02

 黒尾くんと連絡先の交換をして、それからお互いの大学準備の話や黒尾くんの部活の話──全国大会の応援には私は行かなかったけれど、全校生徒の半分以上が応援に行ったらしい──しばらく世間話をしていたら、あっという間に授業終了を告げるチャイムが鳴った。昼休みは図書室も混みあう。そうなる前にと、私と黒尾くんはさっさと図書室を後にすることにした。
 黒尾くんが立ちあがったので私も一緒に立った。そこで私ははたと気づく。私は起きた時からずっとソファに座っているけれど、黒尾くんは床にぺたんと座ったままだった。これはなんだか申し訳ないことをしていた、と今更気付く。
「今更だけど、床に座らせててごめんね。もしかしなくても、私が寝てたから遠慮して隣に座らなかったんだよね?」
「いや、別にいいって。俺カイロ貼ってるし」
 そう言って黒尾くんは、ブレザーの上から腰を叩く。そこにカイロを貼っているからあたたかいのだと、そう言いたいらしい。
「まあ、遠慮はしたけど。でも気にすんなよ。女子が床座ると尻冷えるし」
「どっちかが床に座る前提なんだ」
「まあね。つーか寝てる名字さんのこと床に落っことして俺がソファー使うとかそれはちょっと極悪すぎだから」
「ふふ、たしかに。じゃあ、ありがとう?」
「なんで疑問形。どういたしまして」
 言葉選びはへたくそ──というかうまく茶化されてしまったけれど、黒尾くんがさりげなく配慮のできる人なのだということはよく分かる。私はひそかに感じ入り、そして素直に感心した。そういうところも、黒尾くんがモテる所以のひとつなのかもしれない。
 それに強豪チームの主将だったというのならば、黒尾くんは一年以上も血気盛んな後輩男子高校生たちのことをまとめ上げていたのだろう。黒尾くんは視野が広く、色々なことに気が付くタイプなのかもしれない。
「名字さん弁当教室?」
「そう。黒尾くんは? 食堂? 購買?」
「いや、俺も教室で弁当」
 三年の教室に足を向け、何ということもない会話で間を埋める。図書室のあたたかい空気にすっかり慣れていたせいで、廊下の冷気は肌にぴりりと痛く感じた。
「そういえば、私もカイロ持ってるんだった」
 いそいそとポケットからカイロを取り出し揉んでいると、それを見た黒尾くんがにやにや笑う。
「なんかそうやってしてるとすげえ寒そうに見える」
「実際寒いもん。黒尾くんは寒くないの?」
「寒いけどそこまでではないな。全然我慢できるレベル」
「男子だからじゃない?」
「何それ関係ある?」
「分かんないけど……」
「普通に貼るカイロ貼ってるからじゃねえかな」
「それは……たしかにそうだね……」
 筋肉量がどうこうとかそういうイメージで話してみたけれど、特に根拠があって言い出したことでもない。適当に話を流すと、黒尾くんがまたヒヒヒと笑った。
 黒尾くんは話をしていてあまり気を遣わずに済む相手だ。話していて気が楽とでもいうべきか。普段の私ならば、あまり親しくない男子と話すときにはどうしても緊張してしまう。けれど黒尾くんに対しては、それほど苦手意識を感じずに済んでいた。多分、黒尾くんの飄々としたつかみどころのない雰囲気と、なんとも言えない脱力感みたいなものが、変な気負いや緊張感を全部どこかへ流してくれるのだろう。
 もしかして、黒尾くんは意図的に話しやすい雰囲気を作ってくれているのだろうか。そう考え、いやそれは流石に考えすぎかもしれないと、すぐに頭を振って考えを打ち消す。どうも黒尾くんのキャラを掴み切れない。ちらりと黒尾くんを見上げると、意味深な笑みを返されてしまう。

 一緒に教室まで戻ってくると、黒尾くんはさりげなく私と離れ、そのまま夜久くんの方に向かった。私も席に着き、鞄からお弁当箱を取り出す。携帯を確認してみると、新規メッセージが一件入っていた。購買にパンを買いに行ってくるという、友人からの連絡だった。
 そういえば、黒尾くんとも連絡先を交換したんだっけ。ふとさっきまでの黒尾くんとの遣り取りを思い出し、知らず視線を黒尾くんへと向けた。
 自分の席で夜久くんと話している黒尾くんは、私の視線になど気付くこともなく、持ってきたお弁当を大きな口で食べている。私のお弁当箱の倍はあるんじゃないかと思われる、真っ黒で大きなお弁当箱。やっぱり男の子は食べる量が段違いだ。机の上の自分のお弁当箱に視線を落とし、しみじみと男女差を思い知る。
 友人が戻ってくるのを待つ間、登録したばかりの黒尾くんの連絡先をぼんやりと眺めた。アイコンの写真は、おそらく部活のときに撮ったもの。赤いユニフォームの男の子たちが何人か並んでいて、その真ん中に黒尾くんが座っている。よく見ると夜久くんぽい人や見たことのある人が何人か写っている気もするが、如何せん写真が小さすぎる。
「うーん、拡大しないと分かんないな……」
 ぼそりと呟きつつアイコンをタップしたちょうどそのとき、背後からぽんと肩叩かれた。
「お待たせー。それなに見てんの? どっかの部活の集合写真?」
 パンと缶のコーンスープを持った友人が、私の後ろから携帯の画面をのぞき込んでいた。けして解像度の高い写真でもないのに一瞬でそこまで判別するとは。
「あ、それバレー部か」
「すごい、ユニフォーム見ただけで分かるの?」
「まあ、私は試合の応援いったからね」
 なるほど、それで写真を見ただけでバレー部だと分かったのか。学生生活をしっかり送っている生徒というのは、こういう子のことを言うんだろうなと感心する。
「それで、なんでバレー部の写真なんか見てるの?」
「さっき黒尾くんと連絡先交換したから。アイコン部活の写真なんだなーと思って見てた」
 正直にそう答えると、友人はわずかに目を見開いて私を見た。
「連絡先を? 黒尾くんと? どういう流れでそうなるの。名前って黒尾くんと仲よかったっけ」
「流れというか、たまたま図書室で時間潰してるときに一緒になって、それでちょっと喋ったんだよ。黒尾くん△△大なんだって」
「名前の大学と近いじゃん」
 それちょっと見せて、と言って私から携帯を受け取った友人は、拡大した写真を穴が開くほど見つめる。別に自分が写っている写真でもないのに、見られていると思うと妙にどきどきしてくる。
 やがて友人は、私はやっぱ夜久くんかな、と言って携帯を私の手に戻しながら笑った。友人は黒尾くん単体を見ていたわけではなく、写真全体を見て好みのタイプを探していたらしい。
「クラスメイトのこと言うのもなんだけど、私夜久くんみたいな系統の顔がすきなんだよね。可愛い系じゃない?」
「あー、なるほど。確かに? そう言われると好きそうかも」
「でしょ。黒尾くんはモテるんだろうけど私のタイプではないんだな」
 黒尾くんだって私たちのことなど好きでも何でもないだろうに。随分と勝手な事を言っている友人に、思わず苦笑してしまう。むしろモテるのは黒尾くんの方なのだから、選ぶ権利は私たちではなく黒尾くんにこそあるのだろう。こちらは選んでもらう立場でしかない。
「ねえ、それもっかい見せて」
「いいけど、どうするの?」
「もうちょい拡大する」
 そう言って、友人は黒尾くんのアイコンの写真をタップすると、先ほどよりももっと大きく拡大した。粗い画質の写真の中で楽しそうに笑っている黒尾くんを見て、私はひっそり溜息をつく。
 他愛ない世間話の中とはいえ、タイプじゃないなんてそこまで言わなくたっていいのに。たしかに黒尾くんは人が寝ている横で平然とゲームしていたりもするけれど、話してみれば結構いい人だ。タイプじゃないなんて、一刀両断されるようなひどい男子じゃないと思う。
 そんなことを考えながら、私は写真の中の黒尾くんに同情の眼を向けた。写真で見る黒尾くんは身体が案外ごつごつしていて、男の子らしく骨ばっていることが分かる。視線を上げて、今度は現実の黒尾くんを盗み見る。今はカーディガンで体のラインが分かりにくいけれど、きっと脱がせたらいい感じの筋肉質な体型に違いない。男の子の裸なんてお父さんくらいしか見たことないから、あくまで私の想像の域を出ないのだが。
 そんなことを考えていたら、手の中の携帯がぶぶぶと震えた。ちょうど受信したばかりのメッセージを開くと、今の今まで眺めていたアイコンが表示されている。

 ”さっきから何見てんの”

 どきりとするような文面に、私は思わず手元から視線を上げて黒尾くんの方を見る。当の黒尾くんはといえば、手元に携帯を持ってはいるものの、視線は夜久くんに向けたまま楽しげに会話を続けている。まさかさっきから私が友人と話していることや、今考えたよからぬ想像が筒抜けになっているのだろうか。さすがに想像の方はばれていないと信じているが、顔に出ていた可能性だってある。だとしたら最悪だ。
 ”別に見てないです” ”自意識過剰”
 ”完全に見てた”
 いくら見てなかったと言い張っても、絶対に認めてくれなさそうなくらいの断言ぶり。しかもこんな文面を送りつけて来ておきながら、黒尾くんは一切こっちを向かない。なんだか、ずるい。
 私がわたわたしている横で、友人がまたひょこりと携帯の画面を覗き込んだ。
「何それ、黒尾くんから?」
「そう。こっちの話聞こえてたのかな。別に見てないのに、めっちゃ見てたって言い張ってくる」
「なんでもいいけど黒尾くん、やることが案外子供だな」
 あんたたち仲いいね。そう言って、友人は携帯のアプリで英単語の勉強を始めてしまった。こうなると私はとことん暇なので、ジュースを飲みながら黒尾くんの相手をするくらいしかすることがない。
 黒尾くんとは特別親しいわけではないけれど、わざわざ来た連絡を無視するのもおかしな話だし、どこからどう見ても暇を持て余している人間が返信を返してこないとなったら、黒尾くんだって多少は不快になるかもしれない。
 ”黒尾くんこそ、こっち見てるから見られてるって思うんじゃない?”
 ”見てないでーす” ”自意識過剰”
 ”マネしないでよ”
 ぽこぽこと次々増えていく吹き出しのメッセージを読みながら、一体何をやっているんだろうと笑いそうになる。まるきり子供みたいな会話の応酬は、大人っぽい黒尾くんからは想像もできない。
 こんなことならいっそ口で話せばいいのにと、そう思いつつ、こんな遣り取りのためだけにわざわざ黒尾くんのところに行くのも気が引ける。用事もないのに黒尾くんのところに話しに行くほどは、私は黒尾くんと仲良くない。考えてみれば、私と黒尾くんは実に変な距離だった。
 再びちらりと黒尾くんの方を見る。視線が合うかと、期待する。視線が合ったら、やっぱり見てたじゃん! と送ろうと思う。
 けれど私のいたずら心を秘めた視線は黒尾くんではなく、なんと黒尾くんと向かい合っている、夜久くんの視線とばっちり合ってしまった。私は夜久くんとも、そんなに話したことがない。何となくばつが悪くて頭を下げてみると、夜久くんも私に合わせて会釈した。
 ”なんで君たち頭下げあってんの”
 ”分かんないけど、雰囲気で”
 ”頭下げる雰囲気って何なの”
 ”混ざりたかったら、黒尾くんも混ざってもいいよ”
 そう送信すると、黒尾くんがやっとこちらを向いた。眉尻を下げ、にやにやと笑っている。
 さっき夜久くんにしたのと同じように、私は小さく頭を下げた。すると黒尾くんも頭を下げて、それから何がおかしいのか、今度はお腹を抱えて笑い始めた。夜久くんが少し引いているのが見える。
「いやー、名字さんいいね」
 しばらく笑い続けたのち、黒尾くんは離れた席からそう声をかけてきた。
「どうもありがとう?」
 私もよく分からないなりに返事をする。なんだか気恥ずかしくなって、私は携帯を画面を下にして机に置くと、そのまま机に突っ伏した。
 瞼を閉じると裏側に、黒尾くんの笑っている顔が浮かび上がってくる。
 黒尾くんがよく笑う人なのは知っていたが、あんな風にめちゃくちゃに笑ったりするのは知らなかった。なんというか、無邪気だ。もう少し斜に構えた感じの大人っぽい人だと思っていたから、これは少し、意外かもしれない。こんなことくらいであんなにも笑ってくれるなら、私でもいくらでも笑かせそうな気すらする。
 そう考えると、不思議と黒尾くんのことが少しだけ可愛く思えてくる。あんなにも大きくてがっしりした男の子なのに、可愛い要素まで持っているのはずるい。そりゃあモテるに決まっている。
「いやー、なんか春だねえ」
 だしぬけに友人が言う。その言葉の意味が分からず、私は顔を上げると首を傾げた。
「いや、まだ全然冬でしょ?」
 私の返事に、友人がにやりと笑った。

prev - index - next

- ナノ -