01

「名字さん、俺と付き合ってください。」
 遠くからざわめきが聞こえる。けれど今この場所──日の光の届かない校舎裏には私と黒尾くんしかいない。三月の東京はまだまだ冬でしょってくらい肌寒くて、なのに黒尾くんの顔は真っ赤で、多分私も耳まで真っ赤だった。そういえばあんまり黒尾くんが赤くなっているところなんて見たことないなあなんてことを、頭の片隅でぼんやりと思う。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
 高校三年、冬のおわり。
 私たちは今日、音駒高校を卒業した。

 ★

 高校三年の冬といえば受験。灰色一色の季節だ。幸いにして私は都内の女子大に推薦入学が決まっており、そうしたお約束とは無縁の身の上にある。しかしそうではない大多数の音駒生は、年が明けたばかりのこの時期、ピリピリとした緊張感を発しながら日夜勉強に勤しんでいる。
 そういうわけで、私のような受験終了組というのは、教室にいるだけで何かと肩身が狭い。その日の自習の時間も私は教室をひとり離れ、ひっそりと静まり返った図書室へとやってきていた。
 音駒の図書室は広く、都立高校の割にはかなり充実している。蔵書数もさることながら、そもそも校内における図書室の占有面積が広く、学習スペースと読書スペースをきちんと分けてとってある。
 おまけに応接室で使われなくなったソファなどは優先的に図書室に回ってくるため、とにかく居心地がよい。私が図書室の快適さに気がついたのはここ最近のことだけれど、もっと早く知っていれば試験前でなくても足しげく通ったのになあと、卒業間近のこの時期になって思う。

 授業時間中ということもあって、読書スペースの方には私以外には誰もいない。それをいいことに、私は読書スペースの一番奥、ふかふかの一人掛けソファに座って読書を始めた。
 選んだ本は適当に目についたもの。ふと視線をやった窓の外は灰色にくすんでいて、今にも凍えてしまいそうだった。図書室の中はしっかり暖房が入っているので、寒さなどまったく感じない。
 のんびりと過ぎて行く時間。携帯を確認すれば、二時間続きの自習時間はまだまだたっぷり時間を残していた。
 あたたかくて、古い紙と布の落ち着くにおいがして、おまけにふかふか。これで眠くならない方がどうかしているというもの。
 読書をしていたはずの私は、いつの間にか微睡の中へと引きずり込まれていた。

 目を覚ましたのは、顔に光が当たって眩しかったからだ。眠っているうちに太陽が高くまで昇っていたらしい。先ほどまでは日陰になってた私の顔の位置も、今は燦燦と日が降り注いでいた。
 読みかけの本が太腿の上に開いたままになっている。壁に寄りかからせていた側のこめかみが、頭を揺らすと少しだけ痛んだ。
 どのくらい眠ってしまっていたのだろう──バイブが鳴ったら起きられるよう、胸ポケットに入れていた携帯を取り出す。授業終了のチャイムが鳴ればさすがに起きるだろうし、昼休みまで寝過ごしてしまうことはないだろうけれど──
「俺が来てから一時間くらいは寝てる。まだあと三十分は寝られるけど」
「うわあ!?」
 思いがけず私の思考に返事を返す声がして、私は驚き素っ頓狂な声を上げた。ふかふかのソファーから勢いよく腰を浮かせ、勢いをつけて辺りを見回す。
 私が寄りかかっていた壁と反対側、ソファの肘置きに背を持たれるようにして、見知った男子がひとり、そこにいた。
 男子は床に座ったまま、ソファの上の私を見上げるようにしている。座っていても分かる高身長と、特徴的な髪形。高校二年、三年と同じクラスだった男の子。
「く、黒尾くん」
 驚きながらもどうにか彼の名を呼ぶ。黒尾くんはにやりと笑って、立ち上がった私を上目遣いで見た。
「名字さんも受験ムードから避難してきた人? 俺もそう。ここ静かだしあんまり人いねーし、結構穴場だよな」
 未だびっくりし続けている私とは対照的に、黒尾くんの声はのんびりしている。見ると彼の携帯はゲームの画面になっていて、その様子から察するに、黒尾くんは本を読みに図書室に来たわけではなさそうだった。
 なんとなく状況が理解できたところで、驚きも徐々に引いてくる。けれど引いて行った驚きの代わりに、今度は訝しさがじわじわ胸にわいてきた。
 黒尾くんはこうして普通に話しかけてくるけれど、実を言うと私と黒尾くんは、それほど仲が良いわけでもない。高校二年間同じクラスだったのだから、挨拶や世間話程度の会話はするけれど、特別親しくした覚えはなかった。今のように二人きりになったこともない。
「名字さん、めっちゃ寝てたな。俺も眠くなってきたわ」
 しれっとそんなふうに言われ、顔に熱が集まった。そうだ。黒尾くんがこの場所にやってきたのは、私がぐうすか寝入ってしまってからだろう。ということは、私のぶさいくな寝顔を見られた可能性も大いにあった。
「く、黒尾くん、あの、なんでここにいるの」
「ん? だから俺も教室から逃げてきたんだって。で、来てみたら名字さんが気持ちよさそうに寝てたから」
「全然理由になってないんだけど……」
 私が聞きたいのは、眠っている人間がいる横に、なぜ平然と座っているのかということだ。この場所が穴場であるのは間違いなくても、図書館内にはほかにもソファーはいくつもある。
「あ、もしかして俺に寝顔見られて恥ずかしい、とかそういう話だった? それなら心配しなくても、別に顔に落書きしたり写真とったりしないですよ」
「……ああ、そう」
 流石にそこまでの心配はしていなかったが。とはいえ黒尾くんの返事はいたって真面目だったので、それ以上私の方からこの件について何かを言う気にはなれなかった。
 私からの質問に答えているんだか答えていないんだか、いや多分答えていない黒尾くんに、恥ずかしさも一周回って脱力してしまう。あまりにも黒尾くんのペースで話をされるので、恥ずかしいと思っているほうが馬鹿らしくなってくるくらいだ。
 脇に置いた本を手に取り、私は心を落ち着かせるべく、ひとつ大きく息を吐く。
 黒尾くんは見た目はちょっとやんちゃっぽいけれど、けして悪い人ではない。むしろバレーに真面目な好青年で、人望もあつく先生方へのおぼえもめでたいと聞く。
 だから、というわけではないけれど、黒尾くんが言ったような趣味の悪い意地悪を、寝ている私にしてくるかも、という心配は、まったくもってしていなかった。黒尾くんのことだから、私の横にいたのにも他意はないのかもしれない。たまたまここに逃げてきたら、これまたたまたま先客がいたというだけなのだろう。先客がいたからといってほかに移動するとかしなさそうだものな、黒尾くん。
 ソファーに腰をおろして、私はまた携帯を確認する。ずいぶん長く寝ていたような気がしたが、授業終了まではまだ三十分近くもあった。空気が乾燥したところで寝たせいで喉が渇いていたものの、わざわざお茶を飲むためだけに教室に戻るのも面倒だ。
 もうしばらくはここにいよう。そう決めて、私はちらりと黒尾くんに視線を遣る。黒尾くんもまだ当分ここを動きそうになく、ソファーにどっしり腰をすえて何やら携帯をいじっている。
 とはいえ黒尾くんからは、話しかけるなオーラのようなものは出ていない。そう大きな声を出さなければ、少しくらいはここで話をしていても大丈夫だろう。
「黒尾くんも受験もう終わってるんだね。知らなかったよ」
 差しさわりのない話題を試しに振ってみる。黒尾くんは携帯の画面から視線をこちらに向け、うっすらとした笑顔を浮かべて頷いた。
「俺はバレーで推薦もらってるからな」
「あ、そういえば黒尾くんってバレー部だったっけ」
「そ。しかも主将ね。強豪校の主将ね」
「ふうん、すごいね」
 そう返事をすると、黒尾くんは少しだけ呆れたように、目を細めて笑う。
「名字さん、全然興味ないでしょ」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「返事に感情こもってないからな」
「恥ずかしながらスポーツとか疎くて。バレー部が強いのも、わりと最近になって知った」
「あんなに垂れ幕かかってたのに? 思い切り『全国大会出場おめでとう』って書かれてただろ」
「そうなんだよね……」
 恥ずかしくなって、少しだけ俯いた。冬前あたりから、なんだか周りがみんな騒いでいるなぁとは思っていたけれど、まさかバレー部が全国大会に出場していたとは知らなかった。この何の変哲もない公立高校で、まさかスポーツの強豪部があるなどと思ってもいなかったのだ。それにちょうどその頃に、自分の受験がごたごたしていたこともある。視野が狭くなっていた。
「ごめんね、黒尾くん。気に障ったよね」
「そういうわけじゃないけど、自分から聞いたくせに興味ねえのかよってちょっと笑った」
 笑われるようなことは言っていないつもりだが、黒尾くんの笑いのツボは変なところにあるのかもしれなかった。ふっと目元をゆるめた黒尾くんにつられて、私もぎこちなく笑う。笑いながら、ふと黒尾くんの人柄について思いを馳せた。
 私が黒尾くんについて知っている情報は少ない。バレー部だということと、成績がいいらしいということ。わりとよく笑っていること、上履きを踏んで歩くこと。制服は結構着崩すこと。
 基本データと見た目のことしか情報がないのは、これまで黒尾くんと私にはあまり接点がなかったからだ。
「こうやって黒尾くんとちゃんと話すのはじめてだね」
 思ったことをそのまま口に出す。黒尾くんも「あー。そう言われてみればそうか」と返事をする。お互いになんとなくで話しているのが丸わかりな遣り取りだった。
「名字さんと二年間クラス一緒だけど、あんま席とか近くなったこともねえもんな」
「そうだよね。夜久くんとは隣になったことあるけど」
「そうだっけ。俺、夜久の席わりと遊びに行くけど」
「二年の最初の方だったから。もう覚えてないのかも」
「かもなー。そもそも俺あんま女子と絡まねえし」
「そうなの? でも黒尾くんってモテるでしょ」
「いやいや、身長でかいだけじゃモテませんよ」
「またまたそんな御謙遜を」
 再び「いやいやそんな」と黒尾くんは笑う。本気なのか謙遜なのか判断しにくいけれど、黒尾くんが女子から人気のある生徒だということくらいは、さすがに私でも知っている。
 黒尾くんにこれまで何人恋人がいたとか、あるいは現在恋人がいるとか──そこまで詳しい話はさすがに私の耳には入ってこないが、球技大会や体育祭など、黒尾くんに向け黄色い声援が四方八方から飛んでくる機会は多い。二年も同じクラスに在籍していれば、そういう声はいやでも聞こえてくるものだ。
 そうして声援を飛ばした女子のうち、何人かは実際に告白もしているのだろう。下級生の間では隠れファンクラブみたいなものがあるとも聞く。その実態は定かではないが、いずれにしてもモテないというのは嘘っぱちだろう。まさか黒尾くんに、その自覚がないとも思えない。
「黒尾くんは今、恋人はいないの?」
 試しに尋ねてみると、黒尾くんは何故か悪戯っぽい顔でにやりと笑った。
「俺? 名字さん的にはどう思う?」
「ええー、どうだろう……? いなさそう、かな?」
「おーい? さっきモテるって言ったの誰だよ」
「あ、いやそういうわけじゃなくて。いやそういうわけなんだけど」
「どっち。ま、残念ながらいないんですけども」
 大して残念でもなさそうに、あっさり黒尾くんは白状した。やっぱり彼女はいないんだ、と私はひそかに納得する。
 黒尾くんが休み時間に、夜久くんと連れだってどこかに行くところはたびたび目にしているけれど、女子と一緒にいるところは、意外なほどに見かけない。それに卒業間際まで部活に全力投球していたのなら、彼女なんて作っている暇も余裕もなかっただろう。強豪バレー部の練習はきっと、鬼のように厳しかったに違いない。
「そういう名字さんは彼氏いんの?」
 今度は黒尾くんが私に聞いた。会話の流れで聞かれるだろうと思っていたから、驚きもせず私は答える。
「いるわけないよね。でも高校楽しかったし、恋愛は大学に期待します」
「それな。あ、名字さんどこ進学すんの? 都内?」
「うん、■■女子大」
「まじ? やっぱ頭いいな」
「黒尾くんは? 大学どこに決まったの?」
「△△大。たしか■■女子とチャリですぐの距離だぜ」
 △△大。バレー推薦と言われてもぴんと来なかったが、その大学ならば知っていた。普通に受験しようと思うとかなりの難関大だ。きっと今教室で受験勉強しているクラスメイトの中にも、志望校に△△大を挙げている人はいるのだろう。
「じゃあ黒尾くん、大学入ったらぜひとも合コンとかやってね。そして私を誘ってください」
「合コンとかすんの? 名字さんが?」
 黒尾くんが口元をゆがめて笑う。笑い顔にもいろんなバリエーションがある人だ。
「分かんないけど、そういうこともあるんじゃないのかな。ほら、こっちは女子大だから。多分出会いもなかなかないと思うんだよね」
「あー、たしかに。そういうことなら任せなさい。あ、連絡先教えてくんない?」
「いいよ、待ってね」
 あれよあれよという間に、私と黒尾くんは連絡先の交換を果たす。読み込んだQRコードから開いた黒尾くんの連絡先に、なんだか不思議な気分になった。
 私と黒尾くんが高校を卒業するまで、もうあと二か月を切っている。二年間同じクラスだったのに、卒業間近になってまさか連絡先を交換することになるとは思いもしなかった。
「私の携帯、男子の連絡先って黒尾くんくらいしか入ってないかも?」
「え、まじ?」
「あ、うそ。中学の時の委員長がいた」
「委員長?」
 首を傾げる黒尾くんに、私はスマホを見ながら頷く。
「なんかの実行委員会が一緒で交換したんだけど、結局一回も連絡しなかったな」
「そういうのあるよな。え、じゃあ今名字さんのスマホにある連絡先、家族以外の男ってその委員長と俺だけなの?」
「そうみたい」
「すげえレアじゃん。間違えて消すなよ」
 黒尾くんが笑う。「分かった、心して連絡先に追加しておく」と携帯を握りしめて頷くと、
「そこまで気合い入れなくても」
 と、また呆れたように笑われた。

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