amber

 鉢屋との生活は、はじめこそお互いに過去がちらつきぎこちなかったものの、二週間も経つ頃にはしっくりとよく馴染んだものとなった。なまじ相手を知っているだけにふとした瞬間気恥ずかしさを感じることもあるが、その辺りは時間の経過に伴う慣れと妥協、そして割り切りによって案外どうとでもなるものだということを、この二週間で私はしみじみ実感している。
 鉢屋は最初に言ったとおり、週の半分以上は城に詰めて戻らない。そういう晩には私は、ひとりきりで食事を済ませて早々に床に入る。
 それで分かったことだが、どうやら私は、もともとあまり人恋しくなるたちではないらしい。鉢屋がおらずとも、家の中のものの位置さえ覚えてしまえばそう不便に思うことも、まして心細く思うこともなかった。いっそひとりは気楽でいいと思うほどである。
 何せこれまでの人生において、食事も掃除も、自分の身の周りのことさえきちんとしていればいいという環境は、十八年生きてきてまったくはじめてのことだった。
 むしろ鉢屋が帰ってくる日の方が、私にとってはぴりぴりとする。
 ぴりぴりというか、自分の中で糸がぴんと張りつめるのだ。鉢屋に隙を見せてはならず、必要以上に心を許してもいけない──そんな気分になる。
 最初ほどの緊張はないものの、やはり鉢屋に手料理を振る舞うのはどきどきするし、布団を並べて眠ることにだって、まだ慣れたわけではない。
 何といっても鉢屋は私の初恋の相手だ。いくら今の私にはその初恋が過去のものであっても、かつて恋をしたという事実ばかりはどうにも拭い難い。
 そして鉢屋を前に肩ひじを張れば張るほど、胸の中に巣食う鉢屋の面影がもの言いたげにする。身の内にも外にも鉢屋を感じ、なんとなく気詰まりに思うのも仕方がないだろう。鉢屋といて糸をゆるめられるのは、どうでもいいような当たり障りない雑談をしているときだけだった。眠る前、私に背中を向けた鉢屋にぽつりぽつりと言葉を掛けると、返事が返ってくる。その時間だけは、私も気をゆるめることができた。
 眠るといえば、夫婦になって二週間経つ現在も、鉢屋には一向に私を抱こうとする気配がない。私も私で、夜ごと緊張することにすっかり疲れてしまった。今では多少はぴりぴりしながらも、横になった鉢屋と適当に雑談をして眠りにつくのがお決まりのようになっている。

 この前の晩も、そんなふうにただ隣同士に布団を並べ、いつものように眠った。
 そして朝、一週間ぶりに休みの鉢屋とともに朝食を摂っていると、おもむろに鉢屋が「そういえば」と切り出した。
「近頃、このあたりでも辻斬りが出るらしい。ひとりで夜は出歩くなよ」
 まるで世間話のように話しているが、しかし起き抜けに持ち出す話題としては随分と剣呑である。ぽりぽりと漬物をかじり、私は、
「辻斬りねえ」
 と鉢屋の言葉を顔を顰めて繰り返す。
「そういえば、何となく人の往来が減ったような気がしていたけど、その辻斬りのせいかしらん」
「十中八九そうだろうな。城からも注意するようお触れを出している。というかなんでお前は知らないんだ」
「井戸端会議への出席率が低いもので」
 鉢屋が呆れたように溜息をついた。
 しかし私が近所づきあいを苦手としているのには、鉢屋にも原因がある。
 この家はもともと鉢屋がひとりで借りていた家だ。そこに二週間前、突如として私が転がり込んできた。当然、周辺の長屋に住まう奥さん連中は、私から鉢屋のことを根掘り葉掘り聞きだそうとする。
 あまり家に寄り付かず、男ひとりでふらふらと根無し草のように暮らしていた鉢屋が、これまで注目を集めていなかったはずがない。しかもうまく言いつくろえばいいものを、鉢屋は気になるなら気にしておけと言わんばかりに適当にその注目を流していた。私が今まさに対応に苦慮しているのは、鉢屋のそういうこれまでの行いによるものだった。
 しかしそんなことを鉢屋に言ったところでどうなるものでもない。まさか夫が忍びでなどと馬鹿正直に打ち明けるわけにもいかず、かといってそういった周囲のあれこれを誤魔化すのは妻の私の役割であるような気もするわけで、だからとりあえず、笑って誤魔化すしかないのだった。井戸端会議に近づかないのは余計なことを言って墓穴を掘らないためである。
「鉢屋も退治に出てるの?」
 思考を辻斬りの話題に戻し、私は尋ねる。
 原則として忍びの仕事の内容に触れるようなことを聞くのはご法度である。しかし今回は鉢屋の方から話題を振ってきているから、このくらいの質問は許されるだろう。本当に触れられたくない話題であれば、鉢屋はそもそも話題になどしないし、辻斬り退治を秘密裏の忍びの仕事として任じられているとも思えない。
 思った通り、鉢屋は小さく鼻を鳴らしたかと思えば、
「そういうのは武士の仕事さ。だけどまあ、陰ながら動いてはいる」
 とむっつり答えた。恐らく、忍びとしてというよりは単に腕の立つ武辺ものとして働かされているのだろう。このご時世にありながらも平和そのものなこのあたりでは、忍びの仕事もそう多くはない。
 鉢屋の腕のたしかさならば私もよく知っている。私が知っているのはあくまでも十四歳のころの鉢屋だが、それから四年経った現在、おそらく鉢屋はそこいらの武士になど引けをとらない程の腕前をしているのだろう。
 天才との呼び声高い鉢屋だが、彼はけして慢心したりはしない。
「まあ、鉢屋が動いているのなら、闇雲にお武士さまたちに任せておくよりは安心だわ」
 正直にそう言うと、
「そういうことは外で言うなよ」
 とすぐさま鉢屋にたしなめられる。
「ただでさえ忍びは武士より肩身が狭いんだから」
「ええ、ええ。それはもう、心得ておりますとも」
 相変わらず呆れ顔の鉢屋に、私は小さく笑った。
「大体、辻斬りが出るからといったって、心配していただかなくても大丈夫。五年まではくノ一教室に通った身なんだから、自分の身くらいは自分で守れる」
 これでも腕に覚えはある。何せかつての私は、くノ一教室の中で文武両道の才女の名をほしいままにしていたのだ。目標を打倒鉢屋に設定していたことでどうしても自分自身、二番手に甘んじていた印象が強いが、それはただ鉢屋が規格外だったというだけのこと。市井のおなごと比較すれば、私はどう考えても自衛のすべを持っている方だ。
 そんな私の自負とはうらはらに、鉢屋の視線はあくまでも不審に満ちている。疑わし気に私をじろじろと眺めると、それだけでは飽き足らず、
「本当か……? あれからもう四年だぞ。この四年、多少でも剣を振るったり組討をしたりしたことがあるのか?」
 と言葉でまで私を疑う。
「さすがにそういうことはしていないけれど、でも、いざとなればどうにかなるでしょう」
「その自信は何処からくるんだ」
 もちろん、過去の経験からくる自信である。そう答えると鉢屋は、
「そういうのを昔取った杵柄というんだよ」
 と苦笑した。そして、
「よし、相分かった。これを食べたら腹ごなしに出掛けるぞ」
 そう言ってにやりと笑って見せた。

 朝餉を済ませると片付けもそこそこに、鉢屋は私を家の外へと連れ出した。普段着ている小袖ではなく動きやすい袴に着替えさせられまでしたので、これは一体何事かと思ったが、連れていかれた先は家からほど離れた山であった。ちょうど鉢屋の仕え先である城の裏にあたる。
「山登り?」
 その割には籠も何も背負っていない。一体何の目的で山に入るのかもわからず、私は鉢屋に尋ねる。鉢屋は首を横に振った。
「山登りは山登りだけど、登ることそのものが目的じゃない。ただ、ちょうどいい場所がこの辺りにしかないというだけで。まあとにかくついてこい」
 意味はよく分からなかったが、それでも鉢屋に言われるまま山の中腹辺りまでのぼった。
 やがて、一帯の木が伐採された妙に拓けた場所が唐突に現れた。足場はけしていいとは言えないものの、一通り整備はされているそこは、大体一辺が一段(約11メートル)ほどの四角い土地になっている。周囲をぐるりと囲む木々はこの寒い時期でも鬱蒼としていて、まるで山の中に隠された修練場のような趣があった。
「というか、実際そういう意図でつくった場所だ」
 肩から提げてきた荷物を手頃な切り株の上におろし、鉢屋が言った。
「つくったって、鉢屋が?」
「ああ。就職して一年目のときに、雷蔵とふたりでな。忍術学園の裏山に修練場があったのは知っているだろ?」
「ええ、体育委員会が管理していたところでしょう」
 忍術学園は実際の学園の土地の広大さももちろんだが、周辺の支配地域の広さまで含めれば、どこの城でもそうそう落とせないような領土と、それに伴う戦力を保有している。その支配地域の中には裏山や裏々山、そのさらに裏々々山など山岳地域も多く含まれており、忍術学園の生徒たちはそれらの地域を遊び場感覚で鍛錬に利用していた。
 鉢屋が言っているのは、その中でももっともよく利用された、裏山の修練場である。その修練場もここと同じように、木を伐採した跡地を鍛錬に利用できるようになっていた。くのたまはそこまで学外鍛錬に積極的ではなかったが、その存在くらいは知っている。
「あそこを模した」
 少しばかり誇らしげに、鉢屋は笑った。言われてみればたしかに、あの裏山の修練場も大体このくらいの広さだったような気がする。周囲の木の葉の茂り具合なども含め、模したというにはかなり精度が高い。
 しかし忍術学園の修練場は、たしか当時の上級生たちが総出でつくった場所だったはずである。鉢屋と不破のふたりだけで同じような修練場をそっくり出現させるなど、さすがにどう考えても無茶だった。一体どれほどの期間と労力がかかったのだろう。
「模したって、そんな軽々と」
「もちろん、殿に許可はもらっているぞ」
「そういうことを言ってるんじゃないんだけど」
「まあ、そんなことはどうだっていい」
 自分から話を振っておきながら勝手に話をたたんだ鉢屋は、荷物の中から何か小さな袋を取り出す。と、不意にそれを、
「そら」
 と私に向かって投げた。私は慌ててそれを受け止め、それから袋の口を開く。
 中には数枚の手裏剣が、きちんと磨かれおさめられていた。私がかつて忍術学園でよく練習した、一般的な平型手裏剣だ。不審に思って鉢屋を見ると、鉢屋の手にも、私に投げて寄越したのと同じ平型の手裏剣があった。
「ここに私の手裏剣がある」
 私から数間離れたところにぴしりと立った鉢屋は、愉快そうに笑って私に言う。
「そんなもの持ち出してどうするのよ?」
 私が問うと、鉢屋は手に持った手裏剣を、勢いよく木の幹に向かって打った。
 手裏剣はまっすぐと目標へと飛んで行き、木の幹のもっとも太くなった部分に、まるで吸い寄せられるかのように刺さった。
「それをな、今俺が打ったあの木の幹に向かって同じように打ってみろ」
 その言葉に、私もようやく鉢屋が何を考えているのか理解した。私は無言で鉢屋を睨みつける。鉢屋はなおもにやにやと笑っていた。
「どうした? 手裏剣術では私と雷蔵の次くらいには腕が立つ成績だったはずだろう?」
「くのたまでは、一番よ」
「そう言うならほら、打ってみろよ」
 煽るように鉢屋が笑った。
 つまるところ、鉢屋は「昔取った杵柄」を持ち出す私の現在の実力を試そうというつもりなのだろう。つくづく底意地の悪い男である。何も手裏剣まで持ち出して私のことを測ろうだなんて、性格が悪いとしか思えない。
 むっとして、私は手元の手裏剣を見つめた。
 かつては毎日のように触れていた手裏剣だが、こうして指先で触れるのは実に四年ぶりだ。記憶していたよりも重たい鉄のかたまりに、私はもう昔のような肌馴染みを感じることができない。指の腹につたわる冷たい感触は、触れたこともない得体のしれない道具のようにすら感じられる。
 正直に言えば、あの頃のように手裏剣を打てる自信など微塵もなかった。
 それどころか、手裏剣がまともに飛んでいく自信すらない。どうやって腕をしならせていたか、手首を返していたか──四年前であれば考えるまでもなく身に沁みついてできていたことが、今の私にはまったく途方もないことのように思えてしまう。
「なんだ、怖気づいたのか。それとも自信がないのか?」
 それでも、揶揄するような鉢屋の言葉に、私は腹を決めるしかなかった。
 鉢屋に諾諾と従うのは面白くない。けれど、だからといって何もしないまま侮られるのだけは嫌だった。それだけは絶対に耐えられない。そんなことになるくらいなら醜態を晒すほうがまだましだ。
 腹を決め、心を決めた。
 足を開き、身構える。
 腕を上げ、指先で感覚を確認する。
 息を止め、素早く手裏剣を前方の的へと投擲した。

 ──果たして、手裏剣は的にした木の幹に的中することなく、その脇の木に刃を突き立て刺さった。
「ぐう……」
 誤差としてみればそう大した誤差ではない。が、今の投擲は万全の姿勢から、たっぷりと時間を使って繰り出された、まぎれもない渾身の一打だったのだ。それを外しているのだから、私の手裏剣術がもはや実戦で使うことなど到底不可能なところまで落ちていることは火を見るより明らかだった
「それ見たことか。四年の空白期間を甘く見るなよ」
 木の幹に浅く刺さった手裏剣を抜き、鉢屋がまるで先生のような口調で言う。
 言われるまでもなく分かっている。私が先ほど抱いた確証のない自信は鉢屋の言うところの「昔取った杵柄」でしかなく、今の私はそこいらの娘と大差ない、くノ一でも何でもないただの「女」である──そのことは、今目の前にあらわれた手裏剣術の結果を見れば認めないわけにはいかなかった。
 そりゃあそうだ。四年も実戦から離れてなお実力を保ち続けることができるほど、忍びの世界は甘くはない。プロとして仕事をする鉢屋や不破ですら、こうして独自に修練場を作って日々励んでいるのだ。ただのくのたまだった私が四年も何もせずにいれば、あっという間に技術を失うことは当然のことだった。
 それでも、鉢屋に言われるとどうにも受け入れがたい。
 鉢屋に言われると認めたくなくなる。
 手裏剣を回収した鉢屋は、のんびりとこちらに向かって歩いてくる。その隙をついて、私はすばやく重心を下げると、鉢屋の脛に蹴りを繰り出す。
 しかし、鉢屋はあっさりと蹴りを避けると、ひらりと私の背後に立った。
「なんだ、手裏剣でダメなら体術か? 十四のころですら私にかなわなかったんだぞ。十八になって今更、女のお前が私にかなうと思うのか」
「やってみなければ分からないで、しょっ!」
「おっと」
 続けて蹴りを入れるが、どれも鉢屋は余裕の表情のままで躱してゆく。鉢屋の方から反撃を仕掛けてくることはなく、気が付けば私が一方的に鉢屋に攻撃を仕掛け、鉢屋がそれを次々避けたりいなしたりするだけになっていた。
 もう長らく使っていなかった筋が、ぴしぴしと悲鳴を上げている。けれど、手裏剣術に比べると徒手空拳での組討の方が、多少は身体が感覚を覚えている。
 そうして打っては倒れ、蹴りを繰り出すことを続けていると、だんだんと感覚がかつてくのたまだった頃に戻るようだった。目の前にいるのは夫の鉢屋三郎ではなく、ただの同級生で忍たまの鉢屋。私が長らく背中を追いかけ続けた、あの少年だったような気がしてくる。

 amber; 琥珀、樹脂が長い年月をかけて形成

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