Gemini

 私はじっと不破を見つめた。かつての不破は、多少頑固なところもあったけれど、人がよく、迷い癖のあるやさしい性格をしていた。あれから四年、さすがにプロ忍となった今では致命的な迷い癖は解消されているのだろうが、とはいえ人の根幹などそう易々と変わるものでもない。
 押せば話してくれる可能性は大いにある──そう思った。
 私の睨んだとおり、不破は暫し困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて観念したように口を開いた。
「三郎には僕が話したって言わないでほしいんだけど……実は一度だけ、学園の忍務で苗字の嫁ぎ先の家のそばを通ったことがあったんだ。五年生のころだから、君が退学してわりとすぐかな。それで、見かけた。といっても、僕は君を直接見たわけじゃないんだけどね。君のことを見かけたのは三郎。僕は三郎から聞いただけ」
「鉢屋が」
 呆気に取られて、私はぼんやり繰り返した。
 だって鉢屋は、そんなことは一言だって言わなかったではないか。この四年間、忍術学園の中庭で短く言葉を交わしたのを最後に、私たちは没交渉だったはずだ。私は鉢屋の幻影を胸に飼い続け、鉢屋はきっと私のことなど忘れているものだと──そうだとばかり思っていた。
「『幸せそうだった』って、三郎そう言ってたよ」
 不破の声は懐かしむような、寂しげで切なげな色をしていた。
「庭の垣根ごしに見たから、間違いないって」
「うそ、でも私、鉢屋の気配ならば分からないはずないのに。そんなふうにそばにいたなら、絶対気が付くはずなのに──」
 困惑した私の声に、不破はやはり、切なげに笑うばかりだった。
 垣根ごしに垣間見た? たしかに当時私が暮らしていた家には小さな庭があり、そこを目の高さほどの垣根がぐるりと囲んでいた。垣根の隙間から垣間見るということも、まったく有り得ないことではないだろう。
 しかし相手は鉢屋である。事もあろうに私が、鉢屋の気配がそれほどまでに接近したのに気付かないはずがない。ほかの人間ならばいざ知らず、鉢屋を相手にというのであれば、私の勘の鋭さは人並み以上だったはずだ。
 忍術学園を退学し、実践を離れて勘が鈍っていた?
 しかし不破の話では、鉢屋が私のことを垣間見たのは、私が忍術学園から離れてそう時間が経っていない頃だ。それに私が夫と暮らしたあの家に住んでいた期間は、一年にも満たないはずである。
 となれば、考えられる可能性はたったひとつしかなかった。
 鉢屋は、本当は私にすら、その存在を気取られないよう気配を消すことができた?
 忍術学園で私が鉢屋の気配を感じることができたのは、鉢屋が意図的にそうしていたから?
 鉢屋は私に加減していた?
 いや、それだけではない。もしも鉢屋が私に気取られるよう、発する気配を調節していたとするのなら、その理由は、目的は──

 鉢屋は、私を勝負に誘っていた?
 それならば一体、何のために?

「三郎は、分かりにくいけどずっと君のこと気にしてたから」
 すっかり動揺していた私を慰め励ますように、そっと不破が囁いた。何もかもを見透かすような口振りは、やはりどこか鉢屋と同じものを感じる。
 けれど不破と鉢屋とでは、その裏側に滲むものがまるきり違っていた。
 不破の声には、優しさはあれど厳しさはない。包むようなあたたかさはあっても、そのあたたかさは万人に向けられるものだ。
 鉢屋は違う。鉢屋の声は、言葉は、いつだって厳しく突き放すように寂しい。けれどそうやって突き放しておきながら、鉢屋は一度かかわった相手を見捨てることは無い。突き放しておきながら、いつでも手を差し伸べる準備をしている。
 私は知っている。もう、四年前よりもさらに前からずっと、私は知っている。
 最初に鉢屋に声をかけた日──鉢屋にはじめて負けた日、日が暮れるまで手裏剣の練習に明け暮れた私の後ろにあった、たったひとつの小さな気配。
 その気配に気付いた、あの日から。
「苗字にはもしかしたら色々と思うところもあるかもしれないけど……、でも僕は無責任な立場だから、こうして君と三郎が一緒になってくれて、単純に嬉しいと思うよ。それに三郎も、最近は以前にもまして調子がよさそうだし」
「……そうなの? 私には、そういう変化はよく分からないけど」
「三郎も苗字にはバレたくないだろうからいいんじゃないかな。もし気付いても気付かないふりをしていてあげてよ。夫を立てるってことで」
 苦笑混じりにそう言われては、私は頷くよりほかない。
「不破は大人ね」
「ええー? そうかなあ……」
 そう笑った不破は、多分私などよりもずっとずっと、大人びた顔をしていた。

 その日の夕方、帰宅した鉢屋に夕食を出しながら、
「今日、不破と会ったわよ」
 と短く報告した。普段であればその日の出来事などわざわざ語ったりもしないが、鉢屋の相方である不破と話したのだ。これはさすがに、話さない方が不自然というものだ。
 私の報告に、鉢屋は
「は、」
 と、なんとも間の抜けた音を喉から発する。手から取り落とした箸が床に転がったので、仕方なく私がそれを拾い上げ、拭って返す。
 箸を受け取りながらも、鉢屋はまだほけっとした間抜けな顔をしていた。鉢屋らしからぬその表情に、私はなんとか笑いを噛み殺した。
「会ったって」
「魚屋でね。不破はサワラを買っていたわよ」
「いやいやいや」
「ちょうど旬よね。サワラ」
「そうじゃなくて」
「でもまさか、独り身の男がサワラを調理できるとは思わなくて、私驚いてしまった」
「サワラのことはいいんだよ!」
 耐えかねて鉢屋が声を上げる。こういう遣り取りで鉢屋が先に音をあげるのは珍しいことだ。やはり、不破と私が鉢屋のあずかり知らないところで顔を合わせ言葉を交わすというのは、鉢屋にとってはちょっとした事件なのだろう。
 鉢屋が意図的に私に隠していることも、不破は知っていることがある。それが今日ひとつ、明らかになった。
 きっと、そういうことは他にもあるのだろう。鉢屋が私には知らせたくない何かは、きっと。
 そのことに対し腹を立てるほど、私は鉢屋のことを知らないわけではない。この男が私に隠しごとをしているだろうことを、私はそういうものだとして理解している。夫婦(めおと)になるより前から、鉢屋三郎という人間のひとつの性質として──たとえばそれは短気だとか笑い上戸だとか、そういう人間をなす要素として、理解し受け入れている。
 だから今更、怒ったりはしない。
 少し驚いただけだ。それだって、こうして鉢屋を驚かせ返すことができたわけだから、その時点であいことしている。
 ようやく動揺から立ち直った鉢屋が、しらっとした顔をした私をじっとりと睨んだ。焼き魚を食みながら、
「そもそもどういう経緯で雷蔵と?」
 と、問い質す。とにかく私と不破のことが気になって仕方がないらしい。ますます面白い。
「だから、たまたま魚屋で会ったのよ。ばったりと、偶然ね。それで、少し話をした」
「話って?」
「大した話じゃないわよ。昔の話とか、新しい生活には慣れたかとか、そんな程度」
 疑わしげな目を向ける鉢屋。私に対してもそうだが、不破に対してこんなに信用のなさを見せてもいいものだろうか? いや、まあたしかに、不破には鉢屋と比べて大雑把なところがある。鉢屋が抱いているのは不破に対する不信感というより、不破の大雑把ゆえの失言への懸念か。それならば、あながち鉢屋の懸念は間違ってもいない。
 しかし私は不破と、不破が話したことを鉢屋には言わないと約束してしまった。いくら夫である鉢屋が疑念を抱こうと、その約束を反故にするつもりはなかった。
「なによ、鉢屋のいないところで不破と会っちゃいけなかった?」
 却ってふんぞり返って尋ねる。言外に探られて痛む腹があるのかと突き付けると、ようやく鉢屋は疑いのまなこを引っ込めた。とはいえ、まだ完全には納得していない顔をしている。
「そういうわけではないけど」
「同じ町に住んでいるんだもの。いつかは会うわよ」
「それはそうだけど」
 けど、けどと繰り返し物言いたげにしている鉢屋の視線を、私は黙殺した。ややあって、鉢屋もしぶしぶ納得したらしい。ふたたび夕飯をもそもそ口に運び始めた鉢屋に、私はそっと笑った。

 鉢屋との生活には慣れたが、鉢屋のことではまだ、分からないことが山ほどある。思うに、鉢屋はきっとそのすべてを私に開示しようなどと、まったく思ってはいないのだろう。秘密を抱えることは忍者の専売特許のようなものだ。その相手がたとえ妻であろうと家族であろうと、秘密を開くことはけしてない。
 それでもいいと、私は思う。
 それでも私は鉢屋の妻であれると──
 そう、思うのだ。
 鉢屋はもう、先ほどまでの不破の話を続けるのは諦めたようだった。今はただ黙々とごはんを口に運んでいる。その姿を、私は見るともなくぼんやり眺めた。
 昼間言葉を交わした不破と瓜二つのその顔は、しかし不破のものよりもずっとふてぶてしい。本気で人を欺こうとしているときには、立ち居振る舞いや細かなしぐさまでまったく同じになるのだろうから、今こうして私の目の前にいる鉢屋は、私を欺くつもりなどまったくない、限りなく素の鉢屋に違いない。
 私のあやふやな視線に気付いたのか、鉢屋が視線だけで「何か用か」と問うた。手にしていた茶碗を置いて、私は言う。
「本当に鉢屋の変装って本物と瓜二つだなあと思って、しみじみしていたのよ。今日、町で最初に不破を見たとき、私てっきり不破のことを鉢屋かと思って『鉢屋』って声を掛けちゃった」
「町で会ったからって不用意に声を掛けるんじゃない」
 鉢屋が呆れたように言った。それは自分でも良くないことだったと反省しているので、私も素直に、
「そのことは自分でも反省してる。ごめんなさい」
 と、謝った。鉢屋は少しだけばつが悪そうな顔をしたが、仕切りなおすように一度咳払いをする。手にした茶碗は、もうとっくに空だった。
「まあ、分かっているならいいけど。変装は、まあ得意武器のようなものだしな。雷蔵の方だって私と間違われることには慣れっこだろう」
「うん。今さらではあるけれど、やっぱり天才の呼び名は伊達じゃないんだなと、今日改めて思ったわ」
 しみじみと言う。その言葉に一片の嘘偽りもなかった。
 鉢屋の実力ならば、今までだって嫌というほどよく分かっていたつもりである。鉢屋からどう思われていたかは別として、私の方は鉢屋のことを自らの好敵手であり追うべき背中だと決めていた。だから当然、鉢屋のことはすぐれた忍たまだと思っていた。
 しかし、私にとっての鉢屋はあくまでもすぐれた「忍たま」であった。それは鉢屋がプロになった今も何ら変わることはなかったのだが、こうして思いがけず鉢屋以外の忍びと顔を合わせたことで、はからずも鉢屋の現在の──たまごではない、忍びとしての力量を目の当たりにすることとなった。
 やはり鉢屋は天才である。
 どこにでもいるような凡庸な忍びとは明確に一線を画す、すぐれた忍びなのだ。
 そんなことを考えながらふと視線を鉢屋に戻す。と、鉢屋はまるで変なものでも食べたような珍妙な顔で、じっと私を凝視していた。普段あまり見られないその表情に、思わず私はたじろぐ。
「な、何よ?」
「いや……お前が私を素直に褒めるなんて珍しいなと」
「なっ」
「明日は槍でも降るんじゃないか?」
 言われてすぐに後悔した。そうだ、こんなふうに鉢屋のことを素直に賞賛するなど、まったく私らしからぬ言動だった。私と鉢屋の間にその手の正直さなど本来なく、口を開けば皮肉や軽口を叩くのが、私たちの常である。
 ──しまった、言わなければよかった。
 自分でもそのように思う。しかし一度口に出してしまった言葉が消えることなどあるはずもなく、私はじろじろと不躾な視線を送る鉢屋の眼に晒されながら、何とか取り繕おうと咳払いをした。
「……別に、自分の夫のことを褒めたっていいじゃない。外で言うわけでもあるまいし」
 開き直るようにそう言えば、鉢屋はいよいよ眉根を寄せて腰を浮かせた。そのまま私の方に身を乗り出すと、まるで武具の点検でもするかのように不調がないかをつぶさに確認した。
「どうした、お前本格的におかしいぞ。熱か。今日はもう休んだ方がいいんじゃないか」
 その真面目腐った物言いに、鉢屋が面白がって私を揶揄っていることを察する。
 たまに素直に褒めるとこれなのだ。私が鉢屋に対して意地を張ってしまうのもこれでは仕方ないと思う。
「性格が悪い……」
 せめてもの抵抗に睨みながらそう呟けば、鉢屋は面白そうに目を歪めて、
「それはお前の方だろう」
 と言葉を返した。

 Gemini; ふたご座、夫婦星

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