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 この制服をきちんと着るのもこれで最後なのだ──そう実感したのは、教室で配られた造花のブローチを、曲がらないように気を付けながら制服の胸に留めているときだった。
 式典では正装が義務付けられているので、今日はカーディガンの着用もなし。肌寒さに身を縮こませながら、みんな同じ制服で体育館に向かうのを待っている。
 やがて見慣れぬスーツ姿に身を包んだ担任が、普段より気持ちばかり背筋を伸ばして教室に入ってきた。
「そろそろ行くぞ。廊下に名簿順で並んで移動しろー」
 担任の指示を受け、みんなぞろぞろと廊下に出る。移動のさなか、ちらりと視線だけで追った黒尾くんは、緊張した様子もなしに眠たげにあくびしていた。今日が高校生活最後の日だとは到底思えぬ通常営業ぶりだ。髪型だっていつもの寝ぐせヘアーと変わりない。
 廊下をとろとろ歩いていると、私より後ろに並んでいたはずの友人が、クラスメイトを追い越し私の隣にするりと滑りこんできた。顔いっぱいに好奇心を張り付けている友人は、卒業式の直前であることなど気にもしないで、堂々と私に話しかけてくる。
「バレンタインどうだった? 黒尾くんに告白したの? ねえ、どうだったの?」
 せっつくように問い詰められ、そういえばと思い出す。友人には黒尾くんにチョコを渡すということだけ伝え、肝心の首尾がどうであったかまったく報告していなかった。友人からしてみれば、さぞかし気が揉めたことだろう。
「名前ちゃん傷心かなと思って、一応休み中は聞くのを避けてたんだけど」
「お気遣いありがとうね。でも、別に傷心というわけではなかったよ」
 それどころか、かなり浮きたった気分でこの半月を過ごしたと思う。もちろん時々は不安になったりもしたけれど、大半の時間はそわそわうきうきしていた。
「それで、告白はしたの?」
「いやいや、告白なんてしてないよ。普通にチョコを渡しただけです」
「うそー! 絶対なんかあったと思ったのに」
 友人が大げさなまでに目を見開く。そのリアクションに、私は「そこまで?」と首を傾げた。
「だってあの日、名前ちゃんが先に教室出た後、黒尾くんすっごいそわそわしてたよ。あの黒尾くんがそわそわするってなかなかなくない?」
 思いがけずもたらされた、私が知る由もなかったその情報に、思わず胸がどきんと跳ねる。
 あの日、私がどきどきで押しつぶされてしまいそうだった時、黒尾くんも同じようにどきどきしてくれていたのだろうか。私の前に現れたときには、いつも通りクールで飄々とした黒尾くんだったはずだ。だがもしかしたら、私の見えない知らないところでどきどき、そわそわしながら私のことを考えてくれていたのだろうか。
 列を乱すな、と担任から小言が飛んできて、友人は慌てて本来の位置に戻る。しかし残された私の頭の中は、もはや卒業式どころではなくなっていた。私がひとりで抱えておくのには、その情報はあまりにも破壊力がありすぎた。

 ★

 嵐吹き荒れる私の心中とは裏腹に、卒業式は予行練習の通り淡々と終わった。
 中学までは卒業式で泣く子も多かったのに、高校生にもなるとそういう子もずいぶん少ない。大事な友人とは大学に進学してもきっと仲良くするだろうから、それほど寂しいこともない。
 それでも、まったく寂しさを覚えないといえば嘘になる。もしももう一度高校入学からやり直せると言われても、私はきっとまた音駒を選ぶだろう。そのくらい、音駒には愛着があった。
 公立ゆえに校舎がぼろぼろの音駒高校。家から近いというだけの理由で受験した学校。けれど思い返せば高校三年間、まあまずまず楽しかった。
「──卒業生退場」
 拍手に包まれながら、下級生たちの間を歩く。明日も、来年も、この下級生たちが音駒で高校生活を送ることができるのを、少しだけ羨ましく思いながら。

 ★

「名字さん、この後時間ある? この間の仕切り直ししたいんだけど」
 教室に戻る途中、黒尾くんからそう声を掛けられた。入場時と違い、退場後は三々五々にそれぞれの教室へと戻っていく。私もひとりでふらふらと教室に向っていたところだった。
 見上げた黒尾くんの顔は、心なしかいつもより少しだけ硬い。底知れない瞳はまっすぐ揺るぎなく、私をじっと見下ろしている。まるで絶対に逃がさぬよう追い詰めようとするような気迫だ。
「ええと、あの、はい。私は大丈夫です。いつでも」
「じゃ、この後。こっちは昼飯食ったら部活の集まりあるから、その前に」
 黒尾くんの言葉に私は大きく頷く。これでようやく、無闇に浮きたった半月が終わる。そう思うと、ときめきよりも開放感の方がわずかに勝った。
「うん、わかった。あ、でもみんなと写真撮ってからでもいい?」
「もちろん。俺とも写真撮ろうぜ」
「えっ、教室で?」
「最後に写真撮るくらい、別に誰も気にしねえだろ」
「そうかな。……そうかな?」
「じゃ、そういうわけで」
 約束だけ取り付けて、黒尾くんは何事もなかったかのように私のそばを離れる。私たちはそれぞれに、同じ教室へと戻っていった。

 教室で担任からの言葉をもらい、無事解散となった。黒尾くんのように部活に顔を出す人もいれば、私のようにさっさと家に帰る生徒もいる。とはいえさすがに卒業式の後なので、みんなすぐに帰ることはなく、写真を撮ったり文集にメッセージを書き残したりと忙しい。
 私もアルバムを手に受験の思い出話や卒業後のことを友人たちと話していると、何人かの女子が黒尾くんや夜久くんのところに寄っていくのが目に入った。凝視していたわけではなくても、ついついそちらに視線がいってしまう。
「うちのクラスのバレー部はモテますねえ」
 友人が揶揄う声音で私に言った。「そうだね」とできるだけそっけなく返してみたものの、声にぎこちなさがはっきり滲み、却って友人に笑われる。
「無理に気にならないふりしなくたっていいのに」
「別に無理しているつもりはないんだけど……」
「まあ、さすがに黒尾くんに『この後時間ある?』って約束取り付けられてるんだから、ここで狼狽えるようなこともないと思うけどね。どう考えても名前ちゃん本命じゃん」
「え!? ちょっと、なんでその話知ってるの!」
 思いがけず秘密を握られていたことを知り、私は思わず悲鳴をあげる。当の友人はにやにやと悪い笑顔を浮かべていた。どう見ても私の反応を面白がっている。
「なんでと言われても、さっき黒尾くんと名前ちゃんが話してるのが聞こえてたからねぇ。多分クラスの人で聞こえてた人、何人かいると思うよ。今度の打ち上げのとき覚悟した方が良いんじゃない?」
 衝撃的な真相を知り、ぐらりと軽いめまいを覚えた。ここまで三年間、目立たず穏便に高校生活を過ごしてきたはずだったのに、どうして最後の最後で注目を集めるようなことになってしまったのだろう。
「まあまあ、そんな頭抱えなくても大丈夫だって。注目浴びるのだって、打ち上げの一日だけのことだと思えば平気だよ。どうせもう会わない人の方が多いんだし」
 励ましているのか諦めを促しているのか、友人の言葉は何とも軽い。私はじとりと友人を睨んだ。
「それはそうだけど、他人事だと思って……」
「ていうか多分、黒尾くんわざと聞こえるボリュームで言ったんだと思うよ。あっちも多少牽制とかしておきたかったんじゃない? さっきから黒尾くん、結構呼び出されたり捕まったりしてるみたいだし、そうすると名前ちゃんが黒尾くんを待ってる間に誰かに呼び出されたりとか、そういうこともあり得なくはないでしょ?」
 牽制。そう言われればまあ悪い気分ではないけれど、やっぱりそんないいものでもないと思う。そもそも私は黒尾くんがほかの男子を牽制しなければならないほどの女子ではない。これは謙遜でも何でもなく、事実に即した自己評価だった。
 そんな話をしつつ、しばし教室内の生徒の動向を見守っていたら、ようやく黒尾くんの周りから人がいなくなった。黒尾くんとぱちり、と目と目が合う。それが教室を出ようという合図なのだと、私もすぐに理解した。
 黒尾くんが荷物を持って教室を出て行く。ばくばくと鳴り始めた心臓をなだめるように、一度ぎゅっと目を瞑ってから、私も手早くアルバムを鞄に押し込んだ。
「……私、そろそろ行くね」
「はーい。頑張ってね。報告待ってるよ」
 友人に見送られ、私もいそいそと教室を出る。先に教室を出た黒尾くんのあとを、少し離れてついていった。待ち合わせの場所は特に決めていないので、黒尾くんが行く方へついていくしかない。
 黒尾くんは昇降口を出ると、振り返ることもなく校舎裏へと歩いていく。廊下には教室から溢れた卒業生がたむろしており、彼らにぶつからないよう気を付けながら、私も急いでその後を追う。幸い黒尾くんはほかの生徒よりも頭一つ抜き出ているので、少しくらい離れたところでその姿を見失うことはない。

 そうしてやっと黒尾くんに追いついたのは、校舎裏まで到着してからだった。すでに生徒たちの喧噪は遠い。校舎裏はしんと静まり返っており、内緒話をするのにうってつけだった。
 薄暗く湿った地面。日陰になっているせいで、先ほどまでより一段と冷え込む気がする。指先が震えるのはそのためだろうか。そんなことを思いながら、コートの袖で手のひらをすっぽりしまい込む。
 黒尾くんは、いつになく真面目な顔をして私を待っていた。改めて黒尾くんの正面に立つ。まるでこれから決闘でもするかのような空気が流れていた。
「待たせて悪い、断るに断れなくて」
「ううん、大丈夫。友達が付き合ってくれてたし、楽しく待ってたよ」
 そう言いながら私はさりげなく、かつ素早く黒尾くんのブレザーのボタンを確認する。よかった、ボタンは全部残っていた。秘かにほっと胸を撫でおろす。
 視線を上げると、黒尾くんと目が合った。私の考えていることが分かったのか、黒尾くんがかすかに口許を歪めて笑った。そして、
「えーと、まずはあれね。この間は言い逃げみたいにして悪かった。しかも俺、名字さんのことめちゃくちゃ置き去りにしたよな。後から気付いたんだけど」
「ああ、うん。そうだね、ちょっとびっくりした。でも大丈夫だよ」
 置き去りにされたことにはたしかに驚いたが、しかしあの場であれ以上黒尾くんと一緒にいたところで、ただただお互いに気まずくなっただけだろう。今にして思えばありがたかったと思う
「いや本当まじで。スミマセンデシタ。それと、もらったブラウニー、めっちゃうまかった。名字さん料理うまいんだなって思いました」
「褒めてくれてありがとうございます。頑張ってよかったです」
 世間話のような、当たり障りないラリーを返し、私は黒尾くんの言葉を待つ。黒尾くんは大きく息を吸い込むろ、それからゆっくりと、同じように大きく息を吐きだした。
 きた──そう思った。
「それでなんだけど」
 黒尾くんの声の調子が、かすかに変わった。
「本題な。えー、まあ、お互い分かってると思うっつーか、寧ろ名字さんに完全に先越されそうになったのを、待ったとか言ってこの間は止めたわけなんですが」
 黒尾くんが再び大きな大きな深呼吸をした。時間が止まってしまったのかと思うくらいに長い一瞬──その一瞬だけ視線を宙に泳がせ、それから黒尾くんは真っすぐに私を見つめて言った。

「名字さん、俺と付き合ってください。」

 遠くからざわめきが聞こえる。誰かが近くを歩いているのかもしれない。けれど今この場所──日の光の届かない校舎裏には、私と黒尾くんしかいない。三月の東京はまだまだ冬でしょってくらい肌寒くて、なのに黒尾くんの顔は真っ赤で、多分私も耳まで真っ赤だった。そういえばあんまり黒尾くんが赤くなっているところなんて見たことないなぁなんてことを、頭の片隅でぼんやりと思う。
 黒尾くんへの答えは、とっくに心に決めていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
 高校三年、冬のおわり。
 私たちは今日、音駒高校を卒業した。

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