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 文武両道、学園はじまって以来の優秀なくのたまだと持てはやされはしたものの、結局それは「くのたま」として抜きんでた才を持っているというだけのことだった。それが私という人間である。
 どれだけ私が優秀な成績をおさめようと、どれだけ鍛錬を積んで武辺を磨こうと、どれだけ周囲からの評価を得ようとも、同じ五年生には常に私の一歩先を行く男がいる。私に背中しか見せない男がいる。
 文武両道にして、天才──
 誰もその素顔を見たことがないという隙のない男は、その名を鉢屋三郎といった。

「聞いたぞ」
 誰もいないように見えた中庭に、私以外の気配があることに、私は当然気が付いていた。だから急に声を掛けられたところで驚くことはなく、私はただ、中庭に設えられた垣根へと視線を向ける。
 ほかのくのたまならばこの薄さの気配には気が付かないだろうし、潜んでいたのがこの男でなければ、私もおそらくは気が付かなかったに違いない。
 鉢屋三郎。
 我が天敵ともいえるこの男の気配だけは、たとえ三間先にいたとしても、私は感じ取ることができる。この五年間、それほどまでに私は鉢屋を敵対視し続け、常に意識の範疇に置いてきた。目を瞑っていても、すぐ近くにいる鉢屋の居所を探り当てることができる自信がある。
 その鉢屋は、言葉を発するとともに垣根の後ろからひょろりと姿を現した。いつものように不破の変装をしているが、不破でないことは分かり切っている。そもそも不破は、用もなく私に近づいてくることはない。
 鉢屋は、濡れ縁の前に立つ私のもとまで歩み寄ると、あと一歩でつま先が触れるような距離まで近づき、足を止めた。
「聞いたって何を」
 努めて静かな声で、返す。一応尋ねてはみたものの、しかし鉢屋が何を聞いたのかなど、当然察しはついていた。
 何せここは忍術学園だ。どこに耳があるか分からないような環境において、天才鉢屋が関知しない事柄の方がきっと少ない。
 案の定、鉢屋は
「お前、忍術学園を退学するそうじゃないか」
 と、不味いものでも食べたような顔をして言う。
 やはり、と思ったけれど、私がそれを口にすることはなかった。
「そうだけど」
「結局私に一勝すらできないまま、おめおめと逃げ出すつもりか」
「随分上からものを言うのね」
「事実だからな」
 しらっとした目を私に向ける鉢屋に、私も同じようにひややかな視線を返した。暫し、互いの視線が宙でぶつかりあう。
 先に視線を逸らしたのは私だった。
「鉢屋にどうこう言われることではないでしょ。くのたまが男の忍たまと同じ土俵で戦おうなんて、土台馬鹿げているって気付いたのよ」
 視線の行方を鉢屋からずらし、中庭に置かれた灯篭を睨む。それでも私にまっすぐ向けられた鉢屋の視線が纏わりつくように感じられ、もぞもぞと落ち着かない気分になった。
 鉢屋から発せられる気配がぴりぴりしている。彼が苛立っているのが肌で感じられた。
「そんなこと、五年かかってようやく分かったのか」
「そう、やっと分かった。私では鉢屋に勝てない──だから、鉢屋よりもずっと頭がキレて、鉢屋よりもずっと腕の立つ男を夫にすることに決めたのよ。鉢屋にはない武器を使って、私は鉢屋に勝つ」
 吐き出すように、そう言った。鉢屋が顔を顰めた。
 私の忍術学園退学は、他家への嫁入りが決まったからである。もともとくノ一教室には年に何人か、家の事情で自主退学する者がある。年頃の娘たちが家に戻る事情といえば、たいていの場合は嫁入りであった。
 私にも、もう何年か前からそういう話がちらほら舞い込んではいた。それを毎度、何かと理由をつけては断り続けてきたのは、ひとえにまだまだ忍術学園で学びたいことがあったからだ。
 ここで忍術を学び、己の心身を鍛え上げる。そして、目の前の鉢屋を、一度でいいから打ち負かしたかった。そのために、私は日々精進した。
 はたして、私の言葉に鉢屋は鼻を鳴らした。仮面をかぶったその顔は、すっかり鼻白んだとでも言いたげなうんざりした表情をつくっている。
「それはまた、つまらないことを決めたもんだ」
「放っておいてよ。これが女の私にできる鉢屋への最大最善の戦い方よ」
 その言葉に、つきんと、胸の端っこが痛む。自分の言葉が、自分の心をやんわりと突き刺す。
 けれどその傷みを、表に出すようなことはしなかった。平静を保つすべならば、私はもういやというほど身に着けている。くの一教室で五年間学んだ成果は、皮肉なことにこうしていま、ここを去ろうとしている私の心を頑丈な鎧のように守ってくれていた。
 鉢屋は、暫しの間睨みつけるように私を見つめていた。
 が、やがてそっぽを向くと、つまらなさそうに言った。
「もうお前とは二度と会うことはないだろう」
「もう鉢屋とは二度と会うことはないでしょう」
 瞬きをひとつ──次の瞬間には、鉢屋の姿は忽然と消えていた。鉢屋の気配はもう感じられず、中庭には私ひとりきりになる。冷たい風が吹きつけて、長く伸ばした私の髪を波のように揺らした。
「最後くらいは、ちゃんと騙しおおせたのかしら」
 誰も聞いていないことを知っていて、私は小さく呟いた。どっと疲労が身体を襲う。肩の力が抜けたのと同時に足にも力が入らなくなって、よろよろと倒れこむように、私は濡れ縁に腰をおろす。周囲には誰もいない。誰も、誰ひとり。
 今、きっと私は本当の意味でひとりぼっちだった。
 鉢屋にはああ言ったけれど、あの言葉の中に偽りがあったことは、ほかでもない私自身が一番痛感してた。ああでも言わないと自分も鉢屋も納得できないような気がして、私は分かり切った嘘をついた。
 私の夫となる人は、きっと鉢屋ほど頭がキレることもない。鉢屋ほど腕が立つこともない。詳しい人となりは知らないが、それが事実であることだけは薄々実感していた。そうでなければ、私のもとに縁談の話などやってこない。
 私の夫となる男はきっと、凡庸で、平凡な男なのだろう。ありきたりで、何の変哲もない男なのだろう。逆立ちしたって鉢屋にはかないっこない、そんな男なのだろう。
 私の言葉が嘘であったこと、私が取るに足らない男に嫁ぐこと。そのことをいつか鉢屋は知るかもしれない。いや、案外私のことなど忘れてしまうのかもしれない。忍術学園から姿を消した人間のことなどあっさり忘れて、日々を生きていくのかもしれない。
 そうであってほしいと、私は心の底から願った。
 鉢屋が私のことなど忘れますように。
 私が鉢屋を忘れられますように。
 頬を伝ったしずくがぽつりと、乾いた地面を濡らした。

 ave; ようこそ、さようなら

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