27

 すぐ近くで軽音部が演奏をしているはずなのに、ステージ裏は思ったよりもずっと静かだった。音の飛ぶ方向ではないからかもしれない。風による葉擦れの音ばかりが、やけに大きく耳につく。
 黒尾くんはなかなか話を切り出さない。ただ黙って、私が手渡した缶ジュースを見つめている。その沈黙が居心地悪く、私は何度も足を組み替えたり、指の爪を見つめたりしてみた。が、結局この沈黙に耐え切れなくなり、「あの」と私の方から黒尾くんに声を掛けた。
「その……怒ってる?」
 おずおずと訊ねると、黒尾くんは一瞬私をじっと見据えたあと、少しだけ眉尻を下げて笑った。変に優しげな笑顔ではない、いつもの黒尾くんの笑顔だ。その笑顔に、また安堵する。
 黒尾くんが長い足を投げ出して、大きく伸びをした。そしてまた、私と視線を合わせる。
「まあ、そうだな……怒ってるっていうよりはびっくりしてる、だな。もともと来てほしくないって俺の言い方もアレだったし、そこは名字さんに悪いことしたな、どっかで埋め合わせしねえとなと思ってたんだけど。ただ、怪しまれたりすることはあっても、こっそり来られるとは思わなかった。名字さんが案外頑固だったことに驚いてるよ、俺は」
「頑固……、頑固かな」
「いや、頑固。普通あそこまで言われたら来ないだろ。しかもなんか俺の知らんとこでバレー部のやつらと仲良くなってるし。夜久以外ほぼ初対面じゃん、急に社交的になりすぎじゃない?」
「本当に初対面だったのは灰羽くんだけだよ」
「そういうことじゃなくてね?」
 いまいち黒尾くんの言いたいことが掴み切れず、ついつい怪訝な顔をしそうになる。だが、この状況ではおそらく理は黒尾くんの方にあるのだろう。私は粛々とうなずいた。
 とはいえ、てっきり勝手に突撃してきたことを叱られるかと思ったが、蓋を開けて見れば黒尾くんはびっくりしているだけだという。思っていたのとはまったく違う展開に、こちらこそ驚いていた。
 その上、頑固だとまで言われてしまった。黒尾くんの考えていることは難解なことも多いが、褒められていないことだけは分かる。頑固な女子、と聞いて連想するのは、可愛げがなくて頑なな姿だ。
「頑固だと、嫌いになる……?」
 ふいに不安になって、恐る恐る尋ねた。黒尾くんはにやと笑って、
「それはない」
 と、きっぱり告げる。その表情に嘘がなかったので、またほっとした。今この空気の中ならば、一番聞きたかったことも聞けるような気がする。意を決し、私は座ったままで黒尾くんに身体を向けた。
「ねえ、黒尾くん」
「ん、何だね」
「黒尾くんは、どうして私に来てほしくなかったの?」
 緊張はしていたが、声が裏返ったりすることもなかった。私はじっと、黒尾くんの瞳を見つめる。
 こうして普通に話をしているということは、私に対して隠したい何かが、今ここにあるわけではないのだと思う。多分だが、女子の影があるわけでもなさそうだ。それならばどうして私を学祭に呼びたくなかったのか。その理由を、どうしても私は知りたかった。このしつこさを頑固だというのならば、なるほどたしかに私は頑固なのだろう。
 黒尾くんは私から視線をそらし、ふたたび手の中の缶に茫漠とした視線を送る。やましさゆえに視線が逸れたわけではないはずだ。私はただ、黒尾くんが話してくれるのを待った。
 黒尾くんは、少しの間そうして黙りこんでいた。それから何か決心がついたのか、一度大きく溜息をつき、口火を切った。
「……さっき、俺と一緒にいたやつ分かる?」
 唐突に問いかけられ、私は慌てて記憶を遡る。さっき一緒にいたというのは、きっと黒尾くんの隣にいた大きな男子のことだろう。榛色に似た瞳の、不思議と目を惹く男子。名前はたしか──
「木兎さん、だっけ」
「そう、木兎」
「あの人がどうしたの?」
「学祭に来るってなったら、多分木兎と顔を合わせることになるだろ。それが分かってたから、来てほしくねえなと思ったんだよ」
 黒尾くんは少しだけ不貞腐れたような顔をしたが、すぐにいつものへらりとした顔に戻った。ついでに私のチュロスを横から一口かっさらう。そういえば自分で食べたくて買ったはずのチュロスを、私はまだ一口も食べていなかった。折角揚げたてを買ってきたのに、手の中のチュロスはもうすっかり冷めている。
「木兎さんは、でも、黒尾くんの友達なんだよね? 友達に会わせたくなかったってこと?」
「違う違う、そういうことじゃない。今なんかネガティブなオーラ察したけど、全然そういうのではないんでね、本当。名字さんは俺の自慢の恋人だから」
「そ、そこまで言ってもらうと照れてしまうんだけど……」
「俺とふたりのときなら、どんだけでも照れて」
「……そういう冗談は今はいいから」
「冗談でもねえんだけど。まあいいか」
 くしゃりと笑って、黒尾くんがチュロスを持つ私の手に、自分の手をそっと重ねた。
「木兎のことは中学から知ってて、高校のときは一緒に合宿したり試合したり──まあ浅からぬ縁があるわけでね」
「うん」
「普段は馬鹿だし調子もいいしいいやつだから、結構仲よくやってると思うんだけど……、大学入って、どっから聞いたんだか俺に彼女がいるって知った途端、会わせろ紹介しろ写真見せろって、これがまあうるさいの何の。それでまあ、会わせたくなかったんだよな」
「……黒尾くんの友達の前ではそこまでの粗相しないように頑張るよ」
「いや、だから名字さんの方の心配はしてない。相手が相手っつーか……あいつうるせえしちょっと空気読まないところあるしずけずけ物言うし、いい意味でも悪い意味でも素直なやつなんだよ。だから名字さんに嫌な思いさせたら嫌だな、と」
「そっか。気遣ってくれてありがとう」
 黒尾くんの言葉は、前にステーキを食べながら聞いた言葉よりもずっとずっと、黒尾くんの本心に近いもののように聞こえた。きっと今口にした言葉はすべて、嘘偽りなく黒尾くんの思いなのだろう。
 それでも黒尾くんの本心は、まだ別のところにあるような気がした。あまり根掘り葉掘り聞かない方が、こういうことはうまく運ぶのかもしれない。そう聞き分けのいいことを思う一方で、もっと本心を打ち明けてほしいと願う自分もいる。
 そんな私の葛藤を見抜いたのか、黒尾くんが呆れたように笑った。
「名字さんって案外鋭いな」
「あ、案外って」
「今のも嘘ではないってことは分かってる?」
「……うん、それは分かるよ」
 もちろんそれは、分かってる。というより、ステーキを食べながら聞いた話だって、けして嘘ではなかったのだろう。どこまで本音に近いのかというだけの話だ。黒尾くんは私に対して、保身のための嘘を吐くような人ではない。
「名字さんにはここで納得してもらえると、俺としては恥の上塗りというか、ダサさの上塗りをせずに済むんだけど」
「……ださいの上塗りしてても、私は黒尾くんのこと好きだよ」
 励ましになるかも分からないことを言ってみる。黒尾くんは一瞬びっくりしたように目を見開いて、それからがくりと頭を抱えた。
「……こういうのがあるから、名字さんは油断ならねえんだよなぁ」
「本心なんですけど」
「いや、うん。分かるよ、それは分かる。ただ、そうやって急にかっこよくなられると、うだうだ言ってる俺が余計にださくなるっていう、複雑な男心も分かってもらえるかね」
 そうして黒尾くんは、がしがしと自分の髪を掻きまわしてから、
「木兎のことも本心だけど、本音ではない。本音はやっぱ『見せたくない』、だな」
 どこか清々しい声でそう述べた。
「見せたくないって、誰に?」
「木兎にもだけど、先輩とか友達とか、いろんなやつに。そりゃ俺だって名字さんのこと自慢したい。そりゃもう、でかい声で言いふらしたい。けど、それでうっかり他のやつから可愛いとか思われたら困るとも思ってんだよ。俺という彼氏がいるんだから、名字さんにモテられたら困る。ただでさえ大学入って、名字さんどんどん可愛くなってんのに、っていう。以上、俺の心狭い話でした」
 そんなふうに、無理矢理話を締めくくった黒尾くんだった。後半はほとんど自棄っぱちのような話ぶり。しかも内容が内容なだけに、聞いているこちらまで恥ずかしくなってきてしまう。先ほどまでとは違う、生温く甘ったるい沈黙に包まれた。
「え、ええと……なるほど、そういう……あの、はい……」
「返答に窮するんじゃないよ」
「だって、そんなの、そんなのはさぁ……」
 どう返事をすればいいものか、皆目見当もつかなかった。こんなことを言われるなんて、いや、そもそも黒尾くんがそんなふうに思っていたなんて、私はまるきり想像していなかったのだ。
 黒尾くんの知り合いに紹介してほしい。そんな思いが、これまでなかったわけではない。黒尾くんは私にはもったいないほど素敵な彼氏だ。だがその事実は幸福でもある反面、少なからず私のことを不安にもする。知り合いに紹介するということは、それだけでも自分のことを認めてもらえているような気になれる。
 しかし黒尾くんがそんな風に思っていたこと──私のことを見せたくないなんて思ってくれていたことを知り、私はもう、どうしようもなく嬉しくなってしまった。黒尾くんが私のことを可愛いと思ってくれていること。独占欲を感じてくれていること。そのことが嬉しくて、幸せだった。黒尾くんのことを少しでも疑った自分が恥ずかしくなるほどに。
 膝の上でもじもじしていた私の手を、黒尾くんがぎゅっと握りなおす。はっとして黒尾くんの方を見つめると、黒尾くんもこちらを見つめていた。
 あたりに人影はない。野外ステージの音楽はいい感じのバラード。
「いろいろ隠してて悪かった」
「ううん。私こそ、急に押しかけてごめんね」
「なんか俺、本当に名字さんのことが好きみたいだわ。これ、この間も言ったっけ?」
「聞いたかな」
「まあ、何回言ってもいいだろ。こういうことは」
「……うん」
 少しずつ、私と黒尾くんの距離が縮まってゆく。黒尾くんがかすかに顔を傾ける。唇が触れそうな距離になり、ぎゅっと目を瞑った、その時。
「ヘイヘイヘーイ! 話し合い終わったー!?」
「うわっ、おい!!」
 木兎さんの大きな声とそれを咎める夜久くんの声がして、慌てて身体を黒尾くんから退く。それでも黒尾くんの手がいつのまにか私の肩をとらえていて、それほど距離は離れない。
 ぱちりと目蓋を開いてみれば、目の前には心の底から嫌そうな顔の黒尾くんがいる。そして黒尾くんの視線の先──ちょうど私たちから死角になっていたステージの影には、にやにや顔の木兎さんと夜久くんと灰羽くん、それに心底どうでもよさそうな研磨くんと、申し訳なさそうな海くんがいた。
 それはつまり、今まさにキスしようとしていたところを、この場の全員にもれなく目撃されていたということで。
「なっ、ななななな……」
 羞恥心により言葉を失う私にかわって、黒尾くんが私の肩に手を置いたまま溜息を吐く。
「なに、お前らいつからいたの。盗み見盗み聞きとか趣味悪くないですか?」
「……名字さんの『怒ってる?』あたりからいた」
「思い切り最初からじゃねーか!」
 律儀に答えた研磨くんに、黒尾くんが思い切り怒鳴る。ここで怒鳴られるべきは研磨くんではないような気がするが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
 顔に熱が集まって、頭がくらくらした。黒尾くんがさりげなく、私の肩を抱いて支えてくれる。その隙にこちらに駆け寄ってきた木兎さんが、まじまじと遠慮なく私を眺めた。羞恥で身もだえしそうな身体が、無遠慮な視線に晒されぎくりと強張る。
 眺めたというよりは観察するといった方が正確かもしれない。私が身を固くしたことに気付いたのか、黒尾くんが立ち上がり、私を隠すように木兎さんと私の間に割って入った。
「あっ、何だよ黒尾!」
「何だよはこっちの台詞だ。人んちの彼女そんなじろじろ見ないでくれます?」
「だって気になるだろ! 黒尾めちゃくちゃ彼女自慢するくせに、写真一枚見せてくれねえし!」
「木兎に見せたらなんか減りそうで嫌なんだよ」
「減るって何が減るんだよ! むしろ俺は増やす!」
「人の彼女を勝手に増やすなよ」
 その遣り取りを見ているうちに、いつのまにか顔に集まった熱も散っていた。知らぬうちに隣に来ていた海くんが「あれが俺らといるときの通常運転の黒尾だよ」と説明してくれる。なるほど、あのテンションの高さはたしかに、私とふたりでいるときにはお目にかかることはできない。口を挟む気すら起きず、私はふたりの遣り取りを見守った。
「……なんか楽しそうでいいなあ、男の子」
 思わず呟くと、「馬鹿な話ばっかりだけど」と海くんが微笑む。
「海くんも彼女と友達の前だと違う顔する?」
「そりゃあ、多少は」
 照れたように言う海くんに、なんだか心が和んだ。裏表のなさそうな海くんですらそうなのだから、やはりそれが普通なのだろう。私だって、自覚はないけれど黒尾くんには頑固と言われたし、そういう側面が全くないわけではない。むしろ黒尾くんしか知らない私がいるとすれば、それにはちょっとわくわくもする。
 相変わらず木兎さんとやいのやいの言い合っている黒尾くんに、研磨くんがちょっと、と声を掛けた。
「クロも木兎さんも、店番の時間大丈夫なの?」
「えっ今何時──あぁっ!?」
 気が付けばふたりが店番をする予定の時間から、すでに十分以上経過していた。全速力で出店まで戻ったが、ふたりともしっかり叱られた。まったく大丈夫ではない。
 それでも友人と彼女が来ているということで、温情を掛けてはもらえたらしい。私とバレー部の四人全員、黒尾くんたちバレー部の出店が出している焼きそばを買うということで話がついた。もちろんお金を出したのは黒尾くんと木兎さんだ。自分の分くらいは払うと言ってみたのだが、それはきちんと断られた。

 ともあれ。黒尾くんの本心も聞けたし、バレー部の面々と話すこともできた。当初の目的を果たすどころか、かなり得をしてしまった気がする。遅くならないうちにそろそろ帰ろうかと、帰りの電車の乗り換えを確認していると、
「店番三十分くらいで上がらせてもらえることになったから、それが終わったら一緒に学祭回ろうぜ」と黒尾くんに誘われた。せっかくなので、そのお誘いに乗ることにする。
 バレー部はもう少しこの辺でだらだらしつつ、当初の予定通り研磨くんとともにキャンパス内を見て回るらしい。黒尾くんの店番が終わるまでは、私も一緒に時間を潰すことにした。
 その後、ふたりきりで回るはずだった学祭に、どういうわけだか木兎さんまでくっついてきて、結局手も繋げなかったことについては割愛する。だが、甘い言葉をたくさん聞くことができたのだから、今日のところはこれで良しと思うことにする。

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