beg

 二週間以上前、本来その日は休みであったはずの鉢屋が急遽、仕え先の城に召集された。それきり、なかなか戻らない。
 一度城からの文だけが届いた。しかしその文すら、届いてからもう一週間以上は経っている。その一度きりの文以来、鉢屋からの音沙汰はぱったりと途絶えていた。
 これまで、鉢屋が三日以上続けて家を空けたことはない。また、二日帰らないときには、必ず何らかの方法で帰れない旨を私に伝えてきた。そのことを考えただけでも、この二週間以上の不在は異常事態といえるだろう。
 だからといって、ばたばたするにはまだ早いような気もする。そんなどっちつかずの心持ちを抱いたままで、結局日々やきもきしながら鉢屋の帰りを待っている。
 ひとりきりの時間が長いと、どうしたっていらないことを考えてしまう。
 かつては自らもくノ一の教育を受けた身であるから、私も忍びの仕事に危険がつきものであることは重々承知しているつもりだ。いくらこの国が情勢的に安定しているといったって、国の暗を担う忍びがまったくの安全のなか、安穏と生きていくことなどありえない。
 鉢屋にしても、週のうちの半分以上を城に詰め、日々鍛錬を欠かさないのは、常に他国の侵略を警戒しているからにほかならない。また侵略行為と殺戮はつねに表裏一体であり、忍びである鉢屋の場合、殺す側にも殺される側にも回る可能性を、ふつう以上に重く抱えている。
 こんなふうに音沙汰なく長期間家を空けるとなると、何かあったのではないかと勘繰ってしまうのは、どうしても仕方がないことだった。
 ──そうはいっても、今のところ城下に不穏の気配はない。
 くだんの辻斬り騒動で町のひとびとの表情は暗くかたい。しかし逆に言えば、人々の心中にかかる影は、辻斬りの恐怖によってもたらされているものでしかない。辻斬りよりももっと重く暗い、戦にまつわる血生臭いにおいは、今のところ城下にはまるで感じられない。
 戦闘技能においてはすっかり素人に毛が生えた程度にまで落ちた私だが、情報収集や時勢を読み取る嗅覚のようなものは未だ失われてはいない。それらを総動員した結果、そこまでのきな臭さは感じられなかった。
 ──となると、城の中で何か起きたか、何らかの不測の事態で動けないか。
 考えられる可能性を順番に思考してゆくが、それでもやはり、あの用意周到な鉢屋が何の音沙汰もなく帰らないと言うのは、尋常ならざることが起きているとしか思えなかった。
 一度だけ届いた文には「心配するな」というような言葉が淡々と連なっていた。しかしそれだって、どこまで信用できるかは分かったものではない。
 鉢屋の筆跡であることには違いなくても、鉢屋が正直な言葉を私に届けるという確信はまるでないのだ。夫婦という間柄でありながらも、そのあたりの信用は私たちの間にはほとんど皆無に等しい。
 気がつけば、洗濯をしながら深々と溜息をついていた。洗濯をする手はいつの間にかすっかり止まり、水でふやけた手だけが大きく赤くなっている。その所帯じみた肌の色を見て、私はまた溜息をつく。
 鉢屋は忍びである。だからその仕事の内容を、部外者である私が不用意に聞くことはできない。鉢屋がうっかり漏らすということもない。
 しかし普段であればそれで納得できるものも、こんな状況であっては納得して落ち着いてなどいられるはずがなかった。私の知らないところで鉢屋に何か大変な災難が降りかかっていたとしたら──その場合、曲がりなりにも鉢屋の妻である私には、それを知る権利があるのではないだろうか。
 ──駄目でもともと。尋ねてみるだけ尋ねてみよう。
 そう思い立つと、いやに時間のかかっていた洗濯を手早く干し、私はすばやく部屋の中に取って返した。それから滅多に袖を通すことのない、一張羅ともいうべき外出着に着替える。何せ、鉢屋の安否を尋ねようと思うと、向かう先は当然、我が国の殿の住まう城である。もちろん殿にお目見えできるとは思っていないが、やはりそれなりの格好をしなければならないことには相違ない。
 ──武家の生まれとはいえ、城内に上がるのははじめてだわ。
 身の程をわきまえていないわけではない。城に上がるなど、考えるだけで気が重くなる。
 しかし鉢屋の安否を確認しないわけには気が休まらないのもまた事実だった。最悪、その辺の足軽から「無事だ」と一言もらえればそれで気が収まる。鉢屋に会えずとも、ひとまずその言葉だけあれば当面の安心材料にはなる。
 ひと通りの身支度を済ませ、火の始末やらを確認して回る。
 と、その時、やにわに玄関の引き戸が鳴る音がした。その音にはっとして、私はころがるように玄関へと飛び出す。
「鉢屋っ!?」
 来訪者の顔すら確認せず呼びかけたが、結果としてそれは間違いではなかった。
 玄関わきの柱に凭れるよう背を屈め立っていたのは、今まさに私が呼んだ名前を持つ夫、鉢屋三郎であった。
 しかし様子がおかしい。いつもならば飄々とした化け狐のような風采の鉢屋は、首筋に脂汗すら浮かべている。表情こそにやにやといつもの余裕ぶった笑みを浮かべているが、柱に凭れて傾いだ身体は明らかに尋常の様子ではなかった。
 左手で庇うように右肩を押さえている。そのことに気付き、私は鉢屋に駆け寄るなり着物の襟首を開いた。怪我をしているならば、その部位の検分をするためである。
「うわっ」
 そして、思わず声を上げた。
 襟がはだけて露わになった鉢屋の右肩は、包帯でしっかりと覆われていた。しかしその包帯の下に覆われているだろう傷口から、じわじわと出血しているのが見て取れる。よく見れば着物の肩にも血が滲んでいた。
「ちょ、ちょっと! なんだってこんな状態で帰ってきたのよ!?」
 思わず怒鳴ると、鉢屋はうるさそうに顔を顰めた。
「大丈夫だよ、すでにあらかた治療は終わってる」
「だからって……!」
 たしかに見たところ、治療はしてあるのだろうと思う。包帯はしっかりと巻きつけられ、血の滲みもそう大きくはない。見たところでは傷口が開いてしまったのはつい先ほどなのだろう。恐らくだが、安静にしていれば問題ない程度までは回復しつつあった傷に違いない。
 しかしそれは、あくまでも安静にしていればの話である。
 ──それなのに、この男……!
 どう考えても鉢屋が無理をしたことは明白である。思わずその面に隠された顔を見てぶん殴ってやりたいとすら思ったが、しかし今はそんなことをしている場合ではない。
「ああもう! 布団を敷いてくるから! 鉢屋はそこでうずくまるか転がるかしていて」
「適当だな」
 鉢屋の茶化す声を無視して、私は大急ぎで部屋の中に取って返した。
 先刻までの心配はどこへやら、今は無理を押して帰ってきたであろう鉢屋の向こう見ずに腹が立っていた。
 慎重で冷静なように見せて、鉢屋は時々こういう無茶をする。その悪癖は忍たま時代から時折見られたが、当時はその都度、同級生や教員にこっぴどく叱られていた。
 しかし忍術学園を卒業してこうしてプロになった今、てっきりその悪癖もなりを潜めているのかと思っていた。忍務の遂行のためというならいざ知らず、まさかいきなり重傷をおして徒歩で帰宅するとは。考え無しにもほどがある。
 煮えくり返る腸(はらわた)をどうにかこうにか宥めすかし、ひとまず火鉢で湯を沸かした。同時に布団を敷き、鉢屋の着換えと、常備している救急箱も持ち出す。それら布団の傍らに備え、次に鉢屋を玄関まで迎えに行った。
 肩を貸して布団まで連れていこうとしたが、鉢屋は私の手助けを拒み、ふらつきながらも自力で寝室まで辿りついた。つくづく頑固な男である。
 布団の傍らにどかりと腰を下ろした鉢屋は、険しい顔で私を見た。その鉢屋に、私は湯飲みを差し出す。
「白湯、飲める?」
「ああ、もらう」
 傷に障らないようゆっくりとした仕草で湯飲みを口に運ぶと、ようやく鉢屋はふうと一息ついた。鉢屋が湯飲みを置くのを待ち、私は血で汚染された包帯をとる。すでに玄関で着物の上を脱ぎ捨てた鉢屋は、袴だけの身軽な姿になっていた。その袴もまた、砂でうっすら汚れている。布団に入るときには上下とも着替えねばなるまい。
 止血に効くとされる薬と脱脂綿を宛がい、もう一度しっかり包帯を締めなおした。鉢屋の背中側に回り、そっと処置してゆく。こんな時だが、はじめて触れる鉢屋の肌がひんやりとしていて、それがなんだか私の心をざわつかせる。
 広い肩幅もぼこりと突き出した肩甲骨も、何もかもが女のものとは違う。
 そしてまた、それは私が唯一知る、たったひとりの男のものともやはり違うのだった。そのことを、目の当たりにし、私は息が詰まるような、窮屈な息苦しさを感じた。空気を吸っても胸がうまく膨らまないような気がする。
「ふうん、うまいもんだな」
 ふと、鉢屋が呟いた。その声に私ははっとする。
 鉢屋の視線は己の右肩に向いており、その言葉が包帯を巻く手つきを指して言っているのだと、私は一拍遅れて察した。
「治療や看病の一通りは忍術学園で学んだもの」
「それでも同じように学園で学んだはずの手裏剣術はからきしになっていたじゃないか」
「そりゃあ手裏剣なんて四年も触らなかったから。でも包帯を巻くくらい、この四年だって何度もしたもの。そうそう忘れないわよ」
 そう答えると、鉢屋の肩がわずかにこわばった。けれどすぐ、
「ふうん、そうだったか」
 と、ありきたりな相槌を打つ。
 私は何も気が付かなかったようなふりをして、
「ええ、そうよ」
 と、やはりありきたりな言葉を返した。
 鉢屋と暮らしはじめて、早いものでもうひと月以上が経つ。ここ暫くは鉢屋は不在だったが、それでもすでに彼と夫婦としてともに過ごした時間の長さは、忍術学園で顔を突き合わせていた時間をゆうに超えただろう。忍たまとくのたまでは、普通にしていればそうそう顔を合わせることもない。
 これだけの時間をともに過ごしながら、しかし鉢屋は、私と訣別してからの四年間の話を頑なにしようとしない。同じように、私の四年間のこともまた、けして聞こうとはしなかった。とりわけ前の夫との結婚生活のことは、やや神経質なくらい話題にすることを避けているように思う。
 私としては別に探られて痛む腹などないので、聞かれさえすれば何でも答えるつもりでいる。そもそも夫婦の間に不誠実があるべきではない。いくら鉢屋との夫婦の契りが何の実態も伴わないものであったとしても、夫たる鉢屋に前夫とのことを尋ねられれば、それが如何に微細な内容であろうと、あるいは如何に個人的な事柄であろうと、私はそのすべてつまびらかにするつもりだった。
 しかし鉢屋はどうやらそれらの話を聞きたくないらしい。いや、もしかしたら鉢屋が聞きたくないのではなく、私に前夫の話をさせたくないのかもしれないが、いずれ過去に触れるようなことを、鉢屋はけして話題にしない。だから私も、自ら積極的に過去のことに触れようとは思わない。
 それが果たして夫婦のかたちとして正しく健全であるのかどうかは、私には判断つきかねた。

 beg; 乞い求める、はぐらかす

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