「黒尾くんはここのケーキ食べたことあるの?」
さっきの聞いた言葉を思い出し、私は黒尾くんに尋ねた。味を知っていたということは、一度は食べたことがあるのだろう。いや、黒尾くんが自身満々に連れてきてくれるくらいだから、二度か三度は食べたことがあるのかもしれない。
「だいぶ前に研磨んちでめちゃくちゃうまいケーキ出されて、それがここのだったんだよ」
「研磨くんって、幼馴染の子だよね。二年生の」
「そ。家が近くて、小せえ頃からしょっちゅう出入りしてたな。研磨んちのおばさんが、いろいろ美味しいもんに詳しいんだよ」
「なるほど、期待してケーキを待つことにする」
「おー、そうして」
ケーキへの期待ががぜん高まってきたところで、私はぐるりと店内を見回した。それほど広い店ではないが、そこかしこに飾られたアンティークの置物やドライフラワーが可愛くて、ついつい視線を遣ってしまう。店内が混みあって騒がしくないのもいい。
「それにしても、こんなところにケーキ屋さんがあったなんて全然知らなかったなぁ。あんまり気付かれにくい場所にあるから、ご近所の人や常連さんしか知らなさそう」
「そこがいいんだろ」
繁華街の中でこそあるものの、店までは近隣住民しか使わないような細い道を通ってきた。正直に言えば、どこに連れていかれるのかと少しひやひやしたくらいだ。
「こういうところでお茶してると、なんかもう大学生みたいな気分になるね」
私がそう言うと、黒尾くんも頷く。
「まあ高校生の小遣いでは、ちょっとなかなか手が出ない価格設定だったりもするしな」
「だよねえ。私、大学の入学祝とバイト代ではじめてこんなお金を自分で管理してる……ってちょっとわくわくしてる」
「俺は早速後輩にたかられてる。早くバイト代出ねえかな」
「元主将って大変なんだね」
そんな話をしているうちに、待望のケーキが運ばれてきた。
目の前に置かれたケーキは表面がつやつやきらきらで、ひとめ見ただけで溜息がこぼれてしまう。
フォークを刺して、小さく切り分ける。
「いただきます、──ん、………ふぁ、うわ、ああ……これ、すごくすごく幸福な味がするね…!」
一口食べて、まずそのおいしさに驚いた。
チーズムースの層はふわふわで濃厚なのに、くどくならずにさっぱりしている。下のパイ生地はさくさく。苺はジューシー。チーズパイなんてあまり見かけないからと選んだが、まさかこんなにも美味しいものとは思いもしなかった。
ほとんど反射でこぼした言葉はどうやらパティシエさんにも聞こえていたらしい。ぱちりと目が合うと、にっこり微笑んでくれた。
「く、黒尾くんのも一口もらっていい……?」
あまりの美味しさに感動しながら訊くと、どうぞ、と笑われる。いただきます、とこちらにもフォークを刺した。
つやつやしたチョコレートの表面が、ふわりと柔らかに割れる。少しだけほろ苦くて、こっちも想像通りの美味しさだった。
美味しいね、という思いを込め、ふと黒尾くんを見る。黒尾くんは何故か笑いを堪えるような顔で私のことを眺めていた。
「えっ、なに……?」
「いーや、何でも? ほら、たんとお食べ」
「もちろん食べさせていただきますが……」
それ以上追及したところで何も教えてくれないのだろうことくらい、さすがに私でも想像がつく。釈然としない気持ちもケーキの美味しさに夢中になっているうち、次第に薄れて消えていった。
一通り満足いくまでケーキの美味しさを堪能したところで、私はふと、思い付いたことを黒尾くんに訊ねてみることにした。
「黒尾くんは食べること全般好きなの?」
特に意味のない、ただの思い付きで聞いたつもりだったのだが、黒尾くんはきょとんとして「なんで?」と聞き返す。きょとん顔の黒尾くんは、少し幼い感じになって可愛い。
「いや、大した理由じゃないんだけども。黒尾くんと出掛けるときって、毎回何か食べてるでしょ? カフェに行ったり焼肉食べたり……。あ、打ち上げの時の焼肉はちょっと違うかな」
最初のデートは、気になるお店があるからついてきてほしいと頼まれランチを食べに行ったし、今日のデートも美味しいケーキ屋さんに連れてきてもらえた。買い物とかテーマパークで遊ぶとか、そういうある意味王道なデートにならないのは、黒尾くんが食べることが好きだからだろうかと想像したのだが。
私の質問に、黒尾くんは真顔でじっと私を見つめる。そして、やおら視線を険しくしたかと思えば、
「名字さんはテーマパークとかのがよかった?」
と、真面目な声で尋ねてくる。私はあわててかぶりを振った。
「全然! 私は美味しいもの大好きだから、こういうデートは嬉しいよ。どんと来いというか、いくらでも受けて立つよ!」
「もはや戦の意気込み」
黒尾くんがかすかに口許を歪めて笑う。その表情に、ほっとした。私はけして、黒尾くんとのデートが楽しくないなんて思っていない。そう思わせることも本意ではない。
「ただ、黒尾くんは男の子だし、前も少し話してたけどたくさん量を食べるじゃない? カフェのご飯とかだと、美味しいけど黒尾くんにはちょっと量が足らないみたいなこともあるだろうし、それでもそういうところに行きたがるのは、黒尾くんが食べることが好きなのかなって思って」
大して何も考えずに投げかけてしまった質問だったが、思いのほか黒尾くんを悩ませてしまったらしい。黒尾くんは何かを考え込むように、じっと黙り込んでしまった。もしや私は何か触れてはならないところに触れてしまったのだろうか。しかし今の会話だけでは、何が肝心の触れてはならないところだったのか、皆目見当もつかない。
ひとまず、黒尾くんが何か言ってくれるのを待つことにした。ややあって、黒尾くんが口火を切った。
「食うのが好きつーか……最初に出かけたときにあの店だったのは、単純に名字さんを誘う口実が欲しかったからなんだよな」
「えっ、私を」
「男一人で行きにくいって理由があれば、誘っても不自然じゃねえかなと」
「……なるほど」
つまりその時──最初に私をデートに誘ったときには、すでに黒尾くんは私のことを好きになっていた、ということだろうか。話の流れとはいえ、思いがけない告白を聞くことになってしまった。少し恥ずかしい──そして、かなり嬉しい。
黒尾くんの言葉はまだ続く。
「で、その一回目のデートのとき、名字さんがうまそうに飯食ってるの見たりとか──、あと名字さんができたばっかの店知ってて結構詳しかったりとか。そういうのがあって、名字さんは食べることとか好きなのかなと思って、今日もこういうチョイスにしたわけだけど、もしかして、外した?」
「ううん、そんなことない。大正解です」
「まじ? それならよかった。外したかと思って、一瞬まじで心臓冷えたわ」
心底ほっとしたように見える黒尾くんを見て、つられて私もほっとした。黒尾くんが私のことを見て、私のことを考えて今日のデートプランを考えてくれていたということにも胸がときめく。
私が黒尾くんのことを見ているように、黒尾くんもまた私のことを見てくれている。少し恥ずかしくはあるけれど、やはり嬉しい。
告白して付き合って──だから相手のことを考えているなんて、そんなことは当たり前のことなのかもしれない。けれど、私は黒尾くんのことが好きで、黒尾くんもまた私のことが好きなのだ。そんな些細なことに気が付くだけで、私は何度でも黒尾くんにときめいてしまう。黒尾くんのことを、もっともっと好きになる。
「……黒尾くんのこと、もっと知りたいな」
「俺のこと?」
何気なく呟いた言葉を黒尾くんが繰り返す。うん、と私は肯いた。
「だって私たち、仲良くなってからまだ二か月しか経ってないもの。好きになって付き合ってるのに今更かもしれないけど、私は全然黒尾くんのこと知らないし、黒尾くんも私のこと知らないと思う。食べることも好きだけど、私、もっともっと好きなことたくさんあるよ。そういうことを、いっぱい黒尾くんに知ってほしいし、できれば黒尾くんのことも教えてほしいな」
言いたいことは正しく伝わっているだろうか。あまり口がうまい方ではないから、話しながらも不安になる。黒尾くんが真面目な顔で私の話に耳を傾けてくれていることだけが救いだ。
もしも友達だった期間が長い二人ならば、言うまでもなく相手のことをたくさん知っているのだろう。デートひとつをとってみても、相手のことを理解した上で最良のデートプランを組むことができるのかもしれない。
相手の好きなこと、好きなもの、思い出の場所、思い出の音楽。あるいはまだ知らないこと。判断材料は時間の長さと相手への興味の大きさに比例して、きっと増えていくものだ。
だが黒尾くんと私は、何かを判断できるほど相手のことを知っているわけではない。相手のことを好きになって、付き合うまでがあまりにも短かったから。お互いのことをあんまり知らないままで惹かれ合って、そして今に至っている。
だからこそ、私たちは今から知っていくしかないのだ。手探りでも、ひとつひとつ確認しながら覚えていくしかない。そうやって、覚えて、知っていきたい。黒尾くんのこれまでのことも、これからのことも全部。黒尾くんの知らないことまで全部。
そんなようなことを、私は思うままつらつらと話した。黒尾くんは黙ったまま私の言葉を聞いている。
やがてすべてを聞き終えると、黒尾くんは不敵ににやりと笑い、言った。
「名字さん、すげえ大胆なこと言ってる自覚はあるのかね」
思いがけない言葉に、私は呆然と黒尾くんを見た。時間差で、驚きが込み上げてくる。
「えっ、いや、ええ!? 今そういう話の流れじゃなかったよね!? 私、結構真面目な話したと思うんだけど、なんで茶化すかな!」
驚きながら抗議すると、黒尾くんは「悪い悪い」と軽く謝る。
「けどさ、どうしたらもっと名字さんに俺のこと好きになってもらえるかなって、俺はそんなことばっか考えてるわけですよ。それなのにそんな嬉しいこと言われたら、ちょっと茶化しでもしないとめっちゃ恥ずかしい顔になるだろ。俺なりの照れ隠しだと思って許してくれないものか」
今、とんでもないことを言われたのではないだろうか。私の聞き間違いでなければ、黒尾くんから物凄いときめきフレーズが発されたような気がする。
だがそこに言及する勇気は私にはまだない。だからもう少し当たり障りのないところに、そっと触れるだけにする。
「……黒尾くん、嬉しくなってくれた?」
「そりゃあね。可愛い彼女に『あなたのことをもっともっと知りたいの』なんて言われたら、男なら誰でも嬉しいんじゃないかね」
「その言い方だとニュアンス変わることない?」
「ほとんど一緒だろ」
そう言って黒尾くんは少しだけ笑ってから、それからふたたび真面目な顔をつくる。
「だけど、俺も同じこと思ってるよ。俺も名字さんのこと知りたいし、名字さんに知ってもらいたい」
真剣な顔で私をじっと見つめる黒尾くんの視線に、今更ながらに胸がどきどきと高鳴り出した。黒尾くんのちょっとミステリアスな雰囲気でそんなことを言うのは、はっきり言って反則だ。私だって照れ隠しに何か茶化すようなことを言い返したい。それなのに、悔しいけれど目が離せない。言葉もうまく出てこない。私はただ、黒尾くんを見つめ返すことしかできなかった。
店内に私たちだけしかいなくてよかった。こんなバカップルみたいな会話を誰かに聞かれていたら恥ずかしすぎて死んでしまうところだ。幸いショーケースの向こう側にもパティシエさんはいなくて、今この空間には私と黒尾くんしかいない。
とはいえ、目の前の黒尾くんこそが私の最大の強敵なのだ。絶えず黒尾くんからの視線にさらされ続けた結果、感情を表に出さないようにという私の努力は、完全に水泡に帰した。
恥ずかしさからゆるんだ私の顔を見て、黒尾くんが楽しそうに笑った。
「名字さん、まじで素直だな。俺以外のやつに騙されて、変な壺とか買わされないよう気を付けてほしい」
「変な壺なんて買わないし、ていうか黒尾くんも、そもそも私を騙そうとしないでよ」
それでも今のこの浮かれ具合ならば、うっかり壺くらいは買ってしまっておかしくない。自分の心の頼りにならなさを思い、私はまた幸福な溜息を吐いた。
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