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 ”大学通学用の鞄とか色々買いに行きたいんだけど、よかったら黒尾くんも一緒に行きませんか”
 ”それはつまり、デートのお誘いということですか”
 ”そう受け取っていただいて結構です”
 ”なるほど、それは彼氏としては行くしかないですね”

 そういうわけで、三月の終わり頃。私と黒尾くんは付き合い始めてから、通算三度目のデートをすることになった。
 昼過ぎに待ち合わせをして、それから少し都心の方まで出ていく。行き先は一年くらい前にできた商業施設で、若者向けのおしゃれな店が色々入っているらしい。兼ねてより受験が終わったら行ってみたいと思っていた場所だった。
 先日のホワイトデーデートの際、私が食べるのが好きそうだからという理由で、黒尾くんがデート先を選んでいたことが発覚した。もちろんそれも事実だが、別に食べることばかりが好きというわけではない。というよりも、黒尾くんと一緒に出掛けられるのなら、いろんなところに行ってみたい。デートの口実は買い物だが、実際のところは黒尾くんと買い物に行ってみたいという不純な動機だった。
 電車で移動することを考えて、駅で待ち合わせにした。駅に到着すると、今日は黒尾くんの方が先に来て私を待っていた。ヒールの音が大きく鳴らないよう、小走りで近くに駆けていくと、黒尾くんが携帯から視線を上げて私を見つけてくれる。
「ごめんね、黒尾くん。待った?」
「いや、俺も今来たところ」
「ふふ、それお約束のセリフだね」
「そうそう。一回言ってみたかったやつ。けど今来たのは本当」
「ありがとう」
「どういたしまして。いや何のお礼?」
 くだらない会話をしながら、一緒にホームへと向かう。
 休日ということもあり、駅は人でごった返していた。ホームで電車を待ちながら、周りの人に押されたふりをして、少しだけ黒尾くんとの距離を近付けてみる。幸か不幸か、黒尾くんは乗換確認のため携帯の画面に釘付けになっていて、私の下心には気付きそうもない。もっとも、近付けたといっても大した距離ではない。私にとっての精いっぱいというだけで、黒尾くんにとっては近寄ったことにも気づかない程度だろう。気付かれなくても仕方がないし、気付かれても恥ずかしいだけだ。
 そのまま黙って黒尾くんの横顔を盗み見ていると、携帯に視線を落としたまま「何?」と首を傾げられる。仕草が可愛い。付き合い始めてから気付いたことだが、黒尾くんは結構可愛い動きをする。
「彼氏の横顔が整っているなあと思って、ついつい見つめてしまいました」
「そうですか、整っていますか」
「なかなかのものですね」
「なかなかって、それ褒めてんの?」
 黒尾くんが笑って、くしゃと軽く私の頭をかき回した。折角時間をかけてきれいに整えてきた髪が台無しになる。いや、それよりも。
 今、すごく自然に触れられた。
 びっくりして黒尾くんの顔を見上げると、黒尾くんは悪戯っぽい顔で私を見下ろしていた。
「なに、名字さんってばときめいちゃった系?」
「……ご想像にお任せします」
 こちらがこっそりこっそり近づけていた距離などあっという間に飛び越して、黒尾くんはいつも私の何歩も先を行くようだ。さっきまでじりじりと距離を詰めていた自分が急に情けなく思えるが、それ以上にときめいてしまうのだから仕方がない。
 黒尾くんが電車のやってくる方向を覗き込んでいる。私から視線がそれたのを確認してから、私はそっと、黒尾くんがかき回した髪に触れる。さっと触れただけなので、そこに黒尾くんの熱が残っているわけではない。それでもぎゅっと、胸が狭くなる。
 黒尾くんと私はかなり身長差があるため、黒尾くんはさっきのような仕草を、いとも自然にやってのけることができる。無理のない感じがかっこいい。
「お、電車きた。混んでないといいな」
「そうだね……」
 直前までの遣り取りをまったく引き摺っていない、黒尾くんのさっぱりとした口調に、私は胸のときめきと顔の熱を持て余しながらそっけなく答えた。

 黒尾くんに胸をどきどきさせられたまま、電車に乗る。車内は混雑していて座るどころではない。せめてなんとか隙間を見つけて落ち着こうときょろきょろしていると、不意に黒尾くんに腕を引かれた。そのまま出入口あたりの隙間に、ふたりですぽりとおさまる。
「わっ、」
 思わず声が漏れた。
 視線をあげると、顔のすぐ上に黒尾くんの顔がある。足にしっかり力を入れていないと、黒尾くんに倒れかかってしまいそうな状態だ。
「大丈夫? 名字さん。壁側変わろうか」
 黒尾くんが言ってくれるけれど、私は頭を振って答えるだけで精いっぱいだ。密着とまでは言わないまでも、黒尾くんとの身体の距離は限りなく近い。黒尾くんのシャツのにおいまで感じられる距離に立ち、頭から湯気が出そうだった。
 こうなってしまうと、もはや黒尾くんの方なんて見ていられない。恥ずかしさから逃れるよう、窓の向こうをひたすら凝視する。息ひとつするのにも黒尾くんが気になって仕方がない。
 私が黒尾くんのことをこんなに近く感じているということは、黒尾くんにも私が近く感じられているのだろうか。こんなにもどきどきしていることが、黒尾くんに伝わってしまっているのだろうか。
 どうか一秒でも早く駅に到着してほしい。揺れる電車の中、そのことだけを何度も願った。
 そうして電車に揺られ続けること十数分。ようやく乗り換え駅に着きホームに降りると、私は深く空気を吸い込んだ。電車の中では生きた心地がせず、呼吸も浅くしかできなかった。黒尾くんに呼吸の荒い女だと思われたらと思うと、気配を消すことしか考えられなくなってしまったのだ。
 満員電車でよれた服や髪型を直しながら歩いていると、隣の黒尾くんが「さっきの電車、」と口を開く。
「すげえ混んでたな」
「うん……、春休みの土日ってこんなに混むんだね。ここまで出てくることがそうそうないから、びっくりしちゃった」
「名字さんめちゃくちゃぷるぷるしてなかった? あれ足と腹筋やばかったんじゃねえの?」
 黒尾くんの言うとおりだった。揺れる電車の中、黒尾くんの方に倒れないよう足に力を入れていたせいで、すでに相当体力を消耗していた。おまけに呼吸も最低限に留めていたので、すでに一日遊び疲れたような疲労感に襲われている。
「そんなしんどかったなら、こっちもたれればよかったのに」
 何でもないことのように黒尾くんは言うが、この私にそんなことできるはずがなかった。黒尾くんだって、そのくらい分かりそうなものだ。慌てて首を振る。
「むりむり、本当に無理だよ」
「なんで? 俺名字さんひとりくらいなら余裕で支えられるけど。後ろ壁だから凭れられるし」
「そうは言っても絶対春休みで太ったし……黒尾くんの服に化粧とかついちゃうかもしれないし……」
 あながち嘘とも言えない言葉で誤魔化してみるが、黒尾くんは「別にそのくらい気になんねえけどな」と笑っている。その表情を見て確信した。
「黒尾くん、もしかして私が恥ずかしくてもたれられないの、分かって言ってない!?」
「お、気付いた」
「やっぱり……!」
「別に付き合ってんだし、いいと思うけどね。べたべたくっつくのと、揺れる電車で支えるのじゃ全然違うだろ」
 黒尾くんの言い分も分かるし、間違っていないとも思う。だがそれとは別に、恥ずかしさはたしかにあるのだから仕方がない。そこをきっぱり割り切れるほど、私はまだ黒尾くんに慣れていない。
 しばらく悩んだすえ、
「……私にとっては黒尾くんは初めての彼氏だから。いきなりそれは、ちょっとハードルが高いよ。もうちょっとスローペースでお願いします」
 ぼそぼそと、まるで言い訳でもするように本音を伝えた。黒尾くんは、返事をする代わりにまた私の髪を軽くかき混ぜた──この人、本当に私の言いたいことが伝わっているのだろうか。

 電車を乗り換え十分、そこから歩いてさらに五分。やっと着いた目的地も、やはり人でごった返していた。客層は私たちくらいの若者から、ちょっとセレブっぽい夫婦まで幅広い。親子連れも多いのは新生活準備の時期だからだろうか。そう考えるとこの混雑も仕方がない。
「誘っておいてなんなんだけど、私あんまりお店の場所とかよく分かってない」
「俺も。とりあえずぐるっと見て回るか」
 どちらも施設内の土地勘──というのかは定かではないが、ともかく場所の見当がつかないのではすぐに迷ってしまう。ひとまずフロアマップを見て、それから今日の予定を定めることにした。
 今日の目的は新生活の準備。だがこれはデートのための大義名分のようなものだ。従って、これといったリサーチもしていなければ、特別気になる店があるというわけでもない。しいて言えば自分が行きたい店よりも、黒尾くんがどんなお店が好きなのかとか、どういうものに興味があるのかとか、そういうことを知れたらいいなと思っている程度。
 フロアマップによると、地下と一階は主に雑貨や輸入食品のお店、それからカフェなどが立ち並んでいる。二階、三階がそれぞれレディースとメンズだ。さらにその上がレストラン街となっている。階層は高くない分、各フロアがかなりゆったりとした造りになっているので、無計画に歩き回ると十分に周り損ねる可能性がある。
 とりあえずの目星だけつけて、私たちは下の階から順番に上がっていくことにした。

 雑貨を多く取りそろえた地下と一階は、ざっと見ただけでもかなり楽しめた。黒尾くんは新しいペンケースが欲しかったらしく、悩んだ末にコンパクトな皮のものを買った。ベーシックな色に金の刺繍が入っていてさりげなくセンスがいい。
 次に向かうは二階のレディースコーナー。だがここはさらりと見るだけにしようと、最初から私は決めていた。
 買い物したい気持ちはもちろんある。が、黒尾くんは女子の服になんて興味はないだろう。せっかくのデートだというのに、つまらない思いをさせるのも申し訳ない。そう思い、二階は流し見する程度にとどめた。それでも普段から好きでよく買っているブランドの前を通るときだけは、ついつい店頭に視線が長くとどまってしまう。
「お、名字さんっぽい」
 そんな私の思いを知ってか知らずか、通り過ぎようとしていたそのショップの看板を黒尾くんが指さし言った。黒尾くんの鋭さに少しだけ驚く。
 今日着ている服も、最初のデートで着ていった服も、実を言えばそのブランドのものだった。だがまさか、レディースブランドのことを黒尾くんが知っているはずもないだろう。似たような系統の服屋はそこかしこにあるのに、ピンポイントで「名字さんっぽい」と当ててしまう勘の良さたるや。
「すごいね、黒尾くん。女子の服って男子から見たらあんまりよく分かんないかと思ってた。私、ここのお店でよく服買うんだ」
「いや、さすがに何となくの雰囲気くらいは分かる。あくまで雰囲気だけだけどな。だから当たったのはマグレ」
 黒尾くんはそう言って私に笑いかけ、そして続ける。
「それに名字さんって制服のときより私服の方がだいぶ大人っぽく見えるよなーって、結構見てたから」
「そうかな? なんか恥ずかしいね……」
「せっかく来たんだし、今日も見ていけばいいじゃん。まだ時間あるだろ」
 黒尾くんがふたたび店を指さした。
 たしかに見ていきたい気持ちはある。あるけれど、初めてのショッピングデートで、こうも自分の趣味に走った買い物をしてもいいものだろうか。黒尾くんに退屈な思いをさせてしまわないだろうか。
「……いいの? 多分、あんまり面白くないと思うよ」
 遠慮がちに尋ねる。けれど黒尾くんは気にしたふうもなく、あっさりと言った。
「こっちとしてはむしろ、そういう普段の名字さんを見たいんですけど」
 黒尾くんも、私と同じことを思ってくれていたのか。そのことが分かった瞬間、不思議と胸に安堵が広がった。普段の姿を見せてほしい──私が黒尾くんにしてほしいことを、黒尾くんも私に望んでくれている。その「同じ」が、ひどく嬉しい。
「それなら少しだけ」
「少しと言わずゆっくり見れば?」
「じゃあ、ちょっとだけゆっくり」
 黒尾くんのお言葉に甘えて、私は店内に足を踏み入れた。

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