April showers bring May flowers.(1/3)

 その日の仕事を終え、名前の待つ家へと歩く。日はまだ完全には沈み切っておらず、町の中には静かな喧騒が満ち満ちている。どこかから漂い流れてくる夕餉のにおいに、私の隣を歩く私と同じ顔の男が、くんくんと鼻をひくつかせた。
 角を曲がるとすぐが、私の塒(ねぐら)である。
 今日は客人を連れて帰ると、今朝から家内には言ってある。戸を開けるとすぐ、名前がひょこりと顔を出した。
「おかえり、鉢屋。いらっしゃい、不破。──と、尾浜……!?」
「や、久し振りー」
 私の隣に立つ雷蔵──の、さらに隣の勘右衛門が、豆鉄砲をくらったような顔をしている名前に、にこやかに挨拶をした。

 私こと鉢屋三郎はとある城に仕える三年目の城付き忍びである。
 およそ半年ほど前、学生時代の知己であり、一度嫁いだ家から離縁され女やもめをしていた苗字名前と夫婦(めおと)となった。それから先、ここ半年ほどはまあなんだかんだとすったもんだあったりなかったり、ありていに言えば夫婦としてやっていけるかどうかお互い試行錯誤をしたりもしたのだが、この度ようやくお互い腹を割って話し合い、夫婦としての再出発を果たしたわけである。
 新妻というには可愛げがなさすぎる名前──ようやく名前で呼ぶことにも慣れつつある──と、今更名前を新妻扱いするのには抵抗がある私であるから、再出発とはいえ初々しさやはにかんだ雰囲気とはとんと無縁である。しかしまあ、それも私たちらしくてよいのではないだろうかというのが私たち夫婦の共通の見解であり、今のところこれといって方向転換することもなく、こんな感じで夫婦関係を営んでいこうということになっている。
「それで今日は一体どうしたの」
 四人分の夕餉の支度をようやく整えた名前が、さあ事情を説明しろといわんばかりの顔で私を見る。多分雷蔵たちには「ちょっと事情を問いただしている」ようにしか見えていないのだろうが、私には分かる。あれは完全に、何も聞かされていなかったことに対してご立腹の顔だった。まあ、三人分しか用意していなかった夕餉をもうひとり分用意するため、すっかり店じまいをした魚屋まで走らされたりしたのだから、その怒りも無理からぬことではある。
 それでも足りない一人前を自分の分として後回しにして、私と雷蔵、勘右衛門の三人分の夕餉を、迷惑そうな顔などみじんも見せずに先に出してくれたあたり、なんだかんだ言ってもこいつは妻らしい妻だなあとは思うのだが。
「不破が来ることは聞いていたけれど、尾浜のことは聞いてないわよ」
「いやー、急にごめん」
 名前の挙がった勘右衛門がへらりと頭を下げて謝るが、
「尾浜に怒っているんじゃなくて、鉢屋に言ってるの。連絡のしようもあったでしょう」
 名前はぴしゃりと跳ね除けた。
 名前の言い分ももっともである。が、ここで謝るのも何となく癪(しゃく)なので、ひとまず事情だけ説明することにした。
「それが、うちの殿が勘右衛門に仕事を依頼していたらしくてな。それで城内でばったり」
 途端に名前が怪訝そうな顔をする。
「仕事? わざわざ尾浜になんか頼まなくたって、うちには立派な忍者隊があるでしょうに」
「おいおい、尾浜『なんか』って。ひどいなあ」
「気にするな、勘右衛門。こいつの物言いひとつひとつ気にしてたら日が暮れるぞ」
 そう言って茶化すが、名前は気にも留めない。こいつは基本的に、身内と思われる人間に対しては愛想がないのが標準仕様らしい。おそらく、かつて忍術学園でともに学んだことのある勘右衛門や雷蔵は、名前にとっての「身内」に該当するのだろう。
 名前は不思議そうに続ける。
「そういう鉢屋は自分たちを差し置いてフリーの忍者に仕事を取られてよかったの?」
「構わないよ。何せ今回の勘右衛門の仕事は、身内の膿出しだからな。私や雷蔵ではどうにもならない」
 私がそう口にすると、横から雷蔵が、
「ちょっと、三郎!」
 と慌てて私を制止する。勘右衛門も苦笑した。
「おいおい三郎、そこまで話しちゃっていいわけ?」
「ここまででしか話さないから大丈夫だよ。お前、絶対このことは」
「口外なんかしないわよ」
「だそうだ」
 雷蔵と勘右衛門が、揃って眉を下げた。
 実際、今回のことは隠さなければならないほどの問題ではない。身内の内紛のようなものなので外に漏れれば問題だが、とはいえ自領内で話題にする程度ならば問題ないことだった。すでに膿は出され、渦中の人物は放逐されている。中には騒ぎになるより前に逐電した者もあったが、ともあれ、ひとまず事態は落ち着いたと見ていい。
 すでに殿は我ら忍び衆に次なる策を授けられており、それもほとんど完遂された今、特に機密事項とされることもないのだった。勘右衛門と雷蔵の懸念は一応のポーズである。名前もまた、機密事項を教えてもらえるなどとは端から思っていないのだろう。飄々とした顔で煮豆をつまんでいる。
 そんな場の空気を換えるため──かどうかは定かではないが、勘右衛門が唐突に口を開いた。
「それで、どうなんだ?」
「どうって何が」
「決まってるだろ、新婚生活だよ」
 勘右衛門のまるっこい瞳がにんまり弧を描いて私と名前を交互に見遣る。面白くない話の流れだった。
「別に、可もなく不可もなく。な?」
 余計なことは言うなよ、とそんな思いを込めて名前を見る。名前もまた、こっくりと頷くと、
「そうね、可もなく不可もなく。ね」
 と答えた。
「なんなんだよ、その目配せはー? いやらしいやつらめ」
「いやらしいのはお前だ」
「勘右衛門、酔ってるなー」
 まだ宵の口である。昔から大して酒に強いわけでもない勘右衛門は、やはりこの年になっても酒に弱いことは変わらないらしい。たちの悪いことに、こいつは早々に酔っぱらう割にはなかなか潰れない。酒が最後の一滴になるまでこの調子で楽しくし続けられるのだから得な酔い方だ。
「本当に? 本当に普通?」
 その勘右衛門がしつこく尋ねる。酔っ払いを名前にけしかけるのも嫌なので、その質問には私が答える。
「本当だ。本当に普通」
「苗字は三郎がいない間とか何してんの?」
「前からちょくちょく飯炊きに通っていた寺でお手伝いをしたり、近所の奥様方のところで草鞋を編んだり……まあ、色々と」
「すごいな、ちゃんと奥様やってるんだ」
「まあね」
 何故だかうっすら頬を染め、名前は満足げに答えた。
 以前までは井戸端会議への出席率が低いなどと言っていた名前だが、ここのところは近所付き合いにもそこそこに顔を出しているらしい。どういう気持ちの変化かは知らないが、私の職業柄いつ家に帰れなくなるともしれない。名前が自力でいざという時に頼れる相手を増やしておいてくれるのであれば、私としてもそれはそれで安心できるというものだ。
 ただ、名前の場合は人に頼ることよりも自分でどうにか状況を打破しようという自立心の方が大いに勝る。そのことを指摘するように、
「あとは、あれだな。暇を見つけては昔使ってた手裏剣の練習してるだろ」
 と名前の手元を指さした。途端に名前は一層顔を赤らめる。
「なっ、えっ!? は、鉢屋知ってたの!?」
「そりゃあ気付くさ。手に胼胝(たこ)つくるほど鍛錬なんかするなよ、こどもじゃないんだから」
「いや、まあ、いざというときの護身術にね」
「護身術に棒手裏剣を繰り出してくるおなごか。お前を襲おうと思う輩もとんだ災難だ」
「何よ、辻斬りだなんだと言って私を焚き付けたのは、元はといえば鉢屋でしょう」
「そこまでしろとは言ってない」
「おふたりさん仲がよろしいことで」
 勘右衛門がとりなし、名前は浮かせかけた腰を再び沈めた。
 名前の克己心のようなものには、忍たま時代から今に至るまで感服しきりである。とはいえ、一応は人の妻となった身なのだから節度は持ってほしいとも思う。今のままで鍛錬に励めば、この女のことだから遠からず「実戦練習に付き合って」と言い出すのは目に見えている。それはそれで別に悪くはないのだが、くのたまという危険な立場から退きふつうのおなご並の幸せを知った今になって、なにもあの頃のように土にまみれて傷だらけにならなくてもいいとは思うのだ。本人のしたいようにさせてやるのが一番と分かっていても、こればかりは眉をひそめざるを得ない。
 そんなじゃじゃ馬は、私の亭主心など気にも留めずへらへらしている。
「尾浜はどう? 忙しくしているとは聞いているけれど」
 自分から酔っ払いに絡みに行く始末で、まったくやめておけばいいものをと私はひとり頭を抱えた。雷蔵が視界の隅で苦笑している。私の心を分かってくれるのは雷蔵だけらしい。
「まあ、ぼちぼちかな。そりゃあ利吉さんみたいにとはいかないけど、自分ひとり食っていくには困らないよ」
「フリーもいいな。いろんなところに行けるし」
「いやいや、これでも案外しがらみだらけだよ? まあ、いろんな懐かしい顔に会う機会が多いのは確かだけどさ」
 勘右衛門が妙に苦い顔をしたので、何となくそれ以上その話を深堀するのはやめておくことにする。雷蔵がまだ「フリーかあ……」とぼんやり呟いていた。

 ともあれ、久し振りにかつての級友が三人集まったのだ。積もる話もあるだろうということで、夕餉を済ませ次第、名前を近所の実家へさっさと送り届けると、あとは三人で夜通し酒宴でもということに相成った。
 雷蔵とは日夜顔を合わせているものの、だからといってこういうことでもない限り、ひざを突き合わせて酒を飲むということもない。私が所帯を持ってからは、そもそもそういう場からは疎遠になっていた。
 名前が用意していった料理を肴に、お互いの近況報告を交えながら酒を交わす。夜も更けてだいぶ酒が回ってきたころ、ほろ酔いで顔を赤くした勘右衛門がおもむろに切り出した。
「それにしても苗字と三郎がなあ……」
 やけにしみじみと、感じ入るように言われてしまい、何だか腑に落ちないものを感じる。雷蔵はともかく、卒業以来そう頻繁に顔を合わせているわけでもない勘右衛門にまで、私と名前のことをしみじみされる謂われはない。
「急にどうした」
「いや、おれはてっきり、三郎は苗字への叶わぬ恋情を胸に死んでゆくものだとばかり」
「嫌なことを言うな」
 さらりと滅相もないことを言われ思わず顔を顰める。しかし勘右衛門に同調するように雷蔵までもが、
「まあでも、ぼくもそうかなと思ってたよ。このまま独り身をつらぬくのかと」
 とにこにこ言う。こいつらは人のことを何だと思っているのだろうか。
「三郎は器用なように見えてたまに頑固さゆえの不器用を発揮するから」
「つまり?」
「「好きでもないおなごと幸せになどなれない」」
 雷蔵と勘右衛門が声をそろえた。その息の合いぶりにがくりと項垂れる。雷蔵よ、お前の相方は私のはずだぞ。フリーの忍者なんかと声をそろえるな。
「大体、そんなわけないだろう。名前ですらやれることが私にできないはずがない」
「でも苗字は円満家庭築いてたんだろ?」
「勘右衛門、その話はあんまり三郎にしてやるな」
「あっ、もしかして触れちゃいけない系の話題?」
 ふたりの気遣いが逆に痛い。酒の勢いに任せてどうやら俺はこんてんぱんに打ちのめされる定めらしく、ここに八左ヱ門あたりがいないことを心底呪った。こういうとき、私よりも弄られ役がいるか、いっそ正気を失えてしまえばどれほど楽だったことか。

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