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 そんな調子で、付き合ってからはじめてのデートは、付き合う前よりずっと私の胸をどきどきさせた。ただ向かい合ってコーヒーを飲んでいるだけ、話している内容も基本的には他愛ないことばかりだ。それなのに、終始幸福で顔がにやけそうになる。これでは黒尾くんのにやにや顔を笑うことなどできやしない。
 そんな幸福なデートをしっかりと満喫したのち、私と黒尾くんは今日のクラスの打ち上げ会場である焼肉屋へと向かった。

 音駒生御用達の焼肉屋に現地集合する。私たちが着いたときには、既にクラスの半分以上が揃っており、店のすぐ隣にある公園の入口でたむろしていた。揃って現れた私と黒尾くんに、その場のクラスメイトたちの視線が一斉に集まる。
 友人から聞いていたとおり、私と黒尾くんが付き合っていることは、もはや周知の事実のようだった。これまでの十八年の人生で、これほどまでに人から注目されたことなどあっただろうか。声の大きな男子に囃し立てられ、いたたまれずに俯く。
 すると、何か大きくて固いものが私の背に軽く押し当てられた。視線を隣に向け、それが黒尾くんに手のひらであることを知る。
「そういうリアクション、俺はいいけど俺の彼女が萎縮しちゃうんでやめといて。じゃないと俺らは帰ります」
 口調はいつもの黒尾くんだけれど、声音はしっかり本気だ。その静かな迫力に、囃し立てていた男子たちもさすがに茶化すのをやめる。ほっと胸を撫でおろした。
「黒尾、怒んなって」
「怒ってねえけど、場合によっては怒るぞ。つーかこっちは付き合いたてなんだから、ちょっとは気ぃ遣ってくれないもんかね」
「おお……、黒尾めっちゃ彼氏じゃん」
「かっこいい、そして名字さんごめんなさい」
「ごめんね名字さん、ちょっと黒尾が面白そうだったからいじっただけで、悪気はないから」
 一斉に謝られ、さらに委縮する。しかし私がここで萎縮してしまったら、黒尾くんもきっとやりづらいだろう。私が不慣れなばかりに、黒尾くんにフォローを押し付けたくはない。
「大丈夫。こちらこそ、慣れていくね……!」
 顔を上げ、はりきって返事をした。黒尾くんが呆れたように、
「いや、その努力は別にしなくていいんじゃない?」
 と笑った。

 店に入るとすぐに座敷に通された。店に入った順で、特に何も考えずぞろぞろ座席についていく。なんとなく仲のいい友人同士でかたまってはいるものの、あまり話したことのなかった人とも同じ網を囲むことになった。
 私たちのテーブルは私と友人、黒尾くんと夜久くん、あとはあまり話したことのない男子が何人か。うっかりほかの女子のグループとはぐれてしまったが、今更席を変わってとも言い出しづらい。すでにそれぞれのテーブルで楽しそうにしている。同じテーブルには友人もいるし、まあいいかと思い直した。
 みんながメニューを開いて注文するものを決めている間に、同じテーブルの人たちの上着をまとめて預かる。一纏めにしてハンガーに掛けに行こうと立ち上がると、テーブルからおお、という声が聞こえた。席を離れながらも耳は会話を追う。同じテーブルの男子が黒尾くんに絡む声が聞こえた。
「名字さん優しいなー」
「はー? 今更気付いても遅ェし、お前にやる名字さんはいませーん。他を当たってくださーい」
「おいおい、いきなり惚気んなよ」
「つーか上着かけるくらい女子にやらせねえで自分でやれよ。俺も普通に渡しちゃったけど」
「流れるように『コートちょうだい』って言われたから、まじで普通に渡しちゃったな」
 黒尾くんたちに背を向けたまま、顔がかあと赤くなるのを感じる。言われてみればたしかに出しゃばったことをしたかもしれない。特に何も考えずにした行動だっただけに、余計に恥ずかしかった。
 そのうえ、黒尾くんの言葉が胸にぐいぐい刺さってくる。私に直接かけられる甘い言葉も凄まじいが、私以外の人に聞かせるのろけを耳にしてしまうのは、また違った刺さり方をする。
「ありがとな、名字さん」
 上着を片付けてテーブルに戻ると、黒尾くんが言った。うん、と小さく返す。けれど先ほどの言葉が脳裏にちらついて離れず、私はこっそり友人の方に身を寄せた。友人はそんな私を見て苦笑したあと、小声でそっと私に耳打ちする。
「逃げてないで、堂々としてればいいじゃん。彼女なんだからどーんと構えてればいいんだよ」
「でも、まだ二人で会っても恥ずかしいのに……こんなにみんながいるところで話すのなんて、そんなの緊張するに決まってるよね?」
「普通でいいんだよ、普通で」
 普通、と言われても、果たして私はどんな風に黒尾くんと話していただろう。ついさっきまで出来ていたはずのことが、人前に出たことで急に分からなくなってしまった。頭を抱える私に、友人はさらに笑って言う。
「まあ名前ちゃんがそんなに難しく考えなくてもいいよ。どうせまた黒尾くんがうまいことやってくれるでしょ」
「そうかなぁ……いや、たしかにそれはそうなんだと思うんだけど……」
「適材適所ってことでね。名前ちゃんが無理に頑張って黒尾くんにフォローさせるより、いっそ最初から黒尾くんに丸投げした方が、黒尾くんだってやりやすいんじゃない?」
 はたして、友人の言った通りの展開になった。
 私たちがいるのが元々男子比率が高いテーブルだからか、基本的に話の主導権は男子にある。私はたまに話を振られる程度。積極的に肉焼き係をしていたことも幸いし、誰かから黒尾くんとの話を聞かれても、あくせく働く私に代わって黒尾くんがうまく対応してくれた。
 途中で一度、会話の間隙を見計らって黒尾くんに「ごめんね」と小声で謝ると、
「ま、任せておきなさいよ。名字さんこういうやつあしらうの慣れてなさそうだし」
 と返された。ごもっともすぎて返す言葉もない。
「黒尾くんは慣れてるの?」
「慣れてねえように見える?」
「……見えない」
「恋愛がらみでいじられるのはあんまされたことねえけど、まあどうにかなるだろ。俺も名字さんが困ってる顔は見たくないし」
「ありがたいけど、ちょっと申し訳ないかも」
「気にすんなって。名字さんに頼られたい俺の気持ちも汲んで」
 そんなふうに言われてしまうと、ついつい優しさに甘えてしまう。黒尾くんはきっと、人を甘やかすのがうまいのだろう。そう思いながら、肯いた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。宴もたけなわ、夜も七時半を過ぎた頃、打ち上げは解散となった。二次会でカラオケがあるらしいが、私はここで帰ることにする。じゃあね、と友人と黒尾くんたちに手を振ると、同じテーブルだった男子が黒尾くんのわき腹を小突いた。
「黒尾! 可愛い彼女がひとりで帰るって言ってんぞ! お前ちゃんと送ってやれよー」
「えっ」
 いや、大丈夫です。そう言う隙すらなく、
「お前に言われるまでもなく送りますーう」
 そう言って、黒尾くんが私の隣に並ぶ。
「いや、あの黒尾くん」
「行くぞ」
 黒尾くんにしては短い言葉で促され、ついつい私は肯いてしまった。気付いた時にはすでに黒尾くんは歩き出しており、慌てて私はその後を追う。背中で冷やかしを受け止めながら、とっぷりと暮れた浅春の道を小さく駆けた。

 私と黒尾くんとでは足の長さが違うから、黒尾くんが気を遣ってくれない限りどうあがいても歩幅が同じになることはない。それでも私を気遣ってか、黒尾くんは私がすぐに追いつける程度の速さで歩いてくれていた。
 黒尾くんに追いつくと、
「ちょっと一旦待って……!」
 息を弾ませ、私は言った。満腹の身体で急に小走りになったせいで、必要以上に息が上がっている。黒尾くんは足を止めて私を見下ろすと「悪い悪い、ちょっと休憩する?」と笑った。
「休憩はしなくてもいいんだけど、でも、本当に送ってもらわなくて平気だよ」
 呼吸を整えながら、私は答えた。
「うち近いし、ひとりでも帰れるから。黒尾くん、私の家の方まで来ると遠回りになっちゃうでしょう」
 すでに店からはずいぶん離れたので、クラスメイトたちの視線もない。みんなの手前黒尾くんに送ってもらう恰好にした方が黒尾くんの面子が立つかと思ったが、これ以上は無理をする必要もない。
 私がそう言うと、黒尾くんは少しだけむっとした顔で私を見下ろした。これはこれで、ちょっと珍しい顔だ、などと考えている場合ではない。気を遣ったつもりがむっとされてしまい、私は驚いて黒尾くんを見上げた。
「えーっと、黒尾くん……?」
「名字さんは俺と帰りたくないんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「だったら黙って送られといてよ。というか名字さんと一緒に帰りたい俺の気持ちを、ここは尊重してもらえないもんかね」
 拗ねたような目で見つめられる。私は思わず心臓をおさえた。
「そ、それはちょっと、黒尾くんずるくない……!? そんなこと言われたら、私絶対に嬉しくなっちゃって一緒に帰るしかなくなるのに」
「どっちも得してWin-Winなら言うこと無しだな」
「そういう問題かなー!」
「そうそう。はい、休憩おしまい。ちゃんと俺に送られて」
 黒尾くんの満足げな笑みが、月明りに照らされていた。これ以上何を言っても無駄だろう。胸のときめきをどうにか溜息に溶け込ませて吐き出す。それから黒尾くんのため少しだけ歩幅を大きくした一歩を踏み出した。

 静かな夜の住宅街を、黒尾くんとふたりゆっくり歩く。周囲に人影はなく、街燈と月で明るい夜道に、二人分の影が黒々と伸びていた。
 もう少し近づけば、黒尾くんの肩と私の肩が触れる距離。きっと今、隣に手を差し出せば、すぐに手と手がぶつかり重なることだろう。だが今の私にはまだ、そんなことをする勇気はない。だからわざと少しだけ距離を開けて、意識しないようひたすら夜道を歩いていく。
 友達よりはずっと近いけれど、まだまだ恋人同士としては遠い。このくらいの距離が、黒尾くんに近づける今の私の精一杯。
 けれどようやく、私にも黒尾くんの恋人となった実感と自覚が湧きつつあった。ほかの人から恋人扱いされたからかもしれない。黒尾くんの恋人として扱われ、黒尾くんからも恋人として紹介される。黒尾くんの彼女として、黒尾くんやほかの人に接してみる。
 慣れないことではあるけれど、この落ち着かなさすら今は愛しい。
 それもこれも、すべては黒尾くんのことが好きだから。黒尾くんを好きだから、黒尾くんを好きでいるために発生する煩わしさも、すべてが愛しく思えてしまう。
「黒尾くん」
 彼の名前を小さく呼ぶと、黒尾くんが少しだけ身を屈めて私を見た。身長の大きな黒尾くんと話していると、私は時々こどもみたいな気持ちになる。それもまた、愛しいという気持ちに通じていく。
「なに? 名字さん」
「……今日はありがとうね、その、色々と」
「いやいや、こちらこそ冷やかしに巻き込んで悪かったと思ってる」
「いえいえ」
 そんな遣り取りをしながら、私はまた黒尾くんを見上げた。
「黒尾くん」
「なに?」
「好きです」
「は、」
「告白のとき、黒尾くんは好きって言ってくれたけど、私は言ってなかったなぁと思って。それで一応、お伝えしておこうかと」
 そう思った次第だったのだが、いざ口にしてみるとこれが案外気恥ずかしかった。徐々に顔が熱くなってくる。今が夜で心底よかった。そうでなければ、真っ赤になった顔を黒尾くんに晒すはめになっていた。
 黒尾くんはひたすら口を閉ざしている。そのせいで、私が完全にひとりで滑ったような空気になっていた。
「あの、黒尾くん。何か言ってもらわないと、私がひとりで気まずいんだけど」
「……名字さん、俺が紳士でよかったな」
「紳士……?」
「本当にずるいのは名字さんの方なんじゃないかね」

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