09

「──と、言ってもねぇ……」

 久し振りの学校から帰宅した後、私はソファに転がり携帯とにらめっこする。
 せっかくのバレンタイン。黒尾くんに何か渡したいということだけ決まったものの、肝心の何を渡すかが、未だ決まっていなかった。
 付き合っているわけでもないのに、手作りで凝ったものを渡すのは、さすがにちょっと精神的に重たいような気がする。というかそもそも、黒尾くんは手作りのお菓子に抵抗とかないのだろうか。
「…………」
 こればかりは本人に聞いてみないことには、いいとも悪いとも分からない。だからといって、直球で尋ねるのも憚られた。それでは「私はあなたにバレンタインのチョコを贈りたいのですが」と言っているも同然だ。
 しばらく悩んだのち、
 ”黒尾くんって、よその家のおにぎりとか食べられる派?”
 と黒尾くんにメッセージを送る。すると待つほどもなく、黒尾くんから返信が来た。
 ”普通にありがたく食べるけど、急にどうした?”
 ”いや、テレビ見てたらそういう話してたから、黒尾くんはどうかなって気になって”
 ”その言い訳は苦しくない?笑”
 やっぱり苦しかっただろうか。いくら黒尾くんとのメッセージの遣り取りが常態化しているとはいえ、さすがにこれは脈絡がなさ過ぎたかもしれない。黒尾くんは勘がいいし、バレンタイン前にこんなことを聞けば私の思惑は黒尾くんにばれていてもおかしくない。
 ”ま、いいけどね” ”買ったのでも手作りでも、俺はもらったものは何でもありがたくいただきますよ”
 追い打ちをかけるように送られてきた黒尾くんからのメッセージは、どう読んでみても私の思惑を読み切っているようとしか思えない。自分から質問したはいいものの、私はどう返答していいものか分からず、ひとまずよく分からないスタンプを送って誤魔化した。黒尾くんが真に誤魔化されてくれたかは不明だ。
 ともあれ、これで手作りのチョコを黒尾くんに渡すことだけは決定した。となると、次に考えるべきは何を作るかどうかだ。
 何が好きか、何をもらったら嬉しいこのか。一番手っ取り早いのは、直接かつそれとなく黒尾くんに聞くことだ。けれどそこまでは、さすがにメッセージでは聞きづらい。
 いっそ今日、学校で聞いてしまえばよかったかもしれない。こういうことは案外、会話の中でしれっと聞いてしまった方が、その場のノリで聞きやすかったりする。
 と、そこまで考えて、そもそも私と黒尾くんは教室内で話をする間柄ではないことに思い至る。夜久くんに不審がられているだけでも居た堪れないのに、これ以上クラスで黒尾くんと仲良くして、卒業前に余計な注目を浴びたくはなかった。
 夜久くんの今日の訝るような視線を思い出す。黒尾くんに比べれば、夜久くんとの方がまだしも私と面識がある。夜久くんとも事務的な会話しかしたことがないが、ずいぶん前に隣の席になったことで、挨拶ついでの世間話くらいは交わしている。
 去年も夜久くん、黒尾くんとは同じクラスだった。当時は同じクラスというだけで特に縁もなかったが、そんな私でもふたりが大変モテるということくらいは、同じクラスの縁で知っていた。というより、うちのクラスでモテる男子といえば、その二人くらいのものだったのだ。
 昨年のバレンタインのこと。ほかの男子たちが大量配布の義理チョコばかりをもらう中、黒尾くんと夜久くんだけは、明らかに特別製のチョコレートをいくつももらっていた。私が黒尾くんを『モテる人』とはっきり認識したのは、多分そのときからだろう。黒尾くんも夜久くんも、すべてのチョコをにこにこ笑顔で受け取っていた。

 黒尾くんに今も去年も彼女がいない以上、チョコに込められた女子たちの思いに彼は応えていないのだと思う。けれど黒尾くんにチョコを渡した女子の多くは、たしかに本命チョコのつもりで渡していたのだろう。そのことを考えると、何ともいえない気分になってくる。
 「もらったものは何でもありがたくいただきますよ」と黒尾くんは言う。実際すべてのチョコを受け取っているのかもしれないけれど、バレンタインに乗じた愛の告白には、黒尾くんもうんざりしているかもしれない。私は愛の告白までするつもりはないのだが、それでもやはり考えてしまう。
 懸念はほかにもある。黒尾くんがそれほどたくさんチョコを受け取っているのなら、甘いものにも飽きてしまうのかもしれない。だとすると、私まで黒尾くんに甘いものを渡すのは避けた方がいいのだろうか。ほかの女子との差別化を図った方がいいのだろうか。そこまでこちらが考慮するのは行きすぎなのだろうか。考え始めるときりがなく、懸念は無限にわいてくる。
「いや、でも義理チョコのていで渡すわけだし……」
 下心なんてありませんよ、という顔をして、しれっと、それとなく渡すのだ。ならば変に奇をてらうのはやめた方がいいかもしれない。裏をかこうとしすぎるのはよくない。そういう策を練るような真似に、私はまったく向いていない。
 黒尾くんとのトーク画面を見るともなく眺め、ひとつ大きく溜息を吐く。
 今の私と黒尾くんは、そこそこに仲のいい友人同士だと思う。だから義理チョコを渡すことは、別におかしなことではない。きっと違和感を持たれることなく、すんなり受け取ってもらえることだろう。それこそ去年黒尾くんにチョコを渡した、たくさんの女の子たちと同じように。
 だけど、本当にそれでいいのだろうか。私のチョコはたくさんの義理チョコの中のひとつ。私はほかの女の子の中のひとり。黒尾くんにとっての、沢山のうちの、ひとり。
 現実はその通りだとしても、納得できない自分がいる。先日の黒尾くんとのデートを経て、もはや私の心は明白にひとつの答えを出していた。
 親しくしている女子、一緒にデートスポットに出掛ける程度に親しい女子。黒尾くんにとっての私。
 黒尾くんは、誰に対しても思わせぶりな態度をとる人ではない。しばらく黒尾くんと親しくし、教室での振る舞いを観察したことで、黒尾くんが軽い人でないことはよく分かった。もちろん私が知らないところで遊んでいるのかもしれないが、少なくとも私の見えるところでは、黒尾くんはけして思わせぶりで軽い男の子ではない。
 黒尾くんにとっての自分が、ほかの女子と同じじゃないと思いたい。そのことをたしかめたい。黒尾くんにとってのひとりの特別な女子として、きちんと黒尾くんが私の本命であることを伝えたい。
 つれづれ考えているうちに、胸がぎゅっと切なくなった。もやもやとふわふわの間にあるこの感覚が、一体どういう名前の感情なのか、私はもう気付いている。

 次の卒業式予行練習は二月十五日。その日は私も登校する。バレンタインは一日過ぎてしまうが、そのくらいならば誤差の範囲内だろう。用事もないのに十四日当日にわざわざ呼び出して渡すほどの勇気はない。
 黒尾くんは私からチョコをもらえると思っているだろうか。もらえたらいいのにと、思ってくれているだろうか。
 黒尾くんが十五日まで、少しでもどきどきしながら待っていてくれたら嬉しい。そんなことを思い、私はお菓子作りのレシピサイトを検索し始めた。

 ★

 悩んでいる日々ほど早く過ぎ去るものらしい。そうこうしているうちに、決戦の日バレンタインデーを一日過ぎて、私にとっての決戦日当日がやってきた。
 ここ三日ほど、私は自由登校の暇に飽かせて毎日ブラウニーばかり焼いていた。図書館で借りてきた大量のレシピ本やインターネットのレシピを参考にして、レシピも独学で少しずつ変えてみたものを使っている。自分が案外凝り性なのだということを、黒尾くんに恋してはじめて知った。
 練習のため大量につくったブラウニーは自分だけでは食べきれず、家族用のバレンタインチョコとして再利用した。それに加え、友人用と黒尾くん用。友人用は小さく切って、大量にタッパーに詰め込んだ。
 デパートのバレンタイン特設コーナーで買ってきたラッピングは、可愛すぎて引かれないように淡い黄色のもの。ピンクのものと悩んだが、さすがにピンクは「本命です!」という言外の主張が強すぎる気がして、日和ってしまった。
 家を出る時、お母さんから「頑張って渡すんだよ」と張り切った声をかけられた。連日キッチンにこもっては家中に甘い匂いを充満させていたせいで、きっと本命チョコを用意していたこともバレているはずだ。にこにこしながら送り出されてしまい、朝からたいへん恥ずかしい。
 スクールバッグとは別に大量のブラウニーの袋が入ったかばんを持って、どきどきしながら高校へ向かった。

 バレンタイン当日が自由登校日だったためか、どのクラスも今日がバレンタイン当日のようにそわそわと浮き立った空気で満ちていた。特に三年生は、時期的にも滅多に学校に顔を出さない生徒もいる。渡したい相手がいる女子はみんな必死だ。下級生がちらちらと、廊下から三年の教室の中をうかがっていたりもする。
 いつもより少し早めに家を出たからか、今日は登校中に黒尾くんと一緒になることはなかった。がっかりしたようなほっとしたような、何とも言えない複雑な気分になる。朝一番にチョコを渡してしまえばあとは気楽に過ごせるだろうが、その分ずっと黒尾くんのリアクションが気になってしまう。朝一番で渡すほどの心の準備もできていない。
 自分の席について予鈴が鳴るのを待ちながらも、視線はついつい教室の入口にばかり向いてしまう。黒尾くんはいつ登校してくるだろう。もしかして、もう何個かはチョコを受け取っているかもしれない。
「名前ちゃん、今日はずいぶんそわそわしてるねぇ」
 茶化すような友人の言葉に、余計にどきどきが募ってきた。当の友人はといえば、昨日のバレンタイン当日にすでに彼氏にチョコを渡しているので、今日持参しているのは義理チョコだけらしい。今は朝一で私があげたブラウニーを頬張っている。
 私たちだけではない。持ち寄った手作りおやつを配るため、さっきからクラスの女子たちがひっきりなしに、教室内を行き来していた。その子たちにお返しを渡しながら、私は空っぽのままの黒尾くんの席を見つめる。もうすぐ予鈴が鳴ってしまう。もしかしたら黒尾くんは、今日はお休みなのかもしれない。
 そんなことを考えながらぼんやりしていたまさにその時、予鈴が鳴るのとほとんど同時に、黒尾くんが教室に滑り込んできた。遅刻すれすれではあるが、額には汗ひとつかいていない。
 担任はまだ来ていない。黒尾くんが自分の席につくため、私の席の後ろを通った。
「おはよ。今日ギリギリだね」
 緊張を押し殺し、私は黒尾くんに話しかける。黒尾くんは足を止めると、私の机の上に並ぶ、先程まで交換会が行われていたおやつの山を指さし「それ」と言った。
「今日バレンタインの振替みたいになってるだろ。普段からギリギリ登校の俺がバレンタインだけ早く来たら、俺めっちゃ気合い入ってるやつみたいで恥ずかしくない?」
「ああ、なるほどね。そういう配慮もあるんだ」
「まあね。それに──」
 黒尾くんがさらに何か言いかけたところで、遅れてやってきた担任が扉を開けて入ってきた。続きを言うべきか悩んだような素振りをして、けれど結局「後で」とだけ残し、黒尾くんは自分の席に向かってしまう。
 黒尾くんは何を言おうとしたのだろう。「それに」、何なのか。「後で」、一体何があるのか。
 黒尾くんの些細な言葉を色々深読みしてしまい、一人でどうしようもなく恥ずかしくなる。たまらず私は顔を手で覆い、ばたんと机に突っ伏した。未だ今日のミッションを何一つ果たしていないのに、すでに恥ずかしくて黒尾くんの方をまともに見られない。
 上半身を机に突っ伏したまま、顔だけ横に向け溜息を吐く。ふと見ると、机の横に提げてある紙袋の中身が目に入った。淡い黄色のラッピングに包まれたそれが、渡されるときを今か今かと待っているような気がした。

prev - index - next

- ナノ -