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 卒業式の予行練習はつつが無く進行した。毎年決まりきったことをやっているだけなので、進行のうえで特に確認すべきこともない。見ると先生がたも退屈そうに欠伸をかみ殺している。
 冷え切った体育館の中、周りに合わせて立ったり座ったりを繰り返しながら、私はぼんやり黒尾くんについて思いを馳せる。
 いざバレンタインのチョコを渡すとして、この後一体、どのタイミングで話しかけたらいいのだろう。今朝の黒尾くんの様子から察するに、もしかすると黒尾くんはバレンタイン宙は極力、女子につかまらないようにしているのかもしれない。それでもまったく女子を避けることはできないから、直接手渡された分だけはきちんと受け取っているのだろう。となると、事前に時間をくださいと言っておかなければ、黒尾くんを捕まえることすら至難の業のはずだ。
 黒尾くんにチョコを渡したい人たちは、みなこの予行練習の後か下校時を狙うに違いない。となれば、私ももたついてはいられない。体育館を出たらすぐにでも、黒尾くん連絡しよう。胸のうちで、ひっそり決心する。
 今日は予行練習のあとは、一旦教室に戻ったのち自由に下校が許されている。つまり勝負は一瞬だ。

 そんなことばかり考えていたからか、はたと気がついたときにはもう予行練習は終わっていた。ぞろぞろと体育館を出ていく生徒たちの波に体を任せながら、私はすぐさま制服のポケットに入れていた携帯を取り出す。
 こういう時、何と送ればいいのだろう。黒尾くんならば最低限の文面でも事情を察してくれそうだが、そこまで黒尾くんに頼り切ってもいられない。
 ああでもないこうでもないと悩んだすえ、
 ”あとで渡したいものがあるから、五分くらい時間ください” とだけ送った。
 この表現ならばけして嘘ではないし、多少用件をぼかしつつも、何となく思惑が透けて見えるような微妙な塩梅だ。
 どきどきしながら歩いていると、すぐに黒尾くんからの返信が返ってくる。意を決してメッセージを確認した。
 ”名字さん昼で帰る?” ”俺も今日昼で帰るから、帰りでいい?”
 これはつまり、一緒に帰ろうということでいいのだろうか。思っていた以上にしっかり時間をとってもらえることに、嬉しいような緊張するような複雑な気分になる。
 ”ありがとう。それで大丈夫”
 ”じゃあ後で”
 そこまで読み終えたところで、私は息苦しさにむせ込んだ。知らず識らずのうちに、緊張で息を止めていたらしい。ぜえぜえと呼吸を整える私に、すれ違う生徒たちが怪訝な視線を向ける。
 それでも、第一関門は突破した。約束を取り付けるだけでこんなにも緊張していて、いざ渡すとき、果たして平静を保つことができるのだろうか。己のメンタルの弱さを実感し、果てしない不安と疲労感に襲われた。

 ★

 這う這うの体で教室に戻ると、黒尾くんは一足先に男子グループと教室に戻ってきていた。夜久くんを含め、何人かで固まって話している。先ほどのメッセージの遣り取りがあったから、何か意味ありげな視線などもらってしまったらと身構えていたが、黒尾くんはちらりともこちらに視線を寄越さない。
 教室では言葉を交わさないと約束しているわけではないが、どうやら黒尾くんは徹底してそうするつもりらしい。その方が私としても助かるので、特にもやもやと思い悩むことはない。
 黒尾くんは身長も大きいし、人気もある。声が大きく目立つことはなくても、自然と人目を引いてしまう。全国大会があった冬休み以降は、さらに注目されている。
 そんな黒尾くんがいきなり、クラスでも目立たず仲良くもなかった私と話などすれば。どうなるかなど目に見えている。それだけならまだましで、うっかりすると変に囃し立てられたりする可能性すらある。
 もしかしたら黒尾くんは黒尾くんなりに、私のことを気遣い配慮してくれていたのだろうか。私にわざわざ何か言うこともせず、何ともスマートに、私が不要な注目に晒されないように。夜久くんへの対応を見ても、私と仲良くなったことを誰にも知られたくないというわけではないはずだ。
「名前ちゃん、チョコ黒尾くんに渡せそう?」
 友人が心配してか楽しんでか、後ろの席から聞いてくる。
「多分、なんとか」
 私は弱気な返事をした。
「そっか、頑張って。さっき食べたブラウニー美味しかったし、きっと黒尾くんも喜んでくれると思うよ」
「ありがとうね。うん、頑張る」
 実のところすでに胃が痛み始めているのだが、メッセージを送ってしまった以上はやるしかない。もはや退路は絶たれている。
 そんな私の心境を知ってか知らずか、友人はうっとりした声で言う。
「でももしこれで本当に黒尾くんと付き合うことになったら、名前ちゃんすごいよね」
「そうかな、でもまだどうなるか分かんないよ」
「黒尾くんずっと部活一筋だったから、告白したけどフラれちゃった女子もいっぱいいるんだよ。そこを名前ちゃんみたいなのが射止めたら、みんなびっくりするんじゃないの」
「私みたいなのってどういう意味?」
「完全に伏兵ってことだよ」
「伏兵……」
 間違ってはいないだろうけれど、なんとも不穏な響きだった。伏兵。たしかに長年黒尾くんに恋焦がれている女子からしてみれば、私など脅威でもなんでもない。そんなぽっと出の私が黒尾くんを掻っ攫うかもしれないなど、想像もしていないだろう。
 もちろんそれはあくまでも、私が黒尾くんに無事チョコを渡し、そして恋人になれたらの話だ。そんな事態はまったく想像もつかないが、今すぐ付き合うという話ではなくてもいい。少しくらいは黒尾くんの印象に残れたら上々だ。
「だけどもし、私もそのフラれた女子の中に名を連ねることになったら、そのときは慰めてくれる?」
 私が弱気なことを尋ねると、友人はぐっと私の手を握る。
「そうなったら私の彼氏の友達紹介してもらおうね。新たな恋で失恋の傷を癒そう」
 まだチョコを渡してもいないのに、すでに万に九百くらいの場合を想定して、私は勝手に落ち込んだ。

 ★

 LHRも終わり、あとは自由に解散となった。
 ”校門出たところで待ってるね”
 黒尾くんにそう連絡し、私は先に教室を出る。そうしてこっそり連絡をとっていると、黒尾くんとの間に秘密があるようで何やら胸がときめいてしまう。
 この時間に下校するのは私たち三年生だけで、下級生には当然ながら午後も授業がある。なので校門前も人通りは疎らだった。これならば校門前で黒尾くんを待っていても、あまり注目されずに済むだろう。自転車を校門前の邪魔にならないところに停め、そのそばに立って黒尾くんを待つ。
 自転車のかごにはブラウニーの入った紙袋。吹き付ける風は冷たくて、マフラーの隙間から入り込んでくる空気がじわじわと首を冷やしていく。三月が近づいているとは思えない気温だ。コートのポケットに突っ込んだ指先は、さっきからちっとも温まらない。
 それでも黒尾くんを待っているこの時間は、不思議なくらいに幸せだった。今ならどれだけだって待てる。このやわらかな時間がずっと続けばいいのに。
 そんなことを考えながらローファーの爪先をぼんやり見つめていたら、不意につんと後ろから頭を押された。振り返り、顔をあげる。にやにや笑っている黒尾くんがそこにいた。
「悪い、待った?」
「ううん、そんなに。ぼーっとしてた」
 教室ではあれほどどきどきしていたのに、いざ黒尾くんを目の前にすると、意外なくらいに落ち着いていられた。黒尾くんの半開きになったスクールバッグから、ちらりときらきら光るビニールが見える。きっとここまで来る間に、誰かからチョコをもらったのだろう。私の淡い黄色とは違う、きらきらしたつるつるの袋。私とは違う誰かの思いが、そこに詰まっている。
「途中まで帰り道同じだし、一緒に帰ろうぜ」
「……はい」
「はいって」
 黒尾くんがもの言いたげに笑っている。その瞳を見て、気付く。黒尾くんはとっくに私の用件を察していた。
 そうとなれば、焦らしていても仕方がない。歩き始める前に、私は自転車のかごに入った紙袋から、さらに小さな袋を取り出した。それを黒尾くんに両手で差し出す。黒尾くんもまた、両手で袋を受け取った。卒業証書の授与みたいだ、と頭の片隅で考える。
「黒尾くんならもう沢山もらってると思うけど……、私からも、バレンタインです。つまらないものではありますが、よかったらもらってください」
「名字さんからもらえるって、もしかしてめっちゃレアじゃない?」
「レアかどうかは分かんないけど、家族以外だと唯一の男子かな」
「まじか、名字さんの携帯の登録連絡先に続き?」
「連絡先なら委員長も登録してあるってば」
「じゃあ今度こそ正真正銘、俺だけのやつだな。いや、本当にありがとうございます」
 そう言って、黒尾くんは笑った。にやり笑いでもなく、意地悪な笑い方でもない。胸のうちからこぼれ出るような、そんな素直な笑い方だった。
 ふと見ると、黒尾くんの目元がかすかに赤らんでいる。寒さのせいか、それとも。なんだか見てはいけないものを見たような気がして、私は慌てて視線をそらした。自転車に手をかけ、ゆっくりと歩き出す。
「ふふ、なんか恥ずかしいね」
 隣を歩く黒尾くんは、渡した袋を上から下から眺めては、感嘆の声をあげている。そのリアクションを見ているうち、今更顔が熱くなってきた。だんだんと『黒尾くんにチョコを渡した』という実感がわいてきたからだろうか。恥ずかしいが、でも、やっぱり嬉しい。

 ともあれ、今日のミッションは無事に完遂できたということだ。電車通学の黒尾くんに合わせ、そのままのんびりした歩調で駅に向かう。私にとっては遠回りな下校路だが、今は少しでも黒尾くんと一緒にいたかった。
 ようやくチョコの袋を鞄にしまった黒尾くんは、やはりのんびりペースで私の隣を歩いている。彼の歩幅ならばただ私の歩調に合わせるだけでも億劫だろうに、そのうえ何も言わずにゆっくり歩いてくれることが嬉しくて、どうしたって胸がむずがゆくなる。黒尾くんに他意はないのだとしても、嬉しいものは嬉しいのだから仕方ない。
「正直言うと、名字さんからは多分もらえるだろうなーとは思ってたけど、いざもらってみると思ってたよりだいぶ嬉しいな」
「本当? そう言ってもらえると、頑張って作ってよかったな」
「そりゃほかの女子からもらったのも男としては嬉しいけど、やっぱ名字さんからのは格別なんでね」
「……そういうものかな」
「そういうものです」
 黒尾くんの相槌にそっか、と言葉を返しつつ、しかし心中はなんだかもやもやしたものに覆われる。
 本当はほかの女の子からなんてもらってほしくない──そんな気持ちが当然のようにわき上がる。黒尾くんのひと言で、嫌な気持ちがずるずる底から顔を出す。
 だけどそれを口に出さないだけの分別くらいは、私にもちゃんと残っていた。それは恋人にだけ許された言葉であって、友達が言っていい言葉じゃない。
 ちゃんと分かって、心得ている。特別、格別という言葉をもらえただけでも、ここは喜ぶべきところだ。
 なのに心の中がもやもやして、嫌な言葉が出てしまいそうになるのは何故だろう。

「私にだって、それは特別な一個だよ」

 だから、口から出てしまった言葉の意味を自分自身が理解するまでに、私はほんの少しの時間を要した。それは本当にただ、心のふちから溢れてしまっただけの言葉。自分の意図したものとは一線を画す、無意識にこぼれただけのもの。
 それだけに、隠しようのない本音だった。
「えっ、あ、なに言ってるんだろう!?」
 自分の無意識の言葉に狼狽して、私はあわあわと口を開く。握ったハンドルがぐらりと揺れかけ、慌てて自転車を引き寄せる。黒尾くんからの刺すような視線に焦がされて、私の頭は真っ白になる。
「いや、本当に……本当に、何を言ってるんだろうね!? ぼんやりしすぎて、なんか変なこと口走ったかも、」
 しれなくて、と。そう続けるつもりだったのに、続く言葉は声にならずに消えていく。
 歩き続けていた足を止めた。
 黒尾くんの大きな手が、ハンドルを握る私の手首を、すがるようにしっかり捕まえていた。
「く、黒尾くん、」
「それって名字さんも俺のこと特別だと思ってる、ってことでいい?」
 呆然とする私を見下ろし、黒尾くんは問い詰めるように言葉を投げた。肯くことすら忘れ、私は黒尾くんをじっと見上げる。その間隙を埋めるように、黒尾くんは次の一手を打つ。
「友達として特別とか、そんな誤魔化しは無しだぞ」
「あ、その、だから特別っていうのは、えっと」
 言葉が上手く繋がらず、息切れするように言葉を紡ぐ。
 黒尾くんの言うとおりだった。私の言う『特別』は『すき』を言い換えた言葉でしかない。好きなんてとてもではないけど言えないから。だから特別と言い換えて、逃げ腰の台詞で気を引いた。無意識にこぼれた言葉でも、本心であることには違いない。
 そんなことは、声音で全部ばれている。
 言い訳がきかない。笑って誤魔化すなんて、もっとできない。
 けれど。
「あ、あの、だから、それはつまり、ようするに」
 しどろもどろになってしまった私に、「待った」と言ったのは黒尾くんだった。ぱっと私の手首から手を離し、
「いきなり言いにくいこと言わせようとして悪かった」
 黒尾くんはいきおいよく頭を下げた。唐突に謝られ、私は頭をがんと殴られたような気分になる。今のこの流れで謝るというのは、つまり、『特別』という言葉を受け取ることができないと、そういうことではないのだろうか。
 黒尾くんは、私のことを『特別な友達』とは思っていても『特別』とは思っていない──この謝罪はつまり、そういうことではないか。
 だが私の絶望的な気分をよそに、黒尾くんはまっすぐ私を見つめると、さっぱりとした顔で言った。
「そこから先はちゃんと俺から言う。大事なことは、俺の方から言わせてほしい」
「大事なこと……」
「けど、言うにしても多分今じゃねえな。こんな勢いだけで、ぽかんとしてる名字さんに言っていいことでもない」
「え、あの、黒尾くん……。私、今、ふられたのではなく……?」
「それだけはない。絶対にない」
 呆然とする私にきっぱりと断言し、黒尾くんは思案するように口許に手を添えた。
「だからこの続きはホワイトデー……だとちょっと遅えな。そうだなー、あ、卒業式か。卒業式があるな。卒業式の日に俺から言わせてくれない?」
「は、はあ」
「だからそれまで、俺以外の誰かを特別にすんのはなし。傷心を癒す必要とかねえから、友達の彼氏に男紹介してもらうのもなし。名字さんの言葉は、そのときまでとっといて」
「えっ、え!?」
 それだけ告げると、黒尾くんはじゃ! と逃げるように走っていく。まったく私が気付かぬうちに、いつの間にか駅に着いていた。
 走り去る黒尾くんの後ろ姿を見つめながら、私は未だ混乱の中にいた。ひとまず自分がふられたわけではないこと、そして卒業式の日に黒尾くんが私に「続き」を話してくれることだけを理解し──そしてようやく、黒尾くんの言葉の意味を理解した頃。私はひとり声もなく悲鳴を上げると、たまらずその場にうずくまった。

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