「じゃあ私は何をするの? 客引きとかは本当に無理だよ」
「名前ちゃんにはお勘定をお願いしようかなと思ってる。あんな混む店でバイトやってるし、レジ業務には慣れてるよね?」
 それを言われると、反論の言葉も出てこない。私が人気のカフェでバイトをしている話は、親しい友人ならばみんな知っていることだ。その忙しさはおそらく、学祭の会計とは比にならない。
「それに名前ちゃん、前に『有志での参加とはいえ何もしないのは申し訳ないし、手伝えることがあったら言ってね』って言ってくれたよね?」
「そ、それはだから、事前の準備とかそういう手伝いの話であって」
「お願い、この通り! 時間の都合が合わないとかであれば、こっちでどうにか調整するから!」
 ふたたび頭を下げられてしまう。もはや私に逃げ道はなかった。もともと押しに弱い性格だという自覚もある。
 溜息をひとつ吐き出すと、私は「わかったよ」と答えた。途端に友人が顔を輝かせる。
「半日って、土曜の午後だよね」
「うん、一時から四時まで。次の日もあるから片づけはそう大掛かりじゃないし、そのくらいならほかのメンバーでやれるから、名前ちゃんは参加しなくて大丈夫。名前ちゃんには人が来る時間帯だけお願いできたらなと」
 土曜日はたいてい黒尾くんと短いデートの予定が入っている。だが、その約束も五時だ。時間ぴったりに大学を出れば、黒尾くんとの約束に間に合わないこともない。
「じゃあ、一時から四時までの三時間だけでよければ。延長とかはできないんだけど、それでも大丈夫?」
「全然大丈夫!」
 渋々折れた私に対し、友人は満足げに頷く。早速携帯を取り出すと、クラスのグループトークで私が当日参加することになった旨を送信した。これで今後、やっぱり気が変わって断ることなんてことはできなくなった。
 友人は鮮やかな指捌きで携帯をいじりながら「そういえば」と付け足した。
「当日は目立つためにも制服コスプレするから、高校のときの制服持ってきてね」
「えっ!?」
「ほら、ただの焼きそばだといまひとつ集客力に欠けるから」
 当たり前のように告げられた言葉に、自分が蒼褪めるのが分かった。
 そんなの聞いてない──そう抗議の声を上げようとした私の手を、さながら悪魔のような笑顔で友人ががっしり掴む。
「ありがとう、救世主! 当日よろしくね!」
 そうしている間にも、クラスのグループトークには続々と既読の数が増えていく。ちらりと見えたその画面には溢れんばかりの感謝の言葉が綴られている。
 もはや引き返すことはできなかった。

 ★

 その晩、私は黒尾くんに事の顛末を電話で伝えた。もちろん最後に聞いた、あの悪魔のような条件──当日は高校時代の制服着用という部分は伏せてだ。そんな恥ずかしいコスプレイベント情報を黒尾くんに流すほど、私は考えなしのあっぱらぱーではない。黒尾くんは良識と常識に溢れる彼氏ではあるものの、時折とんでもない揶揄や悪戯を仕掛けてくることがある。迂闊な情報を与えれば、追い詰められるのは目に見えている。
 来週の土曜日は、黒尾くんは音駒の方で後輩指導があるらしい。デートをするにしてもその後、会うのは夕方からという約束だった。
「引退しても後進を育てようという熱意がすごい」
 と私が言うと、
「まあ楽しいしな」
 と笑われる。
 自分だって大学のバレーが忙しいだろうに。ひとたびバレーのこととなれば、とことん労を惜しまず楽しめる人間なのだ。黒尾くんのそういうところは、これといって趣味のない私には眩しくて仕方がない。
「それにしても、バイトがないからって学祭の助っ人引き受けるって、本当名字さんは人がいいというか何というか」
 自分でも痛いと思っていたところを衝かれ、私は呻き声を上げた。
「私だって引き受けるつもりはなかったんだよ? でも、なんというか、気付いたら押し切られちゃってて」
「それ、名字さんなら押し切れると思われてんだろ。その友達も結構相手を見てる感じあるな」
「……黒尾くんもやっぱりそう思う?」
 私も薄々そんな感じはしていた。クラスの出店に参加していない友人は、私以外にも何人もいるからだ。
「俺が同じ立場でも、多分名字さんに頼むかな。丸め込むのが簡単そう」
「まるめこむ……」
「実際、俺も結構名字さんの押しの弱さに付け込んできた自覚あるしな」
「えっ、そうかな? 黒尾くんはかなり私に優しいと思うけど」
「出た、壺買わされそうな人発言。優しいって言われて悪い気はしねえけど」
「どういうこと」
「そのままの名字さんでいてほしいってこと」
 くっくと黒尾くんが笑う。そして、
「で、学祭で名字さんのクラスは何すんの?」
 しれっと話題を元に戻した。
「ええと、たしか焼きそばって言ってたかな。何人か料理上手な子でレシピ共有して回すみたい」
 端から調理係を頼まれていないので、詳しい事情についてはよく知らない。ただ、当日万が一調理係に回されることがあったとしても、レシピが決まっているので大丈夫だという話だけは聞いている。当番制で店を回す以上は、誰が調理を担当しても同じ味になるように作らねばならないらしい。
「名字サンだって料理できないわけじゃないんだから、調理の方やればいいのに」
「まあ、調理やりたい子がいるんだからわざわざ私が出る幕でもないかなって。それにレジの方が、責任は重いけど慣れてるし」
 普段のバイトでも、私の仕事は主に接客とレジ打ち、そして補充や何かのこまごまとした作業だ。調理はオーナーが担っており、私は簡単なドリンク作りくらいしかしていない。だから会計の方が、作業としては馴染みがある。
 そう説明すると、黒尾くんは少しだけすねたような声を出した。
「黒尾くんはなんでそんなに私に調理をさせたがるの」
「別に調理してほしいってわけじゃねえよ。ただ、会計はなー、と」
「なんで?」
「だって調理の方だったらマスクしたりするだろ。表にも出ねえし、変な男に声かけらる心配がない」
「ああ、そういうことか。大丈夫だよ、うちの大学には可愛い子がいっぱいいるから。私なんて全然、お声がかかりません」
 笑ってそう説明するけれど、電話の向こうの黒尾くんは納得していなさそうに唸るだけだ。
 最近の黒尾くんは、妙にやきもちを焼きたがる。この間の大学祭の時にもやたらと木兎くん──同学年だと分かったのでさんをつけて呼ぶのはやめた──が話しかけてくるのを妨害していたし、灰羽くんとの会話も耳ざとく聞かれていた気がする。彼女としては悪い気はしないのだが、生憎と私は黒尾くんが気にするほどモテるわけでもなかった。黒尾くんと付き合うまで彼氏がいたことなんてなかったのだし、心配するようなことはひとつもない。
 とはいえ、いくら私が事実を説明したところで、黒尾くんがやきもちを焼かなくなるわけではないのだろう。私だって黒尾くんの女の子関係のことが気になるから、気持ちはわかる。おまけに私と違って、黒尾くんは大いにモテているはずだ。
 それでも私が普段黒尾くんの周りにいるだろう女子に妬かずに済んでいるのは、黒尾くんが言葉を惜しまず与えてくれるから。何万回「大丈夫」と言われるよりも、一回「名字さんだけ特別」と伝えてくれる方が、ずっとずっと安心できる。
「黒尾くんは心配性だなぁ。だいたいね、万が一声かけられるようなことがあっても、私は黒尾くん以外の男の人に興味ないよ」
「おお……、なかなか言ってくれるね」
「黒尾くんと付き合ってたらね。こういうのも、だんだん慣れてくるよ」
「うんうん、よい傾向だなぁ。まあ、俺は照れて恥じらう名字さんも好きですが」
 そんな会話を楽しみながら、私はふと視線をクローゼットに向けた。そういえば制服をどこにしまっただろうか。黒尾くんと電話しながらクローゼットの中を探る。
 卒業してまだたったの三か月、まさかこんなにもすぐに音駒の制服を着る日が来るとは思いもしなかった。制服は段ボールに入れてクローゼットの中の棚の上、さらに一番奥にしまい込んであるはずだ。踏み台に乗って手を伸ばすと、なんとか段ボールに手が届いた。
「よ、いしょっと」
「ん? 名字さん何してんの?」
 黒尾くんが怪訝そうに尋ねる。電話の音声だけでは、この状況は伝わらないだろう。
「ちょっとね、クローゼットの中の整理整頓を」
「こんな夜中に何してんだよ」
「思いついたが吉日っていうでしょ?」
 言いながら段ボールを引き摺りだす。つい最近しまい込んだばかりの制服は、しまったときとほとんど同じ状態だった。無事に見つけた制服は洗濯ものに、スカートはハンガーにかけておく。ついこの間までこの部屋に当たり前にあった制服だけれど、こうして見ると何故かひどく懐かしい気分になった。
 と、ふと思いつたことを黒尾くんに尋ねてみる。
「ねえねえ、黒尾くんってバレーしに音駒に行くときは、今でもやっぱり音駒のジャージ着ていくの?」
 脈絡のない話題転換に、黒尾くんは少し戸惑ったようだった。
「いや、普通に適当なジャージか大学の着ていくけど。ていうかいきなりだな。どうした?」
「付き合ったのが卒業してからだったから、そういえば黒尾くんの部活ジャージ姿とかって全然見られなかったなあと思って」
 まさか自分の制服を見て思いついたなどとは、口が裂けても言えない。ひとまずそれっぽいことを言ってごまかす。黒尾くんは納得したらしく、ああ、そういうこと、と呟いた。
「高校のジャージもちゃんととってあるし、そのうち俺んち来たときにでも見ればいいんでない?」
「あ、それいいな。見たいかも。たしか真っ赤だよね?」
「そう。気になるなら名字さんの寝間着がわりに貸してやろうか」
「ええー? でも黒尾くんのジャージだとサイズ大きそうだから、私ではちょっとさすがに着れないなあ」
 夜久くんや研磨くんサイズならまだ着られないこともないだろうけど。
 そんなことを考えながら答えると、電話の向こうの黒尾くんが笑った。
「名字さんって本当、色々通じねえなあ」
「えっ、何?」
「押しに弱いくせに、ここぞというときに押されてくれねえなって言ってんの」

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