mirage

 およそひと月ののち、私は実家を出ると鉢屋と生活を共にし始めた。新たな住まいは鉢屋の仕え先の城の城下町の、こぢんまりとした借家である。もともと鉢屋が個人的に借りていたところに、私が転がり込んできたかたちになる。
 鉢屋の仕え先は、忍術学園とも友好的な関係を築いているとある城だ。けして大きな戦力を保有しているわけではないが、国内は平和そのものである。
 今の鉢屋の主にあたる城主は、このご時世珍しく領土拡大にほとんど興味がない様子らしい。それどころか時には城主みずから農村に出向き、その時の田や畑の様子を観察する変わり者である。場合によっては農民とともに土に塗れて作業をすることもあり、領民にとっては親しみやすく、しかし家臣にとっては頭の痛くなるような性質の殿様であった。
 しかしながら、彼が政治的に無能かといえばけしてそういうわけではない。鉢屋と不破という忍術学園の誇る優秀な卒業生をふたり獲得していることからも分かるとおり、常に周辺諸国への警戒は怠らず、自国の領民の生活を守るためであれば戦をすることも辞さない──鉢屋の主は、そういう人間だった。
 さて、何故この家に嫁いだばかりの私がここまでの知識を有しているかといえば、それは簡単な話で、私自身が元々その「自国の領民」だからである。
 つまるところ、鉢屋の主は私の生家がある国の殿なのだった。私と鉢屋は、もう何年も同じ国の人間でありながらお互いまったく気付いていなかったということだ。
「しかし考えてみれば、お前の実家が近いというのは何かと便利だな」
 私がこの家にやってきて最初の晩、私の作ったささやかな祝い膳をもそもそ頬張りながら鉢屋が言った。美味いとも不味いとも言わないその態度にはむっとしないでもないが、箸が止まらず食べ進めているということは、まあ不味くはないのだろう。胸の内でほっとする。
 鉢屋に美味しいものを食べさせてやりたいなどと殊勝なことは考えないが、だからといって料理下手だと思われるのは腹立たしい。夫婦(めおと)になったからといって、鉢屋に対する対抗意識が消えてなくなったわけではない。
「私は週の半分ほどは城内の忍び詰所にいる」
 と、鉢屋が続ける。
「この家に帰れるのはまあ、週のうち三日、よくて四日というところかな。その点、いつでも帰れる実家が近くにあるというのは、お前にとっても心細くなくていいんじゃないか。ほら、女ひとりで留守を守るのは何かと気に掛かるだろうし」
 鉢屋は当然のように言うが、その物言いにはどこか引っかかるものを感じた。その理由はおそらく、私が鉢屋をまだ「忍術学園での好敵手」として見ているからなのだろう。
 鉢屋にとっての私はもはやただの「女」でしかない。しかし鉢屋と相対する私自身は、こうして鉢屋と言葉を交わしていると、自分のことをまだくのたまだった頃と同じように感じてしまう。鉢屋と私の意識の差が、私に微妙な違和感を感じさせるのだ。
 慣れなくてはいけないとは思う。
 自分で鉢屋と夫婦になることを決めたのだ。
 だからもう、いつまでも過去に拘泥してなどいられない。鉢屋のように、今の状況を受け容れなければならない。
 お椀の汁をすすり、ふと視線を上げる。鉢屋が訝るような目を私に向けていた。
 その視線から、そういえば先ほどの会話の返事をしていなかったことに気付き、私は取り繕うように咳払いをする。
「別に、鉢屋が戻らないからといって実家に帰るようなことはしないわよ。嫁に出た娘がそうしばしば戻ってくるんじゃ、外聞が悪いもの」
「もう娘という年でもなくないか?」
「いちいち揚げ足をとらないと会話もできないの?」
 私が睨むと、鉢屋はにやりと笑った。つくづく人の小馬鹿にしたような態度が鼻につく男である。
 これ以上余計なことを言って揶揄われるのも癪(しゃく)なので、私は再びお椀に視線を戻した。貝のお吸い物をすすっていると、お椀の向こうの鉢屋がぽつりと、
「まあ、嫁入りといっても大したことはしていないけどな」
 そう呟くのが聞こえた。

 私は自分の生家の近くでこうして新生活を始めたわけだが、対する鉢屋はといえば、今は故郷の両親とは絶縁状態らしい。どこに里があるのかすら教えてくれず、ゆえに結納から実際に結婚に至るまで、何もかもを略式で進めた。こうしてふたりで祝い膳を囲んでいるのも、きちんとした結納をすっ飛ばしてしまったからだ。
 私もすでに二度目の結婚であるから、そう大層なことを望んだわけではない。嫁入り衣裳など一度着れば十分だし、前回着た衣装はもうとっくに質に入れてしまった。鉢屋だって私の嫁入り衣裳になど興味はないだろう。
 とはいえ、そうして伏せられたままの鉢屋の家のことがまったく気にならないといえば、それはさすがに嘘になる。何から何まで詮索するつもりはないが、いざという時のためにせめて里がどこにあるのか、両親は存命かくらいは知りたくもある。
 ただ、鉢屋が話したがらないことを無理に聞きだすのも憚られ、結局はなあなあにしたままだった。今更聞くにも聞けず、だから私は鉢屋のことなど碌に知らないままである。
 ──知らなければ夫婦になれないわけではないけれど、知らないよりは知っていた方がいいと思うのは、私の身勝手なんだろうか。
 そんなことを考えるとき、頭に思い浮かぶのは数年間お世話になった以前の嫁ぎ先の義両親の顔である。
 二度目の嫁入りとなると、どうしたって前回のときと比較をしてしまう。前回、前の夫と夫婦になったときには夫婦の新居と義両親の家が近かったこともあって、なんだかんだとお世話になったものだ。夫を亡くした後も婚家を出なかったのは、嫁に行ったことであの家の人間になったという気持ちがあったからである。
 鉢屋との結婚は、違う。
 そもそも夫婦になってまだ一日目、夫婦という実感もまだない。しかしなんとなく、私の知っている「夫婦」のかたちとは何もかもが違うような気がした。何がとは言えないが、何もかも。

「そろそろ寝るか」
 夜が更け、鉢屋が言う。実家から持ち込んでいた繕いものをしていた私は、その言葉に作業を止めると、寝室に使っているという隣の間へと引っ込んだ。布団の支度をととのえるためである。
 布団は当然、二組用意されている。夫婦となった以上は同室で寝るのが道理なのだろうから、ひとまず当たり前のように二組の布団を床に敷いた。問題は、ここからである。
 果たして、布団はくっつけた方がいいのだろうか。それとも離して敷いた方がいいのだろうか。並べるだけ並べたふたつの布団を眺め、私は深く溜息をついた。
 私と鉢屋は夫婦である。
 正式にみとめられた夫婦なのだ。
 となれば、夫婦の間にあってしかるべき営みが、私と鉢屋の間にあったとしても何らおかしなことはない。というか、それが自然なことだろう。すでに一度ひとに嫁いだ身なれば、私が生娘でないことも鉢屋は承知しているに違いない。今更男に抱かれることに抵抗があるとは思いもしないだろう。実際、ない。
 しかし相手は鉢屋である。ただの男に抱かれるのとはわけが違う。ただの男に抱かれることに抵抗はなくとも、鉢屋に抱かれるとなると色々思うことはある。
 ──嫌、ではないけれど。
 嫌ではない、それは間違いない。もしも鉢屋と睦みあうことが嫌だというのなら、私だってこの縁談を受けたりはしない。鉢屋との間に子を生したくないのなら、是が非でも拒んだはずである。
 だから、嫌ではない。
 しかし鉢屋である。私と、鉢屋。私と鉢屋が睦み合うということについて、いざ二組の布団を前にして、私は改めて考えざるを得なかった。
 睦むのか。睦まれるのか。私が鉢屋に。
 想像した瞬間、かっと顔に血が上った。
 鉢屋が私に何を望んでいるのか判然としないながらも、さすがに女を娶っておきながら何もしないということもあるまい。縁談を申し込んでくるわけだから、鉢屋は少なからず私を「女」と認識しているはずだ。女であれば誰でもいいような男ではないとは思うが、少なくとも夫婦になってもいいと思われるだけの女を相手に、鉢屋が体を求めないということなどあるだろうか?
 布団を眺め下ろし、私は途方に暮れる。隣の間では鉢屋が寝支度でもしているのか、先ほどから頻りに物音が耳につく。急かされているような気分になって、私はいよいよ泣きたくなってくる。
 熟考のすえ、結局、二組の布団の間には、手のひらをちょうど開いて置いたくらいの間隔をあけた。その気があるともないともとれる、何とも優柔不断な距離。
 それから大急ぎで夜着に着替えると、私は隣の間の鉢屋に「いつでもどうぞ」と声を掛けた。火を消した鉢屋が、のっそりと寝室へと入ってくる。
「……」
 鉢屋が、敷かれた布団に視線を遣った。私は部屋の隅でまだ支度を整えているふりをしながら、息を殺して鉢屋の様子をうかがう。
 ──何か言われたらどうしよう。
 どうとでもとれる距離を開けて敷いた布団は、ともすれば鉢屋の一存でどうとでもできる距離ということでもある。手を伸ばし相手に触れることができる程度には近く、布団をかぶって互いの存在を意識しないようにできる程度には遠い。
 ──鉢屋はどうするつもりだろう。
 心臓がどくどくと鳴っていた。なにせ、新婚初夜。否が応でも相手を意識せざるを得ない。
 鉢屋は、暫し布団の足元の側に立ち、黙って二組の布団を眺めていた。しかし暫くすると、やにわに布団に潜り込み、
「お前も早く寝ろよ」
 と、ただそれだけ言った。
 ──は、はやく寝ろ?
 その短く発せられた言葉に、私はひどく拍子抜けの気がして、口をぽかんと開ける。思わず鉢屋の方を呆然と見遣ったが、しかし鉢屋はもうすっかり布団をかぶって私に背中を向けている。唖然とした。
 私になどまるで興味がないと言わんばかりのその態度に、私は先ほどまで悶々としてのたうち回っていた心を蔑ろにされたような、そんな気すらした。
 ──私がどれほど悩んだかも知らず……!
 求められたら求められたで困惑するが、しかし端から眼中にないような態度をとられるのは、それはそれでひどい侮辱を受けた気分だった。これでも私はそれなりの器量よしという自負がある。女も盛りの十八の体は、けして顧みられないことを受け容れられるほど粗末なものではないはずだった。
 ──こいつ、つくづく私を馬鹿にしてる……!
 もはや愕然とするのを通り越して腹立たしかった。憤然として自分も布団に潜り込む。鉢屋に背中を向けて顔を掛布団に押し付けると、肺の中に残っていた空気を一気に吐き出した。顔面が吐き出された空気の熱にあてられるが、この熱は私の中の顧みられなかった虚しさと怒りだと思えば、そんなことは一切気にならない。
 息を吐きだしきると、今度は深く息を吸い込む。
 それで、ようやく少し落ち着いた。
 ──腹を立てたところで仕方がない。相手は鉢屋三郎なんだから、主導権を握らせたらイライラさせられるに決まっている。
 落ち着いたところで自分にそう言い聞かせた。
 昔から、鉢屋三郎はそういうやつなのだ。常識の枠にとらわれず、真面目に取り合えばこちらが損をする──そういう仕組みの中に、鉢屋は自らを置いている。分かっていたことだ。ただ、私がそのことを忘れていただけ。忘れてしまうほど、柄にもなく舞い上がっていただけ。
 そう、どうやら私は自分でも意外なことに舞い上がっていたらしい。が、思いがけず冷水をぶっかけられたことで、私も平静を取り戻した。もう鉢屋相手に妙などきどきを感じるのはやめよう。むしろ、古い知己である私に遠慮してくれた可能性を信じよう。
 ──そうだ、もしかしたらこれは鉢屋なりの優しさなのかもしれない。
 そう思い込めば、先ほどまでの苛立ちも不思議と胸から消えた。切り替えが早いのは私の長所だ。切り替えが早く、鉢屋の性格に予備知識と準備がある。これは新生活を迎えるにあたって、大きな優位だった。
 ごろりと寝返りを打つ。暗闇の中に、布団から生えたような鉢屋の頭のかたちがぼんやりと浮かんで見えた。ひとつにまとめられた髪はもさもさと、まるで動物のごとき大きさで布団からはみ出している。鉢屋の髪ではない。鉢屋の相棒である不破を模した髪。
「そういえば、今はもう不破以外の変装はしないの?」
 暗がりの中、ふと思いついたことを尋ねた。もしかしたら不破はもう寝ているかもしれないとも思ったが、不破に限って私より先に眠りにつくこともないだろうと、そんな憶測で言葉を掛ける。
 案の定、暗闇の中から鉢屋の
「なんだ、藪から棒に」
 という返事がむっと返ってきた。
「寝るって言ってるだろ」
「だって再会してからというもの、不破の顔以外の顔をしている鉢屋を見ていないと思って」
「寝る前にそんなことを思うなよ」
 呆れたように鉢屋が言った。
 しかし、そこは鉢屋である。呆れながらも、きちんと返事をしてくれる。
「もちろん忍務で必要とあらば誰の変装でもするぞ」
「変装の名人の腕はなまっていないのね」
「当然さ。とはいえ雷蔵と双忍というのが今の私の型だから、基本は雷蔵の顔をしているかな」
「そうなんだ」
 考えてみればそれも当然のことである。忍術学園にいた頃の不破と鉢屋は、あくまでもただの同級生だった。それが今では仕事上の相棒である。わざわざほかの人間の真似をするより、不破の変装をしていた方が話が早いことが多いだろう。第一、鉢屋にとっての変装は武器のひとつである。そうそう色々な人間に変装して周囲を警戒させていては、せっかくの変装もいざというときに疑われやすい。
 納得したことを沈黙のうちに伝える。鉢屋も暫し黙ったが、やがてひっそりと、
「ほかの誰かになってほしいのか」
 と、私に背を向けたまま尋ねてきた。そんなつもりはない、ただの興味での質問だったが、鉢屋にはそう聞こえたらしい。鉢屋が見ていないことを知りながら、私はゆっくりとかぶりを振った。
「そういうわけじゃないけど。それにもう、不破の顔を鉢屋の顔として認識しているから、いざほかの誰かに化けられたら誰が鉢屋か見分けがつかなくなりそう」
「おいおい、それじゃあ雷蔵がこの家に来たらお前は雷蔵を夫として扱うのか?」
「鉢屋じゃないんだから、不破が鉢屋に成り済ますことなんかしないでしょ。そんな悪趣味」
「分からないぞ? 雷蔵はあれでなかなかお茶目なところがあるし」
「それじゃあ不破にはちゃんと、鉢屋に成り済ましてうちに来ないように言っておいてね」
「それはそれで面白そうだけどなあ」
 くつくつと喉を鳴らして鉢屋が笑う。
 その笑い方に、ほんの一瞬、胸がきゅっと絞まるような思いがした。しかしそれは、私が意識するより先に、すぐに解けて闇に霧散する。私と鉢屋の布団の間には手のひらひとつ分ほどの距離が空いていて、さながらその隙間が私の胸にわきあがった煌めきのような何かを吸い込んでいったようだった。
「鉢屋」
 落ち着かず、何となく名前を呼ぶ。
「なんだ」
 短い返事が返ってくる。
 ふたつの声が、ほんのわずかな距離を隔てた場所から行ったり来たりを繰り返す。
 遠いようで近い。近いようで遠い。
「……なんでもない。おやすみ」
「気色悪いやつめ」
「鉢屋に言われたくない」
 鉢屋の声は、胸のうちからではない近くて遠いそんな場所から、私の耳に向けて空気を震わせる。

 mirage; 蜃気楼、はかない夢・希望

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