25

 黒尾くんとのデートから数日後の日曜日の朝。私はクローゼットの前でひとり、しかめっ面をしていた。
 来るな来るなと黒尾くんに散々念を押された大学祭だが、あれから数日かけて悩んだ末、黒尾くんに黙ってこっそり行くことに決めた。△△大の大学祭は大規模で、大学の多いあの辺りの地域でも、来客数はダントツを誇るという。ということは、ささっと行ってささっと帰ってきてしまえば、きっと黒尾くんには気付かれない。それなら何も問題はないはずだ。
 本当は、黒尾くんに黙ってこんなこと──黒尾くんの嫌がることをするのは気が引ける。だからこそ、この数日じっくり悩み抜いたのだ。しかし駄目と言われれば、余計に気になるのが人間の性というもの。黒尾くんに隠し事をすることに罪悪感は感じるが、元をただせば黒尾くんだって隠し事をしている。私が黒尾くんに隠れて大学祭に遊びに行ったところで、怒らせこそすれ、私が怒られる謂れはない──そう思い込むことで、罪悪感から落ち込む自分を、どうにか励ます。
 黒尾くんとのデートで着たことがない服を選び、クローゼットから引っ張り出す。普段と服装の系統を変えていけば、万一顔を合わせる事態になってもすぐにはバレまい。小手先の策だが、それでも策を打たないよりはましだろう。
 昼前に家を出て、現地に到着したのはちょうどお昼時だった。駅から黒尾くんの大学までは歩いてすぐだが、電車を降りた時点で目に飛び込んできた凄まじい人の海に、軽く眩暈を覚える。きっとこの中のほとんどが大学関係者か、大学祭に遊びに来た客なのだろう。大学祭を高校の文化祭に毛の生えた程度だと思っていた私は、すでにカルチャーショックを受けていた。
 しかし同時に自信もつく。これだけの人がいれば、黒尾くんに見つかる可能性は限りなく低いはずだ。もともと黒尾くんには部活で出している屋台の仕事もある。来るはずないと思っている私を見つけることなど、到底できはしないだろう。
 少しだけ気分を持ち直しながら改札を出る。と、そのとき、ふいに背後から肩をたたかれた。
「名字さん?」
「うわあ!?」
 黒尾くんに見つからないようにという最重要ミッションのため、己に緊張を強いていた私だが、集中は前方にだけ向けており、背中を完全にがら空きだった。うっかり驚き悲鳴を上げる。
 びっくりしたまま振り返ると、そこには見たことのある顔もない顔も、揃って私の方に向き並んでいた。
「夜久くん! と、研磨くん、たち!」
「たちって」
 からからと笑うのは、卒業した後の打ち上げぶりの夜久くんだ。その周りには研磨くんと、それにたしかバレー部だった海くん──そして名前を知らない大きな外国人が立っていた。
 驚く私に、夜久くんが気さくに話しかけてくれる。
「久し振りだなー。名字さんも黒尾の大学の学祭行くの? つーかひとり? 黒尾は?」
「ええっと、うん、ちょっと色々あって、今日はひとり」
「ふーん、向こうで黒尾と合流するとか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないというか、むしろ今日は隠密行動で……」
 私の説明に夜久くんが怪訝な顔をする。そりゃあそうだ。彼氏の大学の学祭に行くというのに単身で、しかも彼氏と約束しているわけでもないなんて、不可思議に思われて当然だった。そもそも私は本来内気なたち。ひとりで他校の大学祭に行くようなタイプでないことは、さほど親しいわけでもなかった夜久くんでも知っているはずだ。
「なんか訳アリ?」
「訳というほど大層なものでもないんだけど」
 と、私と夜久くんがぼそぼそ会話をしていると、 
「夜久さん夜久さん! その人誰っすか!?」
 夜久くんの頭越しに、外国人風の顔立ちをした男の子が割り込んでくる。思わず視線を上げると、きらきらした瞳が私を見下ろしていた。
 整った容貌と長身。顔ぶれからして、きっとこの子もバレー部なのだろう。そういえば高校三年生の頃、校内でこの顔を見たことがあるような気もする。下級生とはあまり交流がなかったが、ここまで目を惹く容姿であれば記憶に残っていてもおかしくない。
 私がおぼつかない記憶の中を探っていると、夜久くんが背後に立ったその外国人の子を軽く足蹴にして叱った。
「リエーフ! 迷惑になるから駅で飛び跳ねんなよ。つーかそもそも人の頭の上で喋んな」
「だって夜久さんの横に回るより、こっちから見た方がよく見えるじゃないですか」
 ずいぶん失礼な言いぐさだが、夜久くん以外はみないつものことというように静観している。一頻り長身くんを𠮟り飛ばしたのち、夜久くんは私を長身くんに紹介してくれた。
「こっちは名字さん。高校のときの同級生で、今は黒尾の彼女」
 その説明に、リエーフと呼ばれたその子は一層瞳をきらめかせる。存在が眩しく、思わず私は目を細めた。
「ああー! 噂の!」
「噂……!?」
 一体どういう噂になっているというのだ。私はひとり、激しく怯えた。しかしひとまず黒尾くんに彼女がいるということ、それが私であるということは伝わっているらしい。見ると海くんも穏やかな笑みを浮かべている。
 私と海くんとはクラスが一緒になったことがなく、海くんという名前も黒尾くんから見せてもらった写真で覚えた。三年間同じ学校に通ったとはいえ、今日がお互いに初対面のようなものだ。
 夜久くん以外では研磨くんが私のことを知っているはずだが、その研磨くんは今日も夜久くんの後ろに隠れて携帯をいじっていた。時折こちらに視線を向けるも、視線が合うとすぐに目をそらされてしまう。さすがに会うのも二回目では、まだ慣れてはくれないらしい。
「名字さん、こっちは海と研磨は知ってる?」
 夜久くんに問われ、私は肯く。
「で、このでかいのが」
「灰羽リエーフ! です!」
 リエーフと紹介されたその子は、カタカナの名前だがきれいな発音の日本語だった。そういえば先ほど夜久くんと話していたときも、はきはき日本語を話していたと思い出す。
 屈託ない笑顔を私に向けてくれているので、研磨くんとは対照的に誰とでもすぐに話せるタイプなのかもしれない。とはいえやはり、向かい合うと途轍もない圧を感じた。黒尾くんと付き合うようになって長身の男の人にも慣れつつあるが、それでもかなりの圧迫感がある。
「俺らも学祭のぞきに来たんだ。名字さんがよければ、一緒に行かない? 女子がひとりで歩くのは結構大変な人出だよ」
「だな。俺らは黒尾の顔見に行くけど、その前に別れれば隠密行動もできるだろうし」
 海くんと夜久くんがそう言って誘ってくれた。私はちらりと研磨くんに視線を遣る。私の視線に気が付くと、研磨くんは「おれは別に、どっちでも」と囁くような声音で呟いた。慣れるまでは程遠いが、少なくとも一緒に行動するくらいならば気にならないようだ。
「それじゃあ、あの。よろしくお願いします」
 浅く頭を下げ、私は夜久くんたち一行とともに大学へと向かい歩き出した。

 大学までの道中に聞いたところでは、今日は研磨くんの大学見学も兼ねているらしい。研磨くんは成績優秀で、黒尾くんも通うこの難関大学を第一志望にしているそうだ。黒尾くんは私には絶対来ないでほしいと言っておきながら、研磨くんにはなんと「丁度いいし一回見に来いよ」と声を掛けていたらしい。
 研磨くんの引率に夜久くんと海くん、話を聞きつけた灰羽くんが勝手についてきたそう。灰羽くんの人なつこい雰囲気を見れば、大体の遣り取りが想像できるというものだ。
「そんで、名字さんはなんでひとりなの?」
 大学の正門に用意された派手なアーチが見えてきた頃、夜久くんが首を傾げて尋ねた。流れで一緒に行動している以上、私も隠さず事情を説明すべきだろう。
「実は、黒尾くんから学祭に来ないでほしいって言われてて」
「なんで?」
「分かんない……。一応いろいろ理由は説明してくれたんだけど、でもその理由がなんか変なんだよね。こう、とってつけた感じがあるっていうか、本心じゃない上っ面っぽいっていうか……」
「ふうん?」
「そもそも一番最初は学祭があること自体を私に隠してたっぽいんだよね。それで、これは何かおかしいぞと思って、結局黒尾くんに内緒で来ちゃった。だから今日の私は黒尾くんに見つからないように現れ、音もなく去る予定です」
「ああ、だから最初に声掛けたときにあんなに驚いたんだ」
「そう。一瞬黒尾くんに見つかったかと思ってものすごく焦った」
 私の事情を聞いた夜久くんたちは、それぞれ目くばせし合って苦笑した。ただひとり灰羽くんだけが、笑顔できょろきょろ周囲を見回している。
「まあ、俺らはあいつが何考えてるか大方の検討はつくけど」
 夜久くんの苦笑に、「ここの大学ってあの人もいるんだよね」と研磨くんが呟く。
「黒尾もなあ、面倒くさいやつだから」
「えっえっ、あの人って誰っすか!?」
 夜久くんと海くん、研磨くんが納得顔をしている横で、灰羽くんがみんなの周りをちょこまかと動き回る。ちょこまかとといっても身長が大きく圧迫感があるので、暫くちょこちょこ動いた後また夜久くんに叱られる。
 それにしても、私の拙い説明だけでこうもあっさり黒尾くんの思考を想像できてしまうとは。築き上げてきた関係性や培ってきたものがある分、彼らの方が私よりもずっと黒尾くんのことを理解しているというのは分かる。だが、さすがにこうもはっきりそれを示されると、いくら何でも自信をなくす。
「もしかして私は、黒尾くんの深慮にまったく考えが至っていなかったのかな……。今からでも帰った方がいい……?」
「いやいや、そんなに落ち込むほどの話じゃないって。つーかちゃんと説明してない黒尾が悪い」
 夜久くんがすかさずフォローを入れてくれる。相変わらず話の見えていない灰羽くんは、今度は海くんにしつこく聞いていた。
「名字さんが思ってるような理由ではないと思うからそこは気にしなくていいよ。な、研磨」
「うん、クロはかっこつけだから」
「大体、何考えてるかなんて言わなきゃ分かんねえんだから黒尾が悪い。名字さんも気にせず楽しめば?」
 夜久くんが笑って励ましてくれる。相変わらず事情がよく分からないなりにも、その優しさがありがたかった。

 大学祭というのは、私が想像していたよりもずっと大規模で、華やかで、そして活気に満ち溢れた催しだった。大学の周囲の沿道からすでに、熱気に包まれている。その熱気にあてられて、胸の中に残っていた黒尾くんへの罪悪感はいつの間にやらきれいさっぱり消し飛んでいた。
 人見知りゆえ人混みも厭うらしい研磨くんが、
「クロは裏方だって。店番するって言ってた時間まで、まだ二時間くらいあるよ」
 と早くもげんなりした調子で言う。
「まじか、まあ一年だし、裏方が多いのは仕方ねえか」
 お昼時をやや過ぎているとはいえ、どこも順番待ちの列だらけだ。長身の灰羽くんのおかげではぐれる心配はないが、出店を見ながらうろうろするに集団行動は不向きだった。私と夜久くんたちは一緒に来たわけではなく、はぐれても特に問題はないのだが、急に消えたりしたらそれはそれで迷惑を掛ける。人混みの中でも縦横無尽に歩く灰羽くんを見失わないよう、気を付けながら歩く。
「じゃあ折角だし、時間までその辺見て回るか。名字さん食べたいものあったら教えて」
「うん」
「彼女だったらはぐれないように手とか繋ぐんだけど、黒尾の彼女じゃそういうわけにもいかねえし、リエーフ目印に頑張ってついてきて」
 同じことを考えていたらしい。夜久くんが少しだけ笑った。
 夜久くんとも、高校時代にはあまり話したことがない。今こうして一緒にいるのも、考えてみれば不思議なことだった。これも黒尾くんと付き合った縁だ。
 さっきから頻りにきょろきょろしていた灰羽くんが、最後尾にいた私のもとにひょこんとやってくる。きれいな顔で笑って私を見下ろしている灰羽くんは、好奇心に満ちたきらきらした瞳をしていた。
「名字さんといるときの黒尾さんってどんな感じですか!?」
 脈絡なく灰羽くんが尋ねた。
「ええ? どんな感じ……うーん、難しいなあ」
「たとえばでれでれとか甘えてくるとか! そういうやつ!」
「普通だよ、普通。普通にかっこいい黒尾くんだよ」
「リエーフ馬鹿お前、名字さんは彼氏としての黒尾ばっか見てんだから、何が黒尾のでれでれなのかとか分かんねえだろ」
「ああっ、そっか! たしかに! あ、じゃあキスとかもうしました!?」
「ヒェッ……」
「リエーフ! 名字さんのこと困らせんな! そういうことは黒尾本人に聞け」
「……クロは絶対話さないと思うけど」
「黒尾が言いたくない話を名字さんが話すとも思えないな」
 私がひとつ悲鳴を上げている間に、会話はどんどん進んでいく。そのスピードと率直さに怯みながらも、どこか楽しさを感じる自分もいた。きっと普段からこんな感じで灰羽くんが盛り上がり、夜久くんがツコミをする係なのだろう。ここに黒尾くんが混ざったらどういう風になるのだろう。想像してみるだけで、楽しい気分になる。

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