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 打ち上げからしばらくは、大学入学の手続きをしたり部活に顔を出したり、あるいは始めたばかりのバイトに慣れるのに必死だったりと、目まぐるしい日々を過ごした。黒尾くんとはこれといって顔を合わせることもなく、大学入学前の春休みは早足に過ぎていく。
 黒尾くんは自宅近所の居酒屋でバイトが決まったらしい。彼の場合は部活もあるので、少ない日数でがっつり働こうという算段のようだ。深夜まで営業している居酒屋ならば、シフトと部活との兼ね合いがちょうどいいとのこと。
 黒尾くんなら体力もあるし頭の回転も速いだろうから、居酒屋のバイトも難なくこなしてしまうのだろう。居酒屋なんて入ったこともないのですべて想像だが、黒尾くんには苦手な職種の方が少ないように思える。
 私の方はと言えば、春休みのうちにある程度バイトに慣れたかったこともあり、休み中はバイト漬けの予定だった。バイトを始めて二週間、やっと少し慣れてきたところだ。それでも要領が悪いので、たまにミスをしてはへこんでいる。

 黒尾くんと直接会えない日が一週間ほど続いたある日、夕方ごろにバイトを終えて携帯を見ると、まさに黒尾くんからの着信しているところだった。大慌てで携帯を耳にあて、着信を受ける。
「も、もしもし!」
 勢いよく電話を受けると、電話の向こうの黒尾くんが「お」と声を上げた。笑いを含んだその声に、バイトで疲れた身体がたちまち癒されていく。
「まだバイトかと思ったけど。終わってたか」
「うん、今ちょうどあがって、着替えてるところ!」
 携帯を耳に当てたまま着替えをする。といってもバイト先と家が近いので、エプロンだけとればそれで着替えはほとんど終わる。
「…………」
 が、どうしたことか黒尾くんからの返事がない。
「え、あれ? 黒尾くん? もしもーし」
「うん、いや、何でもないデス。どうぞ続けて」
「着替えなら、もう終わったけど……」
 何だったんだろう、今の間は。着替えを済ませ、私は首を傾げる。もしかすると更衣室はあまり電波がよくないのかもしれない。一度携帯を耳から離して電波状況を確認してみたが、電波状況はいたって良好だった。
「それで、なにか急ぎの用事だった?」
 さっきの間は気にしないことにして、本題に入る。黒尾くんからの電話はたいてい、事前にメッセージでこちらの都合を確認してからかかってくる。今日は何か緊急の用事があったのだろうか。そう思い聞いてみると、黒尾くんはまた「お」と呟いた。
「そうだった。今週の金曜一緒に出掛けようぜ。たしかその日は名字さんのバイトもなかったよな」
「ちょっと待って、手帳見るね」
 携帯を肩と耳で挟みこみ、私は鞄から手帳を取り出す。バイトのシフトは常に黒尾くんに共有しているので、互いにある程度の相手の予定は把握している。念のため手帳で確認すると、黒尾くんの言うとおり今週の金曜は休みになっていた。
「うん、空いてるよ。どこか行く?」
 更衣室なので声はおさえているものの、自然とうきうきした調子になる。ついつい顔もゆるんでくる。
 黒尾くんとのデートは前回の打ち上げ以来。日々電話やメッセージで遣り取りしていても、やはり顔を合わせて話をする幸福にはかなわない。
 私の勘違いでなければ、きっと黒尾くんも同じ気持ちでいてくれるのだろう。私の問いに、黒尾くんは電話越しにでも分かるほど楽しそうな声で答えた。
「それは当日のお楽しみ。つーか名字さん、金曜が何の日か分かってる?」
「えーと……、あ、ホワイトデー?」
 手帳のマンスリーページを視線でさらう。金曜日の枠の中には、小さな文字でホワイトデーと印字されていた。
「大正解。ブラウニーのお返ししますよ」
 なるほど、そういうことか。ようやく合点がいった。それと同時に心の奥から嬉しさがこみあげてくる。
 卒業に告白に新生活。色々なことが怒涛のように押し寄せていたせいで、付き合う前にあったイベントのことなど、すっかり忘れ去っていた。それに、バレンタインのときには自分が渡すことで頭がいっぱいになっていて、ホワイトデーにまで思いを巡らす余力がなかったのだ。
「ホワイトデーかぁ」
 片づけた荷物を抱え、私は返事ともつかない呟きをもらす。ブラウニーのお返しということは、私も何か美味しいものでも食べにいくつもりだろうか。考えただけでわくわくする。
 そんなことを考えていたら、電話の向こうの黒尾くんがくつくつと笑った。
「名字さん、声で喜んでるの丸わかりですが」
「だって、嬉しいんだもん。楽しみだなー」
「それ、お返しがもらえるのが嬉しいのか、俺に会えるのが嬉しいのかどっちなのかな?」
「えっ、あ、えーと……、ど、どっちも……」
 照れながら正直に答えると、電話の向こう側の黒尾くんがふたたび笑った。電話越しだから伝わらないだろうけれど、実を言うと結構恥ずかしい。本当に、顔を見られない電話でよかった。

 ★

 ホワイトデー当日。
 黒尾くんとの約束の時間が近づくにつれ、どんどん落ち着きを失っていく私は、冬眠前の熊もかくやというほど、部屋の中をうろうろ歩き回っていた。じっとしていると、黒尾くんのことを考えて足がうずうずしてしまう。不審でも、歩いていた方が気が紛れる。
 そうして自室を何周か回ったころ、やっと携帯がぴろんと鳴った。待ちわびた音に、私は急いで携帯に飛びつく。メッセージの送り主は勿論黒尾くんで、文章はひとこと” ついた ”だけ。そのメッセージを読むやすぐさま、私は玄関へと走って行く。
 ホワイトデーデートだからか、今日は黒尾くんがうちまで迎えに来てくれる。クラスの打ち上げ後に家まで送ってくれたとき、黒尾くんはしっかりうちの場所を覚えていたらしい。今までの人生で男の子が自宅まで迎えに来てくれるたことなんて、小学生時代の通学班以来一度もない。待ち合わせもどきどきするけれど、迎えに来てくれるのは、もっとどきどきする。
 身支度を整え玄関扉を開けると、門扉の前に黒尾くんがすらりと立っていた。自分の家の前に黒尾くんがいる。なんだか不思議な気分だ。
 私と目が合うと、黒尾くんは「よ」と軽く手を上げた。
「ごめんね、お待たせ」
 わたわたと門扉を開けて寄っていく。その様子を黒尾くんがじっと私を見つめていた。あまりにまじまじ見つめられるので、身だしなみチェックに漏れがあったのかと不安になる。
 もしかして青のりの見落としとかあっただろうか。お昼にたこ焼きを食べたので、歯磨きと青のりのチェックは入念にしたのだが。不安で変な汗がだらだら流れるが、黒尾くんは私の口許を指差したりはしなかった。かわりに、ただぽつりと呟く。
「なんか、今日の名字さんはこの間とはまた雰囲気違うな」
「そ、そうかな!?」
 声が裏返る。気合を入れてきたのが見透かされたみたいで、どきりとしたからだ。
 黒尾くんの言うこの間とは、打ち上げの日のことを言っているのだろう。当然、クラス会とホワイトデーのデートで気合いの入れ方には差がある。今日の方がずっとずっと、気合いを入れて臨んでいる。
「変かな……」
「いや、そういうわけでは。ただ、女子って服とか髪形で雰囲気変わるよな」
「それでいったら、黒尾くんだって制服と私服じゃ雰囲気違うと思うけど」
「まじ? どっちのが好き?」
「す……、どちらももそれぞれに味があり、甲乙つけがたいのではないでしょうか」
「評論家?」
 ちなみに今日の黒尾くんは、シンプルな服をやたらとおしゃれに着こなしている。冬のもこもこ着ぶくれていた黒尾くんも好きだったのだが、春めいて軽装備になりつつある黒尾くんもまた素敵だ。
「とりあえず、行くか」
 端的にそう促され、私は黒尾くんの進む方に足を向けた。
 黒尾くんからは今日の行き先を聞かされていない。曰く、行けば分かるよ、とのこと。一応、ヒールのある靴やスカートでもいいかだけ事前に確認したら、それは大丈夫と返事をもらった。激しく活動するわけではないらしいが、それしか以外にはまったく何のヒントもない。方角的には、繁華街の方に向かっていそうな雰囲気だ。
 民家の外塀の向こうから、梅の枝が道路に大きく張り出していた。ほのかに花の匂いが香ってくる。
 桜の季節にはまだ少し早いが、そろそろ蕾が膨らみ始める頃だろう。今年の春はあたたかい。黒尾くんとお花見する機会があるだろうか。そんなことを考え歩きながら、ふと横を通りすぎていく車を見て思い出す。
「そういえば黒尾くん、免許取得おめでとう」
「あ、サンキュ。つってもまだ教習所卒業しただけだけどな」
 私の言葉に黒尾くんが微笑む。
 学科試験込みとはいえ、スポーツ推薦だった黒尾くんは、かなり早い段階で卒業後の進路が決まっていたそうだ。年明けまで部活に打ち込み、そして惜しまれながら引退した後は、特にすることもなくなったのでひそかに教習所に通っていたという。
 同時進行で私と仲良くしたり、進学先の大学の部活に顔を出したりまでしていたというから舌を巻く。そのバイタリティは一体どこから湧いてくるのだろう。私ならば間違いなく倒れているところだ。
 ともあれ、今は黒尾くんの免許の話だ。このたび無事に教習所を卒業し、残すところは免許センターでの試験だけらしい。黒尾くんならば、問題なくその試験もクリアするに違いない。 
「黒尾くんが免許とったらいろんなところに行きたいね」
 頭の中に近郊の観光地を思い浮かべながら言うと、隣の黒尾くんが苦笑した。
「いや、俺ひとりで運転するのしんどいんですけど」
「うーん、じゃあ免許持ってるほかの友達も誘うとか?」
「いやそこは名字さんが免許とってくれねえの?」
「私が運転かぁ……善処します」
「それは絶対にあてにならないやつではないかね」
 黒尾くんの呆れ声を聞き流したふりをしながら、なんだかとってもいい感じだなあ、と調子のいいことを考える。
 最近は黒尾くんに対しても、多少くだけた会話ができるようになってきた。以前は黒尾くんを前にするとどうしても緊張してしまったり、自分をよく見せたくてあれこれ思い悩んだものだが、最近はようやく自然に振る舞えるようになりつつある。これも黒尾くんの言うところの「慣れ」なのだろうか。
 もちろん、完全にありのままとはいかないし、少しくらいは見栄を張ったりもする。それでも今のところ少しずつ出てきた私の素を、黒尾くんは普通に受け止めてくれている。私の目にはそう見える。そのことが嬉しい。

 繁華街に入ったのでてっきりそのまま買い物でもするのかと思ったが、店を見るのもそこそこに、黒尾くんはすぐに裏道に逸れてしまった。そのまま再び歩き続けること数分。到着したのは、こぢんまりとしたケーキ屋だった。青い扉が可愛らしく、そこだけおとぎ話の世界のようだ。店の外まで甘いにおいが漂ってくる。
「今日はここに来る予定だったの?」
 私が尋ねると、黒尾くんがにやりと笑った。
「そ。ここのケーキうまいから、名字さんも気に入るんじゃないかと思ってね。さ、どうぞ」
 黒尾くんが開けてくれた扉をおそるおそるとくぐり、店内へと足を踏み入れる。見た目通り可愛らしい店内は、私のバイト先のカフェよりもさらに手狭だ。店内にテーブルは三つしかない。先客はおらず、私たちが入店すると、店員さんがにこやかに挨拶をしてくれた。
 ショーケースにはきらきらしたケーキたちが整然と陳列されている。それらを食い入るように見つめていると、黒尾くんが隣で笑った。
「そんなケーキ好きだった?」
「うん、とても。すごく」
「それはよかった。この間の打ち上げの日、カフェでケーキ食べられないの名字さんすげえ残念そうにしてたから。今日はそのリベンジってところだな」
 黒尾くんの得意げな言葉に、私は驚き言葉を見失う。そんな些細なことを覚えていてくれるなんて。私自身はそんなこと、とっくに忘れていたというのに。
「俺はオペラとコーヒーにしようかな」
 私と同じくショーケースを覗いていた黒尾くんは、さっそく注文を決めてしまった。私はまだ絞り込むことすらできていない。
「ええ、黒尾くん決めるの早いよ! もうちょっと待って」
「急かしたりしねえから、ゆっくり選びなさいよ」
 ホワイトデーということを差し引いても、黒尾くんはとびきり優しい。結局、それから数分かけて悩みに悩んだすえ、ストロベリーチーズパイとコーヒーにした。
 黒尾くんが「いちごの、」と指差し注文してくれる。その仕草と言い方が、とてつもなく可愛くて仕方がなかった。大きな男の子が「いちご」という言葉を発すること自体が可愛いのかもしれない。それが黒尾くんならば尚更だ。

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