spiral

 きっと私は誰のことも幸せにできない。
 そういう定めの生まれなのだろう。
 幸せになることも、とうの昔に諦めた。

 冷たい北風が外で吹き荒れている音がひゅおうひゅおうと聞こえる。火を入れた囲炉裏のそばで、私はその音を聞きながら言った。
「母上、また縁談ですか」
 私の辟易とした声にもめげず、母は満ち足りた顔をして頷く。
 ある日の夕餉の頃である。町で買ってきた魚を焼いたものと雑炊、漬物を並べた膳をはさんで向かい合う母は、その細面をほくほくとさせながら娘の私に笑顔を向ける。笑顔とはいえ、そこに潜む反論を許さぬ力強い圧は、四年前に私の父である夫を失ってからというもの、年々磨きがかかっている。
「そう。ちょうどいい話があるのよ」
「……母上、私まだその気は無いと再三申し上げておりますが」
「そんなことを言って、彦左衛門さんに先立たれてもう三年も経ったじゃないの。いい加減に腹を決めなさい」
 暫く聞いていなかったかつての夫の名前を出され、私はむっと言葉に詰まり俯いた。
 四年前、五年生で忍術学園のくノ一教室を退学した私は、彦左衛門という下級武士のもとに嫁いだ。それから一年ほど、私はその夫とともに世間並にむつまじい夫婦生活を営んだつもりだ。
 十四の私は男女のことにはけして通じていなかったが、三つ年上の十七の夫はやさしく聡明だった。まるきりこどもだった私を、彼はよく導き愛してくれた。
 しかし結婚して一年ほど経ったころ、夫は流行り病で死んだ。罹病してから一週間ともたず、私や医者の寝ずの看病もまったく意味をなさなかった。
 こうして私は十五の身空で未亡人となったというわけである。
 それから二年ほどを婚家に尽くし過ごしたが、このたびその婚家からも「そろそろ自分の幸せを考えなさい」と離縁され、こうして生まれ育った実家に戻った次第である。それからというもの、母が四方八方から持ち込む縁談話を適当にいなしつつ、近所の寺で飯炊きや、引き取られたこどもたちの面倒を見て食い扶持を稼いでいる。

 夫に先立たれ、この冬でちょうど三年になる。
 この三年間、男っけのない生活をしてきた。出家しようなどとはつゆほども思わないが、しかし一度はひとに嫁いだ身である。今更恋のあだばなを咲かせようなどというつもりもなく、あとはつつましく生きていくことができるのならそれでかまわないと思っていた。婚ぎ先の義母に離縁されなければ、あの家に尽くし、いずれやもめのまま死んでいくことも、それならそれでかまわないとすら思っていた。
 別に死んだ夫を忘れられないわけではない。
 死んだ夫のために操を立てているわけでもない。
 私はそのような貞淑で潔癖な、きよらかな女ではない。
 けれど、ただ、忘れられない男ならばたしかに、いた。それは死んだ夫ではない。もっと以前に私が知り合い、そして契ることもなく道をたがえた男である。
 もちろん人の妻になるにあたって、その男への気持ちは一切合切捨てたつもりだ。私が夫の妻であったとき、私が愛していたのは夫ただひとりだった。私は心の底から、夫のことを大切に思っていた。
 けれど、その男のことをまったく忘れ去ることは、とうとうできなかった。
 そのせいで、死んだ夫には随分と申し訳ないことをしたように思う。夫の腕に抱かれながらも、私の胸にはいつも別の男が住んでいた。あの底知れぬ瞳で、夫のものになった私の姿を、ぽっかりあいた胸の暗闇の中から、じっと物言わず見据えているような気がしていた。
 私はいつだって、夫に対して不貞を働いているような、そんな罪悪感を感じていた。
 夫を失い、皮肉なことに、私はようやくその罪悪感から解放されたのだ。この上さらに、見知らぬ男に罪悪感を抱きたくなどない。
 私の胸に住むあの男の、底知れぬまなこが消え去ることなど、永劫ないのだということはもう知っている。あの男を締め出すことができないのならば、もう誰にも嫁いだりはしたくない。誰の腕にも抱かれたくはない──それが、私の正直な思いであった。
 しかし私の思いなど、母が知るはずもない。
 母の眼には、私が死んだ夫に操を立てて頑固にやもめを通す、物分かりの悪い娘としか映っていないのだった。
「とにかく、これはもう決まったことです。お話を受けるかはともかく、まずはお会いしてみなさい。今度こそきっとうまくいきますよ」
「相手がどなたでも変わりありませぬ。私、金輪際よそに嫁ぐ気はないですからね。どうしてもこの家に私がいては邪魔だとおっしゃるのであれば、どこぞの長屋でも借りてこの家を出ていきます」
「これ、曲りなりにも武家の娘が、そのようなことを冗談でも口にすべきではありません」
 厳しい口調で母が咎める。貧乏武家といえど、母の志は武家の嫁であり、母である。私の気性はまぎれもなくこの母から受け継いだものだった。
 その、我が根源たる母が言う。
「私はなにも、あなたに出ていってほしいんじゃないのよ。うちは父上も早く身罷られ、ろくな縁故もないでしょう。だから名前、あなたにはきちんと身を守ってくれる方のそばにいてほしいのよ」
「別に私、男の方に身を守ってもらいたいなどと考えておりませぬ。忍術学園で五年間も学んだのですよ。ひとりでも立派に暮らしてゆけます」
「そういうことではありません」
 ぴしゃりと叱られ、私は思わず肩をすくめた。いくつになっても母の小言は耳に痛い。
 それでも、やはり縁談など受けたくはないという気持ちは変わらなかった。そんな私の心中を見透かしたように、母は大袈裟に溜息をつくと私に言った。
「ともかく、まずは一度お会いしなさい。もう決まった話なのですから、今更だだをこねたら迷惑がかかります。嫌なら嫌で会ってから決めればよろしい。大体、出戻りのあなたを先方が気に入ってくださるかだって分からないんですからねっ」
「はいはい、分かりました」
 おざなりな返事をして、私はぽりぽりと漬物をかじる。迷惑を被っているのはこちらの方だというのに。
「まったく……頑固なところは誰に似たのかしら」
 自分のことを棚にあげて溜息をつく母の話を、私はもうほとんど聞いてはいなかった。縁談の相手がどんな男だとか、どこの城に勤めているだとか、母が話す言葉の羅列は片耳から這入ると同時にもう片耳からするすると抜けてゆくばかりだ。そんなことに思考を割くくらいならば、明日の献立でも考えた方がまだしも有益である。
 ──そうだ、私はもう嫁になどけしていかない。
 胸に住まう──いや、巣食う男のまなこの視線に晒されながら生きる私に、それ以外の男を心の底から愛することなどできやしない。そんなことを、まなこの持ち主が許すとも思えない。
 今となってはその男が何処にいるかもしれないが、少なくとも私の記憶の中に残り、私の胸の中に幻影としてはりついたあの男ならば、そんなことを決して許しはしないだろう。漠然と、そんな気がした。

 縁談の日はそれから一週間ののちのことだった。
 その日、母は朝から上を下への大慌てぶりだった。現在この家には私と母がふたりきりでつつましく暮らしているだけだが、此度の縁談に際して、どこぞの店に場を設けるでもなく、先方がいきなり我が家にやってくるというのだ。それも、仲人もなしの単身で乗り込んでくるというのだから、母がてんてこまいになるのも仕方がないことだった。
 うちが下級武士の家で、しかも現在男手がないことで下に見られているのかもしれない──そう考えたのは私だけらしい。母はそんなことを気にする余裕もなく、ばたばたと準備に追われている。
 私はといえば、そんな型破りなことを罷り通す相手の図々しさに、慌てるのを通り越して、いっそ感心すらする。この縁談をまとめるつもりもないからかもしれないが、大慌ての母をしりめに、私は随分と気楽なものだった。見下したければ勝手にすればいいとも思う。そのような輩を相手にしているほど、私とて暇ではない。
 それでも縁談というからには、最低限の身支度を整えなければならないと思うくらいの常識は私にもあった。
 昔、娘時代に着ていたものを手直しした正装を纏い、座敷の支度を整えながらぼんやりと時間を潰す。約束の時間まではまだ四半刻以上ある。諸々の具合を確認しながら、私はふと今日の相手のことを考えた。
 どんな男がやってくるのか、結局ろくに聞いていない私だったが、とはいえ出戻りの私などに縁談の話がくるあたり、どうせ大した相手ではないのだろう。そのくらい、私も相手を侮っている。年がいっているとか、家格が低いとか、まあ何かしら痛いところがあって、私なんぞに目をつけるのだろう。
 母も武家の女であるから、本来であればそういった侮蔑には敏感である。少しでもこちらを馬鹿にした素振りがあれば、そんな縁談を受けるはずがない。
 しかしどうも、母は私の縁談のこととなると少々ねじがゆるむようだった。自分が苦労しているせいか、とかく私をよそに嫁がせたくて仕方がないらしい。それも自分のためというわけではなく、徹頭徹尾私の幸せを思ってくれているのだ。私としても、あまり無下にばかりできるものでもない。頭が痛い限りである。
 ──いっそ、母上がどこぞの後家にでも入ってしまえばいいのに。
 ついにはそんなことまで考える。今日の相手がもしも年嵩の男であれば、いっそ母とねんごろになってくれないものだろうか。そうすると私も気兼ねなく勝手気ままにできるのだが。

 その時、にわかに玄関戸のあたりから話し声が聞こえた。片方は母の声、もう片方は男の声だ。約束の時間よりも随分早い。
 ──時間よりもこんなに早くにやってくるなんて、非常識なやつだわ。
 そんなことを思って、胸の内でまだ見ぬ相手の男に勝手に減点をつけながら、私もとたとたと玄関へと向かう。近づくにつれ、玄関で交わされているだろう会話の声がより明瞭に耳に届いた。
 男が言うのが聞こえた。
「このような非礼、どうかお許しを。御息女にお会い出来るのが楽しみで、早く到着しすぎてしまいました」
 その声を聞いた瞬間、息が止まった。
 ──うそ。
 この声を私は知っている。私の記憶の奥にずっと、とれない染みのように残っていた声。胸に住まうあのまなこの持ち主の、なにかを面白がるような響き。
 どっどっと鼓動が早まる。
 まろび出るように、私は玄関に飛び出した。
 果たしてそこには、記憶の中の男と寸分たがわぬまなこを持った人間が立っていた。
 その男の名を、私は知っている。
「鉢屋……」
「久し振りだな、苗字」
 そのまなこが、にんまりと歪んで私を見つけた。
「うそ」
 思わず、呟いた。
 生涯二度と相まみえることはないだろうと思っていた男が、私の家の玄関戸の前に立っている。その上、事もあろうに私の母に微笑みを向けている。
 これは夢だろうか?
 幻か何かだろうか?
 しかしそこにいるのは、どこからどう見ても鉢屋三郎だ。顔かたちこそかつての同級生、不破雷蔵のものではあるけれど、まさか私が鉢屋の声音を聞き間違うはずがない。鉢屋の気配を、違うはずがない。
「は、母上! どういうことですか!?」
 ようやく意識を現(うつつ)に戻し、私は叫んだ。
 今日ここに来るはずの男は、私の縁談の相手のはずではなかったのか。鉢屋が来るなど聞いていない。そもそも母は、私が鉢屋と知己であることを知らないはずだ。忍術学園で私が鉢屋を敵対視し続けていたことなど、知らないはずなのだ。まして、鉢屋の面影が今も胸の中に幽鬼のごとくゆらめき居座り続けていることなど、けして知り得ぬはずである。
 かっと頭に上った血の気が引くような心地がする。母は、そんな私に顔を顰めた。
「どうもこうもありません。言ってあったでしょう、縁談のお相手は──忍軍の方だと」
「聞いておりませぬ!」
「いいえ、私は言いましたよ。あなたがぼんやりして聞き逃しただけです」
 そう言われるとそうかもしれないが、しかし相手が忍びの者だなどと思わなかった。曲がりなりにもうちは武家である。武家の娘が忍びに嫁ぐなど、そうそうあることではない。
 ──いや、けれど母なら。
 何せひとり娘を忍術学園に通わせたほどの母である。そのあたりの母の基準は明快だ。そして母は同時に、武家の女とは思えないほどの柔軟さをも持ち合わせている。
 早い話が、家格よりも個人の資質。
 私は三年前にすでに一度伴侶を失っており、母自身もまた、四年前に夫に先立たれている。そんな過去があるから、単純に腕が立つ強い男にひとり娘を託したいという母の思いは、けして分からないわけではなかった。いや、親心としてはこれ以上ないほどに明らかだ。
 ──だからって、なんでよりにもよって鉢屋!
 母の思考が分かってしまっただけに、いよいよ頭を抱えるしかない。玄関で情けなく呻き頭を抱える私に声を掛けたのは、これまで黙って私と母の遣り取りを聞いていた鉢屋だった。
「癇の強いたちは相変わらずか」
「なっ!」
 そのあまりにも失礼な物言いに、再び頭に血が上る。咄嗟に言い返そうとしたけれど、それを制するように母が割って入った。
「すみません、三郎さん。お恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「かまいません。昔からこういうおなごであることは、よく知っております」
「……」
 へらへら笑って余計なことを言う鉢屋に、もはや何か言い返す気すら失せる。そんな私に一瞥寄越した鉢屋は、相変わらずよそ行きの人当りのよさそうなへらへら笑いで続けた。
「どうやらなにか行き違いがあった様子。お母上、ここはどうか私に任せてはいただけませぬか」
「三郎さんに?」
「はい。私の方から事情を説明いたします」
 さりげなく私の母を「お母上」などと呼んだ鉢屋は、そう言って草履を脱ぐと私の腕を引いて家の中にあがってゆく。いきなりやってきて随分と図々しいが、現在の一家の主たる母が何も言わないのだから私にはどうすることもできない。
「奥の座敷をお使いください」
 挙句、そんな鉢屋に協力的なことまで言う始末で、私は流されるままに鉢屋によって座敷まで引っ張り込まれてしまったのだった。

 spiral; 螺旋の

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