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 大学生活にも慣れてきた四月も終わり。ゴールデンウィークも、黒尾くんはほとんど毎日部活に明け暮れる予定らしい。
 彼女の私にしてみればそれはそれは残念なことだが、私は私で大学の学部の交流会があったりバイトがあったりと、それなりに忙しいゴールデンウィークになりそうな気配を感じている。自分の予定と黒尾くんの予定を無理やりすり合わせるのがかなり厳しいことは、大学生活が始まってからの一か月ですでに薄々感じることだ。その点、黒尾くんの部活がみっちり詰まっている時期は、私も開きなおって自分のことに集中できる。これはこれで、いい面もある。

 とはいえ、黒尾くんとまったく会わない、会えないというのはいくら何でも寂しい。お互いの事情や予定のすり合わせの末、ゴールデンウィーク中の一日はしっかりデートをする日、一日は一緒に食事だけする日、と、合わせて二日だけデートをすることにした。
 無理をするのはお互いの生活のためにもよくない。黒尾くんとは敢えてそういう話をすることはないが、その辺りは共通認識というか、言わずとも伝わることだ。
 大学の友人に言わせれば「付き合い始めならもっと彼氏と一緒にいたくない!? 大学に入って最初の長期連休じゃん! もっと浮かれなよ!」だそうだが、そもそも私たちには春休みもあったし、お互いのスケジュールをどんどん恋人同士のイベントで埋めていくタイプでもない。
 それに、毎日のように会えるわけではないからこそ、やっと会えたときに嬉しいというのだってある。もっとも私たちの場合は別に遠距離恋愛をしているわけではないので、会おうと思えばいつだって会うことができるのだが。
 
 ゴールデンウィークの三日目。その日のデートは黒尾くんがうちまで迎えに来てくれるという約束で、私は支度をして大人しく家で待つことになっていた。休日なので、家には当然家族もいる。リビングにいては余計な詮索をされることが目に見えているので、今日は黒尾くんから連絡があるまで自室で待つ。
 開け放した出窓に上体を乗り出し、窓の外を見る。さっきからひっきりなしに外の様子を確認してしまうのは、私の部屋からだと玄関の前がよく見えるからだ。黒尾くんが来たら一秒でも早く出掛けたかった。もちろん家族に見られるリスクを最小限に抑えるために。
 この間までやっと春になったばかりだと思っていたのに、気付けばすっかり夏のような日差しが差し込んできている。この日のデートのため、おろしたての白いトップスが、日の光を受けて眩しく見える。
 黒尾くんと付き合い始めてもうすぐ二か月。週に一度以上は顔を合わせているし、毎日のように連絡もする。デートの時には手もつなぐ。幸せの絶頂を、日々更新している真っ最中。今後の私の人生で、今以上に幸せになることなどあるのだろうか。もしそうなったら、私はどうなってしまうのだろう。
 浮ついた思考に浸っていたら、手に持っていた携帯が震えた。黒尾くんから着信で、慌てて電話をとる。
「もしもしっ」
「あ、名字さん? もうすぐ着くよ。で、悪いんだけど名字さんの家出て右に曲がった、最初の角まで歩いてきてくんない?」
「はーい、了解。今から行きます」
 黒尾くんの指示を頭の中で繰り返し、電話を切った。いつもは家の前まで迎えに来てくれるけれど、今日は家族がいるから家の前まで迎えに来るのは避けたのかもしれない。私としても、その方がありがたくはある。
 そんなことを考えつつ、急いで鞄をつかむ。家族には出掛けてくる、とだけ伝え、急いで家を飛び出した。今日のためにおろしたサンダル。買ったばかりのトップス。黒尾くんのために選んだ服。デートの日はやっぱり心が躍る。
 電話で黒尾くんに指定された通りの角まで行くが、そこに黒尾くんの姿はなかった。見慣れぬ車が一台停車してあるだけだ。急いで家を出てきたから、もしかすると黒尾くんはまだついていないのかもしれない。邪魔にならないよう、停めてある車から少し離れたところで黒尾くんを待つ。
 と、待ちながら携帯を確認していると、
「おーい、そこの可愛い名字さん」
 ふいに黒尾くんの声で名前を呼ばれた。完全に油断しきっていたので、思わず肩が揺れる。慌ててぐるりと周囲を見回すと、なんと私の隣に停まっていた車の運転席側窓から、にやにやと顔をのぞかせている黒尾くんの顔が目に入った。
「え!? 黒尾くん!?」
「はっは、来ちゃった」
 語尾にハートマークでもつきそうなお茶目な調子で黒尾くんが笑う。可愛い。が、今はそれどころではない。
「車! えっ、なんで車!? 聞いてない!」
「すげえいいリアクションしてくれるじゃん。俺も車できた甲斐あるわ」
「なんで!」
「まあまあ、とりあえず乗って話さないかい」
 そう言うと、黒尾くんは中から助手席の扉を開けてくれた。促されるまま、ひとまず私は助手席に座る。
 私がもたもたとシートベルトを締めている間に、黒尾くんはナビを操作して次の目的地らしきものを入力する。私がシートベルトを締めたのを確認すると、軽い調子で「じゃ、行きますか」とアクセルを踏んだ。車がゆっくりと走り出す。
 車内には何度か聞いたことのあるアップテンポの洋楽が流れていて、ドリンクホルダーにはまだ蓋の開いてないお茶がひとつ収まっていた。運転席側にも、ハンドル横のドリンクホルダーに同じくお茶がおさまっている。
「ええと、黒尾くん。いまいち状況がよく分からないんですけど」
「そこのお茶は名字さんの分です」
「ありがとう。いや、ありがたいけど、そうではなく!」
「あったかい飲み物のがよかった?」
「そうではなく! 冷たいの買っておいてくれてありがとうだけど、そうではなく!」
 わざとはぐらかされているような気がする。というより、遊ばれている気がする。黒尾くんは運転席にゆったり座り、余裕たっぷりな顔してハンドルを握っている。その横顔からは緊張など微塵も感じられない。
 そもそもこの車は一体どうしたのだろう。免許を取得したとは聞いていたが、車を買ったなんて話は一言も聞いていなかった。黒尾くんの親御さんの車だろうか。それにしては、家庭用自家用車らしい生活感みたいなものも感じられない。
「黒尾くん。よろしければ事情を説明していただけると嬉しいんだけれども」
 ペットボトルの蓋に手をかけ、控えめに尋ねる。
 黒尾くんは私の困惑すら面白がっているようで、弾む声で笑った。
「いやー、やっぱ免許取ったらとりあえず、彼女を助手席に乗せてデートしてみたいだろ。今日は久し振りに一日デートだし、折角だからと思ってレンタカー借りてみた」
「なるほど……?」
「初心者マークばっちりついてるけど、今日のためにだいぶ運転練習したし、そこは少し安心してくれていいよ。嫌がる研磨を乗せて何度ドライブしたことか」
「研磨くんよく乗ってくれたね」
「俺が足になると研磨も便利だからじゃない?」
 黒尾くんは余裕綽々の顔で、運転しながらそんなことを言った。
 黒尾くんが免許を取るという話を聞いたときから、冗談半分で助手席に乗せてほしいとは言っていたが、実際にこうして助手席に乗せてもらえるまでは、黒尾くんと車でどこか出掛けるなんてまったく考えてもみなかった。嬉しい以上に驚く。ついこの間まで制服のブレザーからシャツをはみ出させていた黒尾くんが、こんな風に大人の男の人みたいに車を運転している。そして私は彼女として助手席におさまっている。そのことがなんだか奇跡みたいに思えた。
 中学高校時代の部活の顧問や、家族以外の運転する車に乗るのはこれがはじめて。ナビが機械的に右に曲がれと指示をする。黒尾くんもハンドルを右にきる。私はハンドルを右にきる黒尾くんを見つめながら、果てしないときめきを感じる。
「なんか、常々黒尾くんのこと格好いいと思ってるけど今が一番かっこよく見えるかもしれない……」
 うっとりと呟くと、黒尾くんが「まじか」と笑う。
「運転してる俺にときめいちゃった?」
「うん、わりと本気でときめいてる」
「レンタカー借りて来てまじでよかった……」
 余裕そうにハンドルにかけた大きな手だとか、うっすらと浮き上がる血管とか。私よりも大きく座席を引いてもなお、少し窮屈そうにしている長い足とか。運転する黒尾くんの姿には、普段あまり見えないようなフェチっぽいポイントがいくつも詰め込まれている。
「いや、でも本当にかっこいいよ」
「そこまで褒められると照れる通り越してちょっと面白いな。何なの、名字さんはそういうフェチの人なの?」
「自分でも気づいてなかったけどそうなのかも……?」
「それ俺以外の男の運転する車に乗ったらダメなやつじゃない?」
「いや、でもやっぱり私の問題じゃなくて黒尾くんがかっこよすぎるだけかも。研磨くんも助手席乗った時、黒尾くんにときめいてたかも」
「それはおかしいだろ」
 おかしいだろうか。黒尾くんのこの格好良さは、わりと真剣に男子も魅了するタイプの格好良さだと思うだが。
 ふとフロントガラスの上の方に視線を遣ると、ちょうど隣の市に入る看板が見えた。都内とはいえこのあたりは郊外なので、そこまで運転しにくいわけでもないだろう。車はすいすいと進んでいく。
 ゴールデンウィーク真っ只中だというのに、思っていたよりも道は渋滞していなかった。音駒やうちの近所は、都内でも比較的下町というか、はっきり言えば田舎くさい。もう少し都会に出れば道も混雑するのだろうが、今のところその様子はない。
「今日の行き先って映画館だよね」
「プラス、遊べるところで遊ぶ、だな」
 黒尾くんがさらりと付け足す。
 今日のプランで決まっていることは、ざっくりと映画を観に行くということだけだ。何を観たいかくらいは決めてあるが、それ以上のことは流れに任せることにしていた。普段のデートでは食べたいものやお店を私が決めることが多いからか、こういうしっかりしたデートのときは黒尾くんがプランを立ててくれる。今回は車で移動するというサプライズもあったので、いつも以上に黒尾くん主導のプランだ。
 今日観る映画は、話題になっている洋画。アクションメインだが、恋愛要素もしっかり織り込まれており、女子人気も高いらしい。黒尾くんと私の好みの折衷案だ。
「昼過ぎの回チケットとってあるから、まあのんびりドライブしつつ昼飯食って、到着したら映画って感じかね」
「いつも思うけど、黒尾くんって本当に手際がいいよね。無駄がないというか……」
「そうか? まあ折角名字さんと一日遊べるんだし、できるだけぐだぐだしないようにはしたいと思ってるけど」
「そこが凄いよ」
「別に、名字さんと一緒なら待ち時間とかあっても全然いいけどね」
 さらりとそんなことを言ってくれる。他愛ない遣り取りの中でも、黒尾くんは隙あらば私への好意を示してくれるので、私はいつまでも翻弄されっぱなしだ。
「黒尾くんだって、ここのところずっと忙しかったのに。本当、全部任せちゃってごめんね」
「そこ、ごめんじゃなくてありがとう、ね」
「はい。ありがとうね、黒尾くん」
「はい。どういたしまして」
 いつのまにか車内の音楽は、高校時代に流行った曲に変わっていた。黒尾くんの携帯でランダムに流している音楽を、車載スピーカーから流しているらしい。今流れているのは数年前にCMで使われ流行った曲。サビしか知らないが、なんとなく曲に合わせて小さくハミングしていると、黒尾くんがさらにかぶせて歌う。
 黒尾くんは歌がうまい。うっかり聞くことに集中していたせいで歌詞を間違え、黒尾くんに笑われた。
「そんな前の曲でもねえのにうろ覚えすぎない?」
「仕方ないでしょ、黒尾くん歌がうまいからついつい聴き入っちゃうんだもん」
「一緒にカラオケとか行ったことなかったっけ」
「クラスの打ち上げとかやると二次会で行くよね。私基本一次会が終わったら帰っちゃってたからなぁ」
 特別門限が厳しいわけではないが、そもそも大人数でわいわいするのが得意ではない。大勢の前で歌うなどもってのほかだ。
「名字さんと行きたいところ、山のようにあるな。これは今後のデートが捗るわ」
 そう言う黒尾くんの表情はすごく楽しそうだった。黒尾くんとのデートはたとえどんなに短時間でも、私にとって特別に心ときめく時間になる。黒尾くんも同じように楽しんでくれているらしいことが、私にとっては純粋に嬉しかった。

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