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 四月になった。桜の開花はまだ先だが、今日は私の通う大学の入学式だ。
 午前は大学近くのホールで式典、その後大学構内に移動し、午後からは諸々の説明を大学事務から受けることになる。まる一日かけても説明は終わらないようで、その日渡された今後当面の日程表には、複数日に分けてかなりしっかり説明の時間がとられていた。
 黒尾くんの大学は昨日が入学式で、来週から早速授業が始まるらしい。昨日、入学式に行ってきますという言葉と共に、見慣れぬスーツ姿の写真が送られてきた。
 黒尾くんが長身であるためか、はたまた年齢不相応に顔があやしげだからか、そこに写っていた黒尾くんは、なんだかやたらとスーツが似合っていた。若干十八歳にして、すでにエリートサラリーマンの風格が漂っている。謎の健康食品などを売りつけ、事業所では営業成績一位で所長に朝礼で褒められている──そんな姿がありありと想像できてしまう。
 もちろん、スーツの写真は洩れなく携帯に保存した。念には念をと三回くらい保存して、パソコンにもデータを送っておいた。

 高校とは比べ物にならない広い講義室。壇上では大学の事務員が学内施設の使用方法について説明を続けている。それをぼんやり聞きながら、入学のしおりとシラバスを眺める。
 大学ではサークルには参加せず、勉強とバイトに専念しようと決めていた。中学でも高校でも、真面目に部活に取り組んでいたわけではない。それほど心惹かれるサークルもなさそうだし、男女の出会いを求めてもいるというわけでもなかった。ついでにサークルをしていなければ、黒尾くんと会うための時間も捻出しやすい──というのは、後付けのようでいて実は結構大きな理由だ。
 まだ見ぬ大学生活に、そうして思いを馳せていると、
「ねえねえ名字さん、名字さんって出身このへん?」
 隣に座っていた同じ学部の女子が、人好きしそうな笑顔で私に話しかけてきた。ついさっき着席したときに流れで名前を聞いたはずなのだが、如何せん同時にいろんな子が自己紹介をしていたので、この子の名前を思い出せない。
 持ち物に名前とか書いていないだろうか。さりげなく視線を机の上に走らせながら、
「うん、東京だよ。音駒高校」
 と返事をする。
「そうなんだー。私も東京。ね、音駒ってどの辺? 名前だけは聞いたことはある気がするんだけど」
 名前の分からない彼女が、可愛らしく首をかしげて見せた。
 音駒は都立高校で、男子バレー部以外には取り立てて有名なところもない。その男子バレー部も、昨年まではそれほど知名度が高かったわけではない。私も家が近所でなければ、音駒高校なんて知りもしなかった。逆に音駒に進学すると決めていたから、音駒以外の高校はあまり知らない。
 黒尾くんならば練習試合などもしているだろうから、他校のことも色々知っているのかもしれない。ふとそんなことを思い、自分の思考の流れに苦笑する。最近ではどんなことでも気が付くと、頭の中で黒尾くんに繋がってしまう。日常生活の些細な場面で黒尾くんを思い出しては、いちいちときめいてしまうのでなかなか厄介な癖だ。
「早く終わらないかなあ、これ」
 高校の話題にもすでに興味を失ったのか、彼女は面倒くさそうに言った。
「そうだね、でももう四時だしそろそろ終わるんじゃない?」
「しかもこの大量の教科書持って帰らなきゃいけないんでしょ? 授業始まってから少しずつ配ってくれればいいのにね」
 小声で話しながらも大げさに溜息をついて見せる。言われてみればたしかに、目の前の教科書の山を持ち帰るのは一苦労だった。学科ごとの必修教科分でも結構な量がある。
 不意にスーツのポケットに入れていた携帯が震える。机の下で確認すると、差出人は黒尾くんだった。
 ”もう終わりそう?”
 今日はこの後、最寄りの駅まで迎えに来てくれることになっている。荷物が重いせいだ。昨日すでに入学式を終えた黒尾くんもやはり、大量の教科書を持ち帰る羽目になったらしい。今日の私が重い荷物を持ち帰ってくることを予想して、迎えを買って出てくれたのだった。
 本当は大学まで迎えに行くと言われたけれど、流石にそれは遠慮した。いくら定期圏内といえど、そこまでしてもらうのには申し訳ない。
 ”多分” ”乗る電車分かったら連絡するね”
 ”りょーかい”
 ”やっぱり大量に教科書持ち帰りになったよ”
 ”だと思った。俺がいてよかったな”
 その文面から黒尾くんの自慢げな顔が目に浮かぶようだ。思わず小さく笑ってしまう。すかさず隣の席の彼女が、私の肩をちょんちょんとつついた。
「なになに、もしかして彼氏から?」
「うん、迎えに来てくれるって連絡きてた」
「はー、羨ましいな。私も夏までには彼氏つくりたーい」
 そう嘆く彼女は、実際のところ私などよりずっと垢抜けていて可愛らしい。サークル紹介の冊子を真剣に読み込む様子からも、きっとすぐに恋人ができるのだろうことが容易に想像できる。

 四時を少し過ぎたころ、ようやく初日のガイダンスが終了した。名前が分からなかった彼女の名前も、帰り際に連絡先を交換したことで無事に把握することができた。
 大学から最寄りの駅は目と鼻の先だ。重い荷物を持ち帰るのにも、そう苦労せず済む。
 電車を降りて改札を抜けると、見慣れた寝ぐせ頭が私を待っていた。幸い駅も電車も大して混雑していなかったので、黒尾くんはすぐに私のことを見つけてくれた。
「おー、おつかれ」
「黒尾くんこそ、わざわざ迎えに来てくれてありがとうね」
 お礼と挨拶を交わしていると、黒尾くんは早速私が抱えていた荷物の山をあっさりと回収してしまった。私が両手で持っていた荷物を、「よっ」の一言でいともたやすく、それも片手で持っている。顔色も変えない黒尾くんに、私は思わず「ひい」と声を漏らした。
「ちょ、ちょっと黒尾くん、大丈夫!? 結構重くない!? え、本当に大丈夫!? ありがたいけれども、さすがに腰とか壊しそうで怖い!」
「だーいじょーぶ。俺そんなひ弱に見える?」
「見えない、まったく見えないけれども」
「名字さんとは体のつくりも鍛え方も違うんだな、これが」
 まったく無理のない声で飄飄と言ってのけ、黒尾くんは荷物を持たない右手で私の指に指を絡めた。
「こういうことする余裕もある」
「……本当、重かったら半分と言わず全部自分で持つから言ってね」
「体育会系の彼氏のこと信用しなさいよ」
 本当は軽口を叩くような余裕などない。手をつなぐという初歩的なふれあいですら、私にはまだまだ慣れない心ときめくふれあいだ。
 私もおそるおそる黒尾くんの手を握り返した。服などの布を介さない、手と手が直接ふれているのだと思うと、どうしたって顔が熱くなった。長身の黒尾くんの手は私よりずっと大きくて、使い込まれた固い肌の感触が私の手のひらにぴたりと押し付けられている。
 好きだなと思う。あたたかくて固くて大きな肌が。
 黒尾くんの好きなところを、今日もまたひとつ見つける。
 と、そんなことを考えていたせいで、黒尾くんが何か言ったのを聞き逃してしまった。黒尾くんが訝し気な顔で私の顔を覗き込んでいる。慌てて聞き返した。
「ごめんね、ぼんやりしてた。もう一回言ってもらってもいい?」
「いいけど、ぼんやりしてっと転ぶぞ。だから、大学どうだった? って」
「えーと……大学、ね。うん」
「まだぼんやりしてんなぁ。大丈夫かよ」
 黒尾くんが呆れたように笑う。
「大丈夫。大学は話しやすそうな子が多くてよかったな。素敵な子が多かった」
「名字さんが話しかけやすそうと思って、みんな相当ぼんやりしてるってこと? 大丈夫なのかな?」
「黒尾くん、それはちょっと失礼ですよ」
「ぼんやりしてる名字さんのこと好きだけどね」
 さらりと照れる台詞を放り込まれ、思わず私は黙りこむ。黒尾くんは「あらあら、黙っちゃったな」と明らかに面白がっていた。
 さざめく心には、見て見ぬふりをすることにした。
「キャンパスも前に見たとき通りきれいだったな。とりあえず家帰ったらシラバス見て授業決めるね。黒尾くんもまた時間割決まったら教えて」
「ふーん、良さげでよかったな。サークルとかはやんねえの?」
「それはまあ、いいかな。特にサークル入ってやりたいこともないし。それに黒尾くんの部活の方が大変だから、私が融通きかせられるならその方が良いかなって思って」
「悪いな、こっちの都合押し付けるみたいになっちゃって」
「ううん、全然大丈夫」
 会える時間が増える方が嬉しいよ、とまでは恥ずかしいので言わないでおいた。けれどきっと、黒尾くんには伝わっていることだろう。私の手をわざとらしくぎゅっと握りなおしたし、何より、なんとも言えない満足そうな表情を浮かべている。
 最近少しだけ、黒尾くんの表情の変化を読み取ることができるようになってきたように思う。黒尾くんは怪しげで飄飄としていて、何を考えているのかさっぱり分からないと思っていた。けれどにやにや笑いの中にも、どうやら色々種類があるらしい。よくよく気を付けて観察してみると、黒尾くんは結構表情ゆたかだ。
 今にやにやしているのは、多分ふつうに喜んでいるときのにやにや。黒尾くんの言葉を借りれば、浮かれてにやにやしているときの笑顔。
「黒尾くんって普段大人びてるけど、たまにすごーく子供っぽいよね」
 普段のお返しとばかりにそう言うと、黒尾くんはまたにやーっと笑う。
「そういう名字さんは、今日は『ちょっとやらしいオネエさん』って感じだけどね」
 にやにや顔のまま黒尾くんが言った。その不穏で予想の斜め上をいく台詞に私は思わず目をむく。
「ええ? な、なんで」
「スーツのスカート、ちょっとそれ短くない? ヒールもいつもより高いし」
「普通だよ、普通! みんなこんなものでしょ!」
「ええー? 名字さん普段いやらしいオーラないから、余計にそう見えんのかな」
「どうせ普段はいやらしいオーラなんてないですよ!」
 そう言いつつ、私はスカートの裾を引っ張った。大学の入学式としては常識的なスカート丈だし、今この瞬間黒尾くんに指摘されるまでは、そんなことまったく気にしていなかったのに。
 そんな私の動揺も気にせず、黒尾くんは平然と笑っている。
「ま、いいんじゃない。名字さんの足、俺すき」
「ヒッ!?」
「ヒッてどういうことだよ。傷つくでしょうが」
「ちょ、ちょっと、急に恥ずかしいこと言うのやめて!」
「いや、そんな照れることか? 足くらい高校時代に嫌ってほど見たし何をいまさら」
「そりゃあ制服のスカートの丈はもっと短かったけれども!」
 それとこれとは話が別だ。というか、かりに見ていたとしても、そんなあけすけに表現しないでほしい。こちらとしては見られていた自覚など無きに等しい。
 黒尾くんのことは何でも知りたいと思っていたが、だからといって密やかなフェチまで知りたいわけではなかった。
「まあ、いいんじゃねえの。彼女なんだし」
 黒尾くんには、まったく悪びれる様子がない。
「俺は名字さんのこと、別に外見だけで好きになったわけじゃねえけど、そうはいっても外見も好きなわけだから。恋人に対して好きなところが多いのはいいことじゃない?」
「そう言われると……そんな気もするけども……?」
「はは、まじで名字さんそのうち変な壺買わされそうだな」
「えっ、今のもしかして詐欺!?」
「詐欺って。全部本心。ちょっとちょろいなとは思ったけど」
「ちょろくてごめんなさいねぇ!」
 がっくり項垂れながら歩いていると、いつのまにか私の家の近くの通りに差し掛かっていた。黒尾くんから荷物を受け取り、塞がった手の代わりに首を振っておく。
「今日はわざわざありがとうね、助かりました。また連絡するね」
「了解。じゃあな。くれぐれも壺、買わされないように」
「買わされません」
「どうだかなー。大きい買い物する前は俺にひと言ちょうだい」
「だから買わされないってば!」
 私が玄関の扉を閉める直前までくだらない会話が続く。黒尾くんは最後、ひらりと手を振って笑った。
 母親がリビングから顔を出して「入学式どうだった?」と聞いてくる。生憎黒尾くんとの会話で頭がいっぱいになっていて、入学式のことはあまり覚えてはいなかった。

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