20

 いよいよ本格的に大学生活が始まった。来年以降のことも考えしっかり時間割を組んだので、生活リズムは高校時代と大して変わらない。朝、満員電車に揺られながら通学。そして夕方に下校。黒尾くんの部活がある日はバイトを入れて夜まで働き、そうでない日は会ったり会わなかったりする。
 四月から五月の終わりまで、黒尾くんの所属する大学のバレー部では、毎週末他校との試合があるらしい。詳しくは聞いていないが、新入生の黒尾くんたちも当然部員として同行することになる。私以上に忙しい黒尾くんだが、忙しい日々の合間を縫って私と会う時間を作ってくれている。
 そういうわけで、黒尾くんとふたりで会うのは大体平日の夕方からで、一緒に夕飯を食べに行くことが多い。大学が近いとこういうときには有難い。

 お風呂上り、髪を乾かし終えて洗面所で携帯をチェックしていると、タイミングよく黒尾くんからメッセージが届いた。
 ”今いい?”
 ”大丈夫”
 返信を打ちながら、慌てて自分の部屋に戻る。入れ替わりで洗面所に入ってきた母から不審げな視線をもらい、私は携帯を胸に抱えて思わず隠した。家族にはまだ恋人ができたことを話していない。隠すことでもないのだが、まだもうしばらくは秘密にしておきたいような気もする。
 早足に自分の部屋に戻り扉を閉めた瞬間、見計らったかのように黒尾くんからの着信があった。
「もしもーし」
 黒尾くんの楽しそうな声が耳に届く。直接会えない日は電話がかかってくることが多いので、ほとんど毎日黒尾くんの声は聞いている。それでも黒尾くんの声に聞き飽きることはないし、話題が尽きることもない。黒尾くんの話は聞いているだけで楽しい。黒尾くんが話し上手だからに違いない。
「はい、もしもし、名字です」
「ふ、毎回思うけど、名字さんって電話出るとき絶対『名字です』って言うよな。家電かよ」
 挨拶もそこそこに笑われてしまった。
「誰にでも名字ですって名乗ってるわけじゃないよ」
「そうなの? たしかに家族に苗字名乗るのも変か」
「それもあるし、友達とかには普通に名前ですって言う……」
 私が黒尾くんからの電話に苗字を名乗るのは、黒尾くんが私を名字さんと苗字で呼ぶからだ。急に名前を名乗られても、誰か分からないのでは名乗る意味がない。
「そうなの? 俺にも名前で名乗ればいいのに。一瞬家電にかけちゃったかと思って毎回ひやっとするだろ」
「黒尾くんうちの家電の番号なんて携帯に登録してないでしょ」
「いや、してるけど」
 しれっと答える黒尾くんに「えっ!?」と思わず声を上げる。
「いや、だってなんかあったときに家の番号知らねえと困るだろ」
「私黒尾くんにうちの番号教えたっけ!?」
「高校には連絡網というものがあったんだなぁ」
「そういえば!」
 音駒は何かと古い体制の学校なので、現代においても未だに、各家庭の緊急連絡番号を記した紙の連絡網が存在している。滅多に使用されるものではないし、そもそも生徒間の連絡はメッセージや携帯で交わしてしまうのですっかり忘れていた。
 緊急連絡先として私の自宅の番号を登録しているという黒尾くんの抜け目のなさに感心すると同時に、そこまで思い至らなかった自分が情けなくもなる。あとで必ず私も黒尾くんの実家の番号を登録しておこう。ひそかに心に決める。
 そんな話をしつつ、ちらりと壁の時計に視線を遣る。そろそろ夜も深まるような時刻。普段であれば、朝型の黒尾くんからメッセージの返信がなくなる頃でもある。
「そういえば黒尾くん、何か用事だった?」
 それとなく、ではなくはっきりと用件を質すと、
「いや、そういうわけじゃねえけど」
 とのんびりした声が返ってくる。
「暇だし、名字さん何してるかなと思って」
「暇なんだ……」
 今日に限らず黒尾くんからの電話の大半は、緊急性のないものだ。特別に用事がなくても、恋人同士ならば気兼ねなく電話をしてもいいことを、私は黒尾くんと付き合うようになってはじめて知った。黒尾くんが寝るまで暇だなと思ったとき、思い出すのが私の顔なのだと思うと嬉しい。夜でなければ落ち着いてなどいられず、ひとりじたばたしていたところだ。
「名字さんは暇じゃなかった?」
「私はねー、寝る支度もしたし、そろそろ明日の準備しようかなって思ってたところ」
「もう寝んの? まだ十一時じゃん」
「黒尾くんだってそろそろ寝るでしょ」
「名字さんと電話してなかったら寝てただろうけど、名字さんとの話打ち切ってまで寝ない」
「……別に、私も黒尾くんとの電話を打ち切ってまで寝るとは言ってないよ?」
「寝てもらってもいいけどな。名字さん明日一限からじゃなかったっけ」
「そうだよー。黒尾くんは?」
「二限からだけど、やることも色々あるし早めに起きるかな」
 取り留めのない会話を続けながら、黒尾くんの言うとおりベッドに転がる。
「本当はもう寝ようと思ってたけど、黒尾くんと話してるといつまでも起きていたくなっちゃうなぁ。明日の一限眠くなってもいいかなって気分になっちゃってよくないね」
「名字さん? そういう可愛いことはぜひ、面と向かって言ってもらえるかな?」
「面と向かってたら言えないことも言えるのが電話のいいところだよね」
 私が笑うと、黒尾くんは悩ましげに溜息を吐く。最近は少しずつ、こうして黒尾くんを動揺させることもできるようになってきた。まだ直接向かい合っての勇気はないが、電話口でなら多少気が大きくなる。
 電話の向こうで照れているだろう黒尾くんのことを思うと、胸が甘くむずがゆくなる。
「あれ? でも黒尾くん、今日は部活じゃなかったの?」
 ふと思い出し尋ねると、黒尾くんは「ん?」と曖昧な返事をした。
「いや、急に体育館使えなくなって休みになった。名字さんバイト入ってたから言わなかったけど」
「そうなんだ」
「さっきまで飯食って、研磨んちでゲームしてた。あいつ受験生なのに全然勉強しねえんだよ。まあやればできるだろうから問題ねえんだけど」
「相変わらず仲いいんだ」
「まあ、幼馴染だしな。たまには様子見に行ってやんねえと。卒業したとはいえ、やっぱバレー部のことも気になるし」
「さすが元主将」
 黒尾くんと話をしながらアラームを確認し、照明を消して布団にもぐりこんだ。布団にくるまりながら黒尾くんの声が聞こえるなんて、これ以上幸せなことはない。
「研磨くん元気だった?」
「相変わらず。あいつが元気溌剌なところなんて俺見たことねえし、いつも通りなんじゃないかね。元気じゃないけど元気じゃないわけでもないのが研磨の通常営業」
「そっか、確かに前に見た時もこぢんまりしてたしね」
「ていうか何? やけに研磨のこと気にするじゃん。何なに? ちょっと妬けちゃうんですけど?」
 軽口であることが声音から容易に分かる。やきもちなんて少しも妬いていないくせに、と笑ってしまった。
 電話の向こうの声は楽しそうで、きっと黒尾くんは機嫌がいい。私と会っているときもたいてい機嫌はいいが、研磨くんやバレーの話をする黒尾くんは、私にするのとは少し違う笑い方をする。黒尾くんは気付いているだろうか。私の方こそ、私の知らない絆を少しだけ羨ましく思っていることに。
 不意にあくびが口からこぼれ、慌ててそれを噛み殺す。布団にくるまって横になっているせいか、睡魔がひたひた私に満ちてくる。
「研磨くんのことばっかり話しちゃうのは、黒尾くんが研磨くん以外の人の話あんまりしないからでしょ? 大学のバレー部の人の話とか聞きたいのに」
 ぼんやりしながらそう言うと、電話の向こうで黒尾くんが笑った。
「大学のやつらの話なんて、それこそ名字さんに聞かせるような話ねえけどな」
「ふうん? そうなの?」
「なんだその返事。いや、実際そうなんだって。特に一人、大学入る前から知ってるすげえうるさいのがいんだけど、そいつのことは絶対名字さんに紹介したくねえな。名字さんに興味持たれるのも嫌だし」
「研磨くんはいいんだ?」
「研磨はそういううるさいこと言ったり余計な詮索しない」
「そんな説明されると、逆にその大学のバレー部の人がどんな人か気になるね」
「だから知りたがるなって。俺に彼女できたとか聞いたら絶対写真見せろ紹介しろって言うぞ、あいつ」
「仲いいんだねえ」
「まあな。うるせえし馬鹿だけどバレーは確かにすげえよ。同じチームでやれると思うとちょっとわくわくするしな」
「そっかあ……そういうのってなんか青春だなあ」
 とはいえいつかは、チームメイトの人たちにも私のことを紹介してくれたらいいのにと、そう思わないでもない。付き合ってまだ一か月だが、いずれは私も黒尾くんが身を置き見ている世界と、そこで一緒にバレーをしている人たちのことを少しは知りたいと思う。
 あんまり首を突っ込むのも鬱陶しいだろうから、このことはまだ黒尾くんに話していない。今のところ黒尾くんのバレー仲間で知っているのは夜久くんくらいだ。研磨くんとは会話らしい会話はしていないから、一方的に知っているというのが近い。
 相変わらずバレー部の人の話を続ける黒尾くんの声を聞きながら、そういえば黒尾くんは私の友達の話とかはあんまり聞かないな、とぼんやり思った。
 一度でも私が話題にした子の名前はきっちり憶えているようだが、私の友人について、黒尾くんの方から話を振ってきたり、掘り下げたりすることは少ない。私の大学が女子大だから、友人関係にあまり不安を持っていないのかもしれない。
 もう少し興味を持ってくれてもいいのにな、と思わないでもないけれど、黒尾くんも新生活が忙しいのでそこまで気に掛ける余裕もないのかもしれない。あるいは心底私を信用してくれている。私の交友関係に興味がない、ということはないはずだ。
 私は黒尾くんの部活の人や大学の友達のことだって知りたいし、もっといえば黒尾くんの周りにどんな女の子がいるのかも知りたい。だけどそれは、きっと口にするべきではないのだろう。そういうのは多分、重いと思われる。
 まどろみの縁に足を掛け、そんなことを考える。
「とにかく、そういうわけでね。当分は俺も部活とバイトで忙しいから、今みたいに週一で飯食いに行くくらいしかできねえけど、ゴールデンウィークは多分一日くらい空くと思うし、そしたらどっか行こうぜ」
 黒尾くんの声がぼんやり遠い。切れ切れに理解できる単語だけを聞き、やはりぼんやり返事をする。
「いいね、楽しみ。えー、そうだな、どこ行きたいかなー」
「何か欲しいものあるなら買い物でもいいし、映画とかでもいいな。名字さんとはまだそんな色々行ってねえから、どこでも選びたい放題じゃない? けどまあ、テーマパークはどこもめちゃくちゃ混んでそうだから、行くなら別の機会にしたいよな。大学生なんだし、テーマパーク系はそのうち平日に行けんだろ」
「うん、映画、わたし映画すきだなー」
「……ん? ……名字さん?」
 枕と耳の間に挟んだ携帯から聞こえる黒尾くんの声が体全体に響く。黒尾くんが何かを言ったかもしれないけれど、その言葉を聞くより先に眠りの海に落ちた。

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