22

 目的地である映画館は、カラオケやボーリング場を併設した複合娯楽施設の中にある。施設内にチェーンの飲食店やカフェも軒を連ねているので、その気になれば朝から晩まで一日中でも遊ぶことができる。
 昼前に到着した私たちは、駐車場に車を停めると、ひとまず飲食店街へと向かった。中に足を踏み入れた途端、食欲を刺激するにおいがぷわんと漂ってくる。
「とりあえず、何があんのか一回見てまわるか」
 歩いて一通りの店を確認するが、お昼時とあってさすがにどこも長蛇の列を成していた。どこもかしこも満席なので、開き直って食べたいものを食べることにする。
「黒尾くん何食べたい気分?」
 私が尋ねると、黒尾くんは顎に手を当て答える。
「腹減ったし、がっつりな気分。名字さんは?」
「がっつりだったら、じゃあハンバーグかラーメンかな」
「男子中学生みたいなこと言いだした。なんかいい感じのカフェとかじゃなくていいの?」
「黒尾くんがっつり食べたいんでしょ。それに、私はハンバーガーもラーメンも唐揚げも白米も大好きです」
「なるほど。またひとつ名字さんについて知ってること増えたな」
「ハンバーガーが好きって?」
「男子中学生みたいな嗜好をお持ちって」
「合ってるけども」
「俺も好きだしいいんじゃない?」
 協議の結果、今日の昼食はラーメンにすることにした。ラーメン屋ならば回転がはやく、すぐに席が空くだろうという理由による。
 ラーメン屋で予約の紙に記名を済ませると、一度映画館にチケット発券に行くことにした。上映は二時からなので、ラーメンを食べてからでも十分に余裕がある。
 発券したばかりの二人分のチケットを財布にしまいながら、黒尾くんが私を見て尋ねた。
「当分昼飯呼ばれ無さそうだけどどうする? その辺色々見て回る? 順番近くなったらラーメン屋から電話来るらしいから、いったん外出るのもアリだけど」
 尋ねられ、暫し悩む。施設内にも色々と見て楽しそうな店は入っているし、ゲームセンターもある。施設の外に出れば、徒歩圏内にもちょっとしたデパートがあったはずだ。
 考えて、しかし私は首を振った。
「ううん、その辺座って待ってようよ。ほら、映画の予告とか色々やってるよ」
「いいの?」
「うん。そんなに慌ただしくしなくてもいいと思う」
 わかった、と黒尾くんも頷いて、ふたり並んで映画館のロビーのソファに腰掛けた。目の前の大型スクリーンでは、公開中の映画ともうすぐ封切りになる映画の予告が流れ続けている。
 ぐるりと館内を見回せば、ゴールデンウィーク中のためか、子供連れの家族の姿が多く見られた。私たちが見る映画は子供向けではないが、ちょうど今の時期ならばアニメ映画も色々上映しているはずだ。大型スクリーンでは、私が小さいころからやっているアニメシリーズの新作予告も流れていた。
 その予告をぼんやりと見るともなく眺めていると、
「うわ、これまだ続いてたんだ」
 と、黒尾くんが驚いたように声をあげた。その声はどことなく嬉しそうにも聞こえる。画面の中ではテカチュウが、愛くるしさとはかけ離れたのそのそとした動きで、主人公とともに旅をしていた。
「黒尾くんテカチュウ好きなの?」
「昔好きだったわ」
「多分もう十年以上やってるよね? 小さいころぬいぐるみ持ってたな」
「俺が幼稚園のときに映画観にいった記憶あるぞ」
「私、二番目の映画が好きだった」
「あー、わかる。あれ感動するよなー」
「私が最初に映画館で観た映画が、たしかあれだったはず」
「え、まじ? 俺もだわ」
 主人公とマスコットキャラのテカチュウが冒険の旅に出るその物語は、当時幼稚園児だった私や周りの子供たちをたちまち夢中にさせた。私も幼心に熱中して、毎週テレビにくぎ付けになっていたのを覚えている。今もコンスタントにゲームが発売されているから、シリーズ自体が続いているのは知っていたが、まさかアニメ映画まで続いているとは思わなかった。
 私と黒尾くんは同じ年なのだから、同じアニメを見て育っていたとしても何ら不思議ではない。むしろあれだけのブームだったことを考えれば、ごく自然なことなのだろう。けれどこうして、大人になってから同じ思い出を共有できるというのはやはり嬉しいものがあった。陳腐な言葉だけれど、それこそ運命みたいに感じてしまう。私は結構簡単な感性をしている。
「そうだ。今度どっちかの家であのアニメの映画鑑賞会しよっか。今見たらまた感じ方も違うかもしれないし」
 私がそう提案すると、黒尾くんが一度目をぱちくりさせる。それから何故だか楽しそうににやっと笑った。首をかしげる。
「どうかした?」
「いやー? 名字さんの方からデートのお誘い嬉しいなーと思って」
「そう? 今までもごはん行くのとか、結構私から誘ってると思うけど」
 黒尾くんがさらに笑みを深める。そして、
「名字さん気付いてないかもしんねえけど、それっておうちデートのお誘いってことだよな?」
「おうちデート……」
「いやー、名字さん大胆だなー。要するに、人目のない場所で存分に俺といちゃつきたいと」
 ようやく黒尾くんのにやにや顔の意味が分かった。途端にかあっと顔が熱くなる。
 人目のない場所でいちゃいちゃなんて、まったくとんでもない話だ。私と黒尾くんはまだやっと手をつないだところなのに、気付かなかったとはいえ私はなんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。カップルで映画の鑑賞会となれば、黒尾くんの言っているような状況になることは明白なのに。
「そ、そんなつもりで言ったわけでは断じてないんですけど!」
「恥ずかしがっちゃって。いちゃいちゃいいじゃん、いちゃいちゃ」
「あんまり何回も言わないでよ!」
「いちゃいちゃってだけで何妄想してるんですかー? 名字サンー?」
 完全に揶揄うモードに入った黒尾くんに、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。これ以上揶揄われるようならば、いっそトイレに逃げ込んで籠城してやろう──そう決心したその矢先、黒尾くんの携帯にラーメン屋からの電話が入る。
「さ! すぐさま! 急いでラーメン!」
 無理矢理に話を切り上げる。黒尾くんは引き際を心得ており、それ以上話を続けることはなかった。
 いまだにやにやしている黒尾くんの顔は見ないようにして、ラーメン屋へと急いだ。

 尾を引く照れのせいでかき込むようにお昼を食べ、落ち着く間もなく映画を観た。映画は前評判に違わぬクオリティで、デートでなくても見てよかったと思える作品だった。黒尾くんと一緒ならば面白くなくてもまあいいか、と半分くらいは思っていたので、思わぬラッキーを得たような気分になる。
 映画を観終え、感想を話しながらお茶でもしていたら、あっという間に夕方になってしまった。夕飯まで食べて帰るか悩んだが、黒尾くんには明日も朝から部活があり、私もバイトを入れている。レンタカーを返す時間なども考えると、夕飯は諦めて帰る方がいいということになった。
 そんなわけで、日がまだ沈まぬうちに車に乗り込み、来た時と同じように黒尾くんの運転で帰る。
 帰りもやはり、道はそれほど混んでいなかった。映画の主題歌を歌っていたアーティストのアルバムを流しながら、黄昏のせまった茜色に染まる帰路を行く。映画はすごくよかったものの、途中で差し込まれたラブシーンがかなり濃厚だったこともあり、なんだかうまく黒尾くんの顔を見ることができなかった。
 黒尾くんの方はと言えば、照れたり恥ずかしがるような素振りは一切ない。映画の後に感想を話し合っていたときにも、ラブシーンにはほとんど言及しなかった。私はどちらかといえば、アクションよりもラブシーンにばかり意識が割かれていたというのに。もっといえば、自分と黒尾くんを重ねて見ていたくらいなのに。
 男の子と映画を観に行くことだって、ラブシーンに恥ずかしくなることだって、私にとってはこれが初めてのことだ。黒尾くんに心ときめくのと同じくらい、デートそのものに浮かれてもいる。だが、黒尾くんにとってはそうではないのかもしれない。私にとっての心ときめくデートも、黒尾くんにとっては何度かのデートのうちの一回なのかもしれない。そんなことを、ふと思う。
 もちろん、それで私にとっての「特別」が損なわれるわけではないのだから、だからといって思い悩む必要などありはしない。分かっていても、時々ふっと切なくなってしまう瞬間がある。
「映画、よかったなー」
 運転席の黒尾くんの声に、はっとする。いつのまにかぼんやり思索にふけっていたが、現実に引き戻された。
「うん、アクションシーンとかあそこまで凝ってると思わなかった。笑いどころも色々あったしね」
「結構観てる人も笑ってたしな。あとラブシーンも蛇足感なくてすげえなと思った。予告見たときは絶対いらねえだろと思ってたんだけど」
「本当、すごくよかったよね……」
 あの映画の男女のように、深い絆で結ばれ、ともに生きていける相手と巡り合えたなら、それはどれほど幸せなことだろう。女子ならばそういう出会いを夢見る人も多いだろうし、実際、この映画はそういう理由で若い女子からの人気も高い。
 ただ現代日本では残念ながら、映画の中のふたりのように戦いの中で愛を得ることは難しい。大抵の人間は普通に出会い、普通に恋をする。私と黒尾くんだってそうだ。私にとっては運命みたいなこの恋も、きっとありふれた出会いであり、ありきたりな恋なのだろう。
 ありふれているものが尊くないということはない。ありきたりなものがつまらないものである必要はどこにもない。それでも、特別なものに憧れてしまう気持ちを止めることはできない。
「前世では私たちもあんな風に仲間で恋人だったりして」
 そんな夢物語を口にしたら笑われてしまうかと思ったけれど、意外にも黒尾くんは「かもな」と同意してくれた。
「まあ別に仲間とか恋人とかにはこだわらねえけど、前世でも何かしらの縁があって、その縁で今こうやって付き合ったりしてたとしたら、そういうのは夢があるよな」
「……自分で言い出したことだけど、案外黒尾くんってロマンチストだね」
「いや、これ名字さん用のやつだから。さすがに普通の友達にこんなポエムじみたこと言えるかい」
「ふふ、そうなんだ」
「名字さん俺のこと何だと思ってんの?」
 そんな話をしながらも、車はすいすいと進んでいく。気付けば車はうちの近くまで帰ってきていた。
 なんとなく黒尾くんと離れがたくて、運転している黒尾くんの服の裾にそっと手を伸ばそうとしてみる。けれど結局、恥ずかしくて手を引っ込めた。そうこうしている間に車は今朝私を乗せた通りの角に到着する。
 到着、と言って黒尾くんは車を停めた。
「あとは車返すだけだし俺ひとりで大丈夫だから。今日は一日付き合ってくれてサンキュ」
「いえいえ、こちらこそ。レンタカーとガソリンの代金、次回でもいい?」
「別にいいのに」
「そういうのはきちんとしないとだめだよ。こっちが申し訳なくなるから」
「そういうことなら、また金額送っとく」
 話さなければならないことは片付いて、いつでも車を降りられる。それなのに、なかなかそうできない自分がいる。黒尾くんは急かすこともせず、やわらかな眼差しで私のことを見つめていた。
「今日は名字さんを独り占めさせてもらえて、いい一日だった」
「こちらこそ、こうやって一日一緒にいられて嬉しかったです」
「楽しんでもらえたならよかったよ」
「……はー、離れがたい」
 思わず心の声が漏れた。運転席の黒尾くんは何も言わない。そりゃあそうだろう。離れがたい、なんて無理なことは言っていられない。この後黒尾くんは車だって返しに行かなければならない。分かっているけれど、心のすみで落胆している自分がいる。黒尾くんにも、そう思っていてほしいと思う自分がいる。
 溜息をつきそうになるのをぐっと堪え、シートベルトを外した。と、だしぬけに黒尾くんが私の名前を呼ぶ。
「名字さん、こっち向いて」
「え?」
 乞われるまま黒尾くんの方に顔を向けたのと同時に、彼の左手が私の頭の後ろに回った。そのまま黒尾くんの方に頭を引き寄せられ──気が付くと、黒尾くんの唇が私の唇に触れていた。
 一拍遅れて何が起きているのかを理解する。
「っ、あっ……」
 唇が離れた瞬間息を吸い込むけれど、すぐにまた唇を塞がれた。
 無理な体勢で引き寄せられているのに、体を動かすことも、呼吸することすらできない。目を開けばそこに黒尾くんの顔があると分かっていて、目を開けることもできない。
 車内の時間が止まってしまったみたいに思えた。それなのにBGMにはゆったりとしたラブソングがかかっていて、そういえばあの映画の中で恋人同士が結ばれたときに流れていた音楽も、たしかこんなスローテンポな音楽だったなんてことを今、唐突に思い出す。
 暫くそうして確かめるようにキスを繰り返した。ようやく少し呼吸に慣れてきた頃、少しだけ体の力を抜く。すぐにカチャリと音がして、それからさっきまでよりもっと強い力で引き寄せられた。黒尾くんもシートベルトを外したのだろう、今度は体ごと引き寄せられる。コンソールボックスに乗り上げるようにして黒尾くんが身を寄せる。
 黒尾くんの掌が私の耳に、首にふれる。私とは違う厚くて硬い、熱を持った肌。対照的にやわらかく触れ合うくちびる。触れられた場所から黒尾くんの熱が、思いが流れ込んでくるようだ。
 何度かの息継ぎを挟みながら、長い長いキスをした。唇が離れるたび、角度を変えてそれまでよりももっと愛おしむように口づける。頭の芯がとけたようにぼんやりした。手をつなぐよりももっともっと、黒尾くんを近くに感じる。大切にされていることを実感する。
 やっと唇が離れたとき、私は無意識に黒尾くんの手を握っていた。
「……止まんなくなるな、これ」
「……でももう、本当に帰らないと」
 離れがたいと言ったのは私の方だったのに、恥ずかしさから、逃げを打つような言葉を口にしていた。黒尾くんの顔をまっすぐ見られない。けれど黒尾くんが小さく笑ったことだけは、何となく気配で分かった。大きな掌が私の頭を撫でる。さっきまで私の肌にふれていた、あの手。私をどきどきさせる、てのひら。
「また連絡するね、おやすみ」
 そう言って、私はドアに手を掛ける。黒尾くんが私を呼び止めた。
「あ、名字さん」
「え?」
「最後にもう一回、いい?」
 そうして短いキスをして、今度こそ本当に私は車を降りた。酸素の足らない頭でふらふらしながら家まで歩いて、玄関の扉を閉じた瞬間力が抜けた。ぺたりとその場で座り込んで、先ほどまでの夢のような時間に思いをはせる。
 今日は多分、人生最高を更新した日だ。

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