23

 結局、ゴールデンウィーク中は二回しか黒尾くんと会えなかった。だが、それではゴールデンウィークが終わってからは頻繁に会えているのかと言われれば、その実まったくそういうわけではない。
 黒尾くんの部活が忙しいこともあり、私もバイトをひとつ増やした。週に一度、親戚の子の家庭教師をすることになったのだ。もともとのカフェのバイトも続けているので、学生としてはそれなりによく働いている。サークルとバイトを両立させている子は、大体こんな感じなのだろうかと思う。
 家庭教師のバイトは昔から知っている子が相手なので、カフェのバイトほど働いてるという感じはしない。それでもお金をもらっている以上真剣に予習や準備もしていく。時間外の準備が多いのは断然、家庭教師の方だ。
 その話を電話で黒尾くんにしたら「名字さんって本当真面目だな」と笑われてしまった。バイトの家庭教師といっても、世間ではそういう準備をしない人もたくさんいるらしい。私からしてみれば、長年バレーとずっと向き合い続けている黒尾くんの方が、よほど真面目だ。
 その黒尾くんは、いよいよ本格的に部活が始まったそうだ。まずはその生活に慣れる必要があり、部活そのものよりもむしろ、生活を慣らす方に苦労しているらしい。毎日一限から講義がある私と深夜のバイトをしている黒尾くんでは、生活のリズムが合わないことも多い。
 連絡だけはこまめにとっているが、黒尾くんが送ってくるメッセーズの文面からも、黒尾くんが疲れている様子が時折窺えたりする。黒尾くんの性格を思えば、そういうものが滲み出て伝わってしまうという時点で、相当きついのだろうと推察できる。
 黒尾くんのために、私にも何かできることはないだろうか。そう考えてもみるものの、結局のところ、無理をさせないということが一番なのだろう。下手に何かしてあげるよりも、何もしないことの方が助けになることだってあるはずだ。
 気付けばゴールデンウィーク以来、二週間も黒尾くんと顔を合わせていなかった。

 お風呂上り、ベッドにごろんと横になる。特に考えもないままに、黒尾くんとのトーク画面を開いて眺めた。文面から黒尾くんの姿が思い起こされて、知らず識らずのうちに指が唇に触れる。
 私にとって、あれはファーストキスだった。黒尾くんには言っていないが、黒尾くんが私のはじめての彼氏という時点で、察していただろう。舌を入れたりもしないやさしいキスだったはずなのに、思い出すだけで熱に浮かされたように顔が熱くなる。
 重なった唇の感触や、唇の隙間から洩れる黒尾くんの吐息、私に触れる指──そのすべてを、あれから二週間たった今もまだ、折に触れ鮮明に思い出す。あのデート以来キスはしていない。あの一回こっきりが、いつまでも私の心に鮮烈に焼き付いている。
 むしょうに黒尾くんの声を聞きたい気分になったが、今日は部活の日だったことを思い出す。黒尾くんはいつも部活が終わると連絡をくれるから、それがないということは、今もまだ部活の集まりに顔を出しているのだろう。溜息を吐き出し、携帯を充電器につなぐ。
 そろそろ寝ようと思い、照明のリモコンに手を伸ばしたそのとき、枕元の携帯が通知音を鳴らした。慌ててベッドの上に正座して携帯をとる。電話の主は、今一番声を聞きたい相手だった。
「もしもし! 名字です!」
「知ってますが」
 くつくつと笑う気配がして、思わず顔がゆるんだ。声のトーンを落とした黒尾くんの、掠れた声が耳に甘く響く。
「遅くに電話して悪い。名字さんもう寝るところだった?」
「全然まったくまだ寝ない」
「絶対今の嘘だろ。完全に寝る姿勢に入ってただろ」
「入ってない、寝ない。起きてる」
「頑なかよ」
 呆れたような笑い声すら愛しくて、胸の中がむずがゆくて仕方ない。空いている方の手を胸の前でぎゅっと握りしめ、ひとり黒尾くんの声音を堪能する。
 黒尾くんの言うとおり、本当はもう寝るつもりだった。だが黒尾くんからの電話とあれば、起きているに決まっている。時計を確認すると十一時を少し回ったところ。部活が終わってご飯を食べて、帰ってきたくらいだろうか。
 そんなことを考えていると、黒尾くんが「まあいいや」と笑った。
「そういうことならさ、今俺名字さんちの前あたりにいるんだけど、一瞬だけでいいから家出てこられる?」
「えっ!?」
 思いがけない言葉に驚いて、思わず正座の体勢で腰を浮かせた。そのままベッドから降りようとすると、足がもつれて転びそうになる。
「うわっ!?」
「え、何?」
「ご、ごめん……ちょっとベッドから落ちかけて……」
「大丈夫かよ。怪我とかしてない?」
「いや、全然大丈夫……ちょっとびっくりしただけ……」
 答えながら体勢を立て直し、急いで窓の外を確認する。窓の外は濃い暗闇なうえ、門扉は死角になっていて見えづらい。
 電話の向こうで黒尾くんがくく、と笑った。きっと私の行動なんて黒尾くんにはお見通しなのだろう。
「どう? 出てこられそうなら顔見たいなと思って、それで電話したんだけど」
「今から家出るから、ちょっと、本当にちょっとだけ待っててくれない?」
「了解」
 黒尾くんからの返事を聞いてから、電話を切った。そしてパジャマの上にカーディガンを羽織ると、悩んだ末にマスクをつける。高校時代はすっぴんで黒尾くんと同じ学校に登校していたのだから、今更気にすることなど何もないのかもしれない。だがここ最近は、きちんと身支度を整えた状態でしか黒尾くんと会っていない。今すっぴんを見られるのは、多少抵抗があった。
 髪は頭の上で簡単にお団子にしてごまかす。これならまあ、見られなくはない。そこまで準備をととのえると、家族にバレないよう、私はこっそり玄関を開けて外に出た。
 出てきたよ。そう連絡すると、通りの角から黒尾くんがひょこりと顔を出した。部屋の窓から見えないのでてっきり門扉に張り付くように立っているのかと思ったが、やはりうちの前で待機するのは気が引けたらしい。
 適当に履いてきたお母さんのつっかけで小走りにかけていく。足元でコンクリートが小さく鳴った。
「ごめんね、こんな格好で」
「いや、むしろこんな時間に急に呼び出したこっちが悪いから」
「……どうかした?」
 黒尾くんの声音に、思わず声を低くして尋ねる。
 目の前の黒尾くんは目の下に隈があって、いつもより元気がない。大学用の鞄と部活用の鞄を両方持っているから、きっとこの時間まで部活の集まりがあったのだろう。部活の後に飲み会があったのかもしれない。一年の黒尾くんはまだ飲めなくても、酔った先輩に絡まれることだってある。服からは微かに煙草のにおいもした。
 疲れているならまっすぐ帰ればよかったのに、とは言えなかった。部活のことは私にはわからないことだし、こうして会いに来てくれた黒尾くんを非難するようなことは言いたくない。疲れているなら尚更だ。
 それでもやはり、心配になってしまうものは仕方がない。何も言わない黒尾くんの手を、私はぎゅっと握る。
「部活、おつかれさまでした」
 私に言えるのはそのくらい。私にできるのは、手を握るくらい。見上げた黒尾くんの目元がわずかにゆるんだ気がして、少しだけほっとした。
 私よりも一回り以上大きな手のひらを、両手で包んでやんわり握り続ける。黒尾くんはしばらくされるがままになっていたが、やがてぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「……音駒の部活も結構厳しいけど、部活の後の飯とか色々、疲れるのは断然こっちだな。まだ人に慣れてねえのもあるし、一年だから気ィ遣うってのもあるけど。やっぱ音駒は楽だったんだよな。気心知れたやつばっかっていうか」
「うん、部活のことは分かんないけど、黒尾くんが頑張ってて、あと疲れてるのは伝わる」
「情けない」
「情けなくないけど、ちょっと心配にはなったかな」
 相変わらず手を握り続けながら私は言った。
 こういうとき、私が黒尾くんと同じ大学だったなら、部活のマネージャーだったなら。そういうことを、ついつい考えてしまう。
 そしたらもっと、私も黒尾くんの助けになれたのだろうか。黒尾くんの疲労を軽減させたり、肩代わりすることができたのだろうか。黒尾くんが言葉にしないこまやかな事情までも、ちゃんと分かってあげられたのだろうか。
 そんなことは考えたところで意味のないたらればだ。むろんそんなことは分かっていた。分かっているのに、どうしたって歯がゆく感じてしまう。
 私が黒尾くんに幸せをたくさんもらっているから。だから同じだけ、いや、もらっている以上のものを、黒尾くんにも返してあげられたらいいのに。そう思わずにはいられない。
「……黒尾くん、頭なでてあげようか?」
「いや、名字さんの身長じゃ届かないだろ」
「黒尾くんの協力があればなでられます」
 試しにそう言うと、意外にも黒尾くんは素直に腰を曲げて、お辞儀の姿勢で頭を差し出した。つくつくの寝ぐせ頭を、私は小さい子にするみたいにゆっくり撫でる。
 黒尾くんはいつも、何気ない仕草で私の頭を撫でる。髪型はぐしゃぐしゃになるけれど、私はそうして触れられるのが好きだった。黒尾くんに触れられると、どきどきして胸が騒ぐのに、不思議と落ち着き心地よい。
 しばらくそうして、黒尾くんの頭をなでていた。黒尾くんはされるがままになって、無言で頭をなでられ続けている。やがて黒尾くんが、お辞儀の姿勢のまま私の名前を呼んだ。
「名字さんに頭さわられるの、やみつきになりそうなんだけど」
「こんなことでよければいつでもするよ」
「でも、もう夜も遅いし、もっと一気に名字さんで充電させてくんない?」
「充電?」
 意味が分からず復唱する。黒尾くんが頷いた。
「そ。つまり、こういうこと」
 言うなり黒尾くんは頭を上げ、開いた胸に押し付けるように、思い切り私のことを抱きしめた。抱きしめるというよりも、すっぽり包まれているようなハグ。驚き咄嗟に息を吸い込むと、黒尾くんのにおいがした。
「……俺、汗臭い?」
「……ちょっと」
「悪いけど我慢して」
 私の髪に顔を埋めた黒尾くんが、抱きしめながら大きく呼吸するのが分かった。
「名字さんの髪の毛、すげえいいにおいする」
「お風呂入ったから……」
「え、じゃああんま俺抱きしめない方がいい?」
「ううん、嬉しいからこのままでいてほしい」
「……油断してるとすぐそういうこと言う」
 黒尾くんがくぐもった声で言う。頭がこそばゆい。
 私の方も少しずつ、遠慮がちに、けれどしっかり黒尾くんの身体に腕を回し返す。服の上からでもわかるがっしりした体に、改めて私とは違う、男の子の身体であることを実感する。知らないことをひとつ知るたび、愛しさがひとつ募る。
「なんか弱音吐いてごめん。俺、今まじでださいな……」
「そんなことないよ。むしろ会いたかったから嬉しい。話しに来てくれてありがとう」
「俺、今だいぶ忙しくてあんまり余裕ねえし、会える時間も少ないけど、毎日会いたいし毎日名字さんのこと考えてるから。それで許してもらえないだろうか」
「うん、許す」
「ていうか会いたすぎて、名字さんちの最寄り駅でうっかり間違えて降りたりしてる。割と頻繁に」
「ちゃんと意識を保って」
「……名字さんも会いたいって思った?」
「会いたいって思ってたよ。何回も黒尾くんとキスしたこと思い出してにやにやしてるよ」
「まじかよ、そういう情報どんどんちょうだい」
 ちょっと元気になってくれた黒尾くんにほっとした。いつになく弱気な黒尾くんを見ていると、さすがにちょっと不安になる。黒尾くんが甘えてくるなんて、以前なら想像がつかなかったことだ。
 何もしないことが黒尾くんの助けになると思っていたけれど、もしかしたらそれは少し的外れだったのかもしれない、と黒尾くんの腕の中で思った。もっと会いたいとか、好きとか、そういう感情表現をしてもいいのかもしれない。私が思っていたよりずっと、黒尾くんは言葉を求めている。
「黒尾くん、キスしてほしいよ」
 黒尾くんが、一瞬目を瞬かせた。けれどすぐ、抱きしめていた腕を少しだけゆるめ、ゆっくりと顔を近づける。そっと目蓋を閉じれば、呼吸の間もなくキスが降ってくる。
 二回目のキスはこの間よりも短いキスだった。それでも、愛しい思いに変わりはない。
 少し元気になって帰っていく黒尾くんの後ろ姿を見送りながら思う。多分、私が思っているよりもずっと黒尾くんは私のことを好きで、黒尾くんが思っているよりもずっとずっと、私は黒尾くんのことが大好きだ。

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