18

 店頭には春物と、気が早いけれど少しだけ夏物も出ている。時期柄ひらひらした素材やシルエットの可愛いものが多く並んでいるので、それらを見ているだけでも心が躍る。
 自分が着るとなると、あまりにも露出が多いものは恥ずかしくて着られない。それでも春夏ものはどうしたって露出が多めのデザインになるから難しい。
 大学に着ていくための無難なワンピースを探していると、隣の棚を物色していた黒尾くんが私を呼んだ。
「なあ、名字さんもこういうの着るの?」
 黒尾くんがにやにやしながら持ってきたのは、がっつり肩から二の腕が出るようなデザインのトップスだ。先ほど『こういうのはちょっと着られない』と判断した類のデザインだった。
「着ないよ! というか着られないよ!」
 慌てて言うと、黒尾くんはけらけらと楽しそうに笑う。
「なんで? 別に着ればいいじゃん。夏とか涼しそうだし、それに店に出てるってことはこういうの流行ってんじゃねえの?」
「そ、それはそうなんだけど……」
 たしかに流行ってはいる。雑誌なんかを眺めていても、今年はこういう形の服が色々なブランドから出ていることには気付いていた。黒尾くんの言うように涼しげだとも思う。
 ただ、私にこれを着るだけの胆力があるかと問われれば、それは間違いなくノーだ。
「いくら流行ってたって、恥ずかしいものは恥ずかしいでしょ」
 そもそも露出が多い服をこぞって着るのは、おしゃれや流行が好きな人か、そういうのが似合う人たちなんじゃないんだろうか。可愛く露出したい子が着るのは素敵なことだけれど、自分で着るのは気おくれする。というか冬の間にたくわえた脂肪も、私はまだ落とせていない。
 自分の腹部を思い出して心が挫けそうになる。腹部から目をそらし、私は黒尾くんの方に視線を戻した。黒尾くんはまだ、先ほどのトップスを矯めつ眇めつしている。
「……黒尾くんはこういう服が好きなの?」
「こういうって?」
「その、なんというかこういう挑戦的な服が」
 言葉のチョイス、と黒尾くんが笑う。そして、
「まあ好きか嫌いかって言われたら嫌いではないな。名字さんが着てたらちょっとおお、とは思うかも」
 その言葉に、思わずうぐぐと言葉に詰まった。
 笑顔でそんなことを言われたら、なんとなく──本当になんとなく、着なくてはいけないような気分になるではないか。どうも黒尾くんの策謀にはまったような気分になりながら、黒尾くんの手に掛けられた挑戦的なデザインの服を見つめる。
 着られないことはない、が、積極的に着たいというわけでもない。どうしても着なければならない場合、上から何かを羽織れば腕はカバーできるし、ギリギリセーフと言えなくもない。いや、そこまでして着る必要があるのだろうか。そもそも上に羽織ってしまったら。この服の挑戦的な部分はすべて消滅してしまう。
 そんな風にひとりで悶々としていると、こちらに気がついた店員が、にこにこしながら近づいてきた。売り物を前に考え込んでいる私たちを見て、買うかどうか悩んでいると思ったのだろう。歩き方と貼り付けた笑顔を一目見ただけで、かなり推しが強そうな店員だと分かる。
 これはまずい。けれど服をもとの場所に戻すよりも、店員が私たちのところに到着する方が一歩早かった。
「それすっごく可愛いですよねー! 結構皆さんその服見ていかれるんですよ」
 つまり、買ってるわけではないらしい。そりゃそうだろう、まだ三月なのにこんなに露出した服を買っても当分出番はない。それにこういう挑戦的な服に怯みがちな女子は、私を含めけして少なくないはずだ。
 やっぱりやめておこう、そう私が言うより先に、黒尾くんが店員さんのセールストークに乗っかった。
「店員さんもそう思います? いやー、本当に。俺もこういうの結構好きなんですよねー」
「わー、そうなんですか? 彼女さん可愛いですもんねー! 彼女さん、彼氏さんもああ言ってますし、折角だから試着なさいますか?」
「あ、お願いしまーす」
 なぜか私ではなく黒尾くんが受け答えをする。そのままあれよあれよと話が進み、気が付けば私はひとり、試着室の中で大胆トップスと対面する羽目になっていた。
 一体どうしてこんなことに……? 思い返してみるものの、店に入った直後からすでに、こうなることは見えていたようにも思う。黒尾くんは基本的に私に対して驚くほどに親切だが、反面面白がってからかうことも少なくない。たびたび私を面白がらせて遊んでいるふしもある。今回も、そういう遊びのひとつなのだろう。もちろん、遊ばれる側としてはたまったものではない。
 しかしいつまでも過ぎたことを悩んでいても仕方がない。今はひとまず、目の前の挑戦的衣装と向き合うことにした。
 何を隠そう、私の身体は春休みの間に確実に成長を遂げている。夏までには何とかしようと思っていたのだが、まさかこんなタイミングで、黒尾くんの前にふくふくと成長した二の腕を晒すことになるとは思わなかった。腹部は隠すことができるとしても、服のデザインからして二の腕露出は必至。もしかしたら黒尾くんには、結構なショックを与えてしまうことになるかもしれない。
 それ以外にも細々とした問題はあるが、一番はやはり肉付き。とはいえからかい半分であったとしても、黒尾くんが選んでくれた服だ。この期に及んで試着すらしないというのは、さすがにちょっと失礼なのかもしれない。
 長考した結果、試着だけしてさっさと着替えることにした。問題の二の腕も、少し見られるくらいならば問題はないだろう。一瞬だけ晒したらすぐに腕は撤収。何か黒尾くんに不都合な部分を見られるより前に、素早く試着室のカーテンの中に戻ってしまえばいい。
「名字さん、着替え終わった?」
 カーテンの向こう側から、黒尾くんの催促の声がする。この試着室に入ってから、すでにずいぶん時間が経っていた。慌てて「もう少し」と返事をする。大急ぎで着替えたのち、もう一回鏡でチェック。それからようやく、私はカーテンを開けた。
「お、お待たせしました……」
 言いながらも、顔から火が出そうな羞恥心に襲われる。コスプレしているわけでもないのに、やたらと恥ずかしくて仕方がなかった。ついこの間まで冬ものばかり着ていたからか、二の腕が外気に触れるだけでそわそわする。
 とにかく一刻も早くもとの自分の服に着替えたい。成長した二の腕をさりげなく身体の後ろに隠し、私は黒尾くんの顔色を窺った。
「わあー! すっごく可愛いですね! 彼女さん華奢でいらっしゃるからこれだけ腕出しても全然大丈夫ですよぉ!」
 はしゃいだ声をあげたのは店員さんだ。さすがにプロなので、私のこの良くも悪くもないスタイルを最大限に盛って褒めてくれる。しかし私だって、先ほど鏡で嫌というほど現実を確認したばかりだ。浮かれて購買意欲をあおられたりはしない。
 しかし、この際店員にどう思われているかは些末な問題だ。そんなことよりも黒尾くん。はしゃぐ店員とは対照的に、黒尾くんは先ほどからずっと沈黙を守っていた。表情をうかがってみても、その無の表情からは何ひとつ読み取ることができない。いつもの飄飄とした読ませなさではない。完全なる「無」だった。
「……あ、あの、黒尾くん、せめて何かその…コメントを……」
「あー、彼氏さん固まっちゃってますよぉ」
 余計なひと言を挟む店員さんだった。ちょうどその時他のお客さんがレジに向かったので、店員さんは私たちに何か一言二言言い残し、颯爽とレジに向かっていく。残されたのは腕を露出したままの気まずい私と、店員さんの言う通りフリーズ気味の黒尾くんだけだ。
 間が痛い。意味もなくもじもじしてしまう。
 というか「無」とは。表情そのまま「ナシ」ってことだろうか。
「黒尾くん、あの」
「……なよ」
 気まずすぎる沈黙の末、やっと黒尾くんが発した言葉は、しかし小さすぎて私の耳には届かない。
「え? ごめんね、何て?」
「……だから、それ絶対買うなよ、って言ったの。そんなに腕出されたら俺が困る」
「えっ、あ、ご、ごめん! こんなお見苦しい腕をお見せしてしまって!」
 ひええと悲鳴を上げたいのをすんでのところで堪え、私は全力で恐縮した。まさか黒尾くんにそこまで思わせるほど、ひどい姿だっただろうか。たしかにちょっと、いや相当無理している感じではあるのだが。それでもさすがに、結構ショックだった。
 しかし打ちひしがれる私をよそに、黒尾くんは慌てた様子で首を振る。
「いやいや、そういうことじゃねーって! いやそういう話じゃなくてだな」
 そこで一度言葉を切って、黒尾くんは少しだけ深呼吸をする。そして試着室の中の私に顔を寄せると、声をひそめて教えてくれた。
「……だからね、俺以外のやつにそんな簡単に腕とか見せてほしくねえなってことをですね、僕は言いたかったわけですよ」
 言いながら、黒尾くんの顔はみるみる赤くなっていく。それを隠すように、黒尾くんは手で口許を覆った。同じく私の顔にもどんどん熱が溜まっていく。
 目の前で赤面している黒尾くんと、赤面している黒尾くんを見て赤面している私。尋常ではない状態にどうしていいか分からなくなって、結局出てきた言葉は、
「……着替えてきます」
 だけだった。いそいそとカーテンを閉めようとした私の手を、黒尾くんが掴む。
「待って」
「これ以上まだ何か!?」
「名字さん、その服で写真とっておいてもいいですか」
「えっ」
 結局、写真は黒尾くんが店員さんに確認して快く撮らせていただいた。買うか悩んできます、と言っておいたけれど、きっとこの服を私が買うことはないだろう。ただの冷やかしになってしまって申し訳ないので、可愛いなと思ったセール品の服を一着だけ買う。
 そのうえ黒尾くんが撮ってくれた写真は、私がひとりでもじもじしているだけの痛ましい一枚。消してほしいと頼んでもみたけれど、黒尾くんにはあっさり断られた。
「絶対ほかのやつに見せねえから。な、観賞用ってことで」
「……なんか途轍もなくまがまがしい気配を感じるんだけど」
「大丈夫、俺は紳士だから」
 果たしてその言葉をどこまで信用していいかはまったく分からなかったが、黒尾くんがすごくすごく──本当にすごく満足そうにしていたので、私はそれ以上の追及をすることができなかった。そのうち私も観賞用の写真を撮らせてもらうことで、どうにか手を打つことにした。

 その後のぞいた店で、お目当てのかばんを無事購入することができた。手ごろなサイズ、手ごろな値段でいいものを見つけられたし、黒尾くんの服も見ることができた。先ほどのお返しにと黒尾くんにも試着を迫ってみたものの、
「俺試着しない派」
 とすげなく一蹴されてしまった。それでも黒尾くんが好きなブランドや系統は分かったし、書店ではよく読む漫画や雑誌も知ることができた。情報収集としてはなかなかの成果を上げたといえる。そうして楽しく一日を過ごし、日が暮れるころにふたり一緒に、地元の駅まで戻ってきた。
 三月も終わりに差し掛かり、だんだん日が長くなりつつある。ほとんど沈みかけた夕日を背中に受けながら、私と黒尾くんは並んで歩いた。本当は黒尾くんの最寄り駅はうちの最寄りよりも一駅向こうなのに、黒尾くんは当たり前のように同じ駅で降りて送ってくれる。
「そもそも俺んちと名字さんちも、そこまでめちゃくちゃ離れてるわけじゃないだろ。普通にランニングする距離くらいじゃない?」
 黒尾くんはそんなふうに言ってくれる。だが運動向きでない重たげな靴と、買い物の荷物を両手に提げて片道数十分の遠回りをすることは、けして楽なことではないはずだ。そこに優しさがあることは疑いようがない。
 もしかしたらこの優しさも、黒尾くんにとっては当たり前のことかもしれない。けれど黒尾くんにとっての当たり前が、私にとってはそうではないことというのは、きっとたくさんある。黒尾くんが当たり前に与えてくれる優しさのひとつひとつに、私は飽きもせず好きだなぁと思いを新たにし続ける。
 そんなことを考えながら歩いていたら、ふいに私の手の甲に黒尾くんの手がふれた。あ、と思うより先に、そのまま指を絡められる。黒尾くんの指は冷たかったが、指を絡めているうちに少しずつ私の温度が黒尾くんの融けだし、やがて同じ温度になった。
 黒尾くんの顔を見上げる。黒尾くんはにやにやと、いつもみたいに笑っていた。
「黒尾くん、指先冷たいね」
 私が言うと、
「今日はいつもみたいに真っ赤になんねえのな」
 と揶揄われる。そして、
「ま、名字さんがまた慌てちゃうといけねえから、今日は手をつなぐところまでで我慢するけども」
 ぎゅっと指に力を込めて、黒尾くんは私の顔を覗き込んだ。心なしか、黒尾くんの頬が赤くなっている気がする。そう指摘したら、さすがに意地悪すぎるだろうか。私もぎゅっと手を握り返して、それから結局、たまらず笑った。
「名字さん何笑ってんの」
「いや、我慢なんだなぁと思って」
「そりゃそうだろ。大事な彼女がスローペースでお願いしますって言うなら、格好いい彼氏としては我慢くらい余裕でしねえと」
「それはそれは、お気遣いいただきありがとうございます」
「今日は思いがけず名字さんのナマ腕も見せてもらえたし、そのくらいはな」
 たまにはこちらが揶揄う側と思っていたら、すぐに形勢逆転の一手をさされてしまう。悔しくなってブンッと大きく腕を振ってやったら「おわ!」と黒尾くんが少しだけ体勢を崩した。
 黒尾くんの間抜けな声が聞けたから、今日のところはこれでよしとすることにした。

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