cave

 その晩、帰宅した鉢屋はやはり何か言いたそうにじろじろと私を見つめた。食事の最中も、その後私が片付けを済ませ繕いものをしている間も──鉢屋は自分の仕事の残りだろう書き物をしながら、終始私の様子を窺っていた。
 そのことに気が付いていて、私は鉢屋に何も言わない。鉢屋に何も、言ってあげないでいる。
 大体、言いたいことがあるのならば、はっきり言えばいいと思う。私たちは夫婦なのだから、何も気を遣うことなんてないはずだ。親しき中にも礼儀はあれど、私に対して何か思うことがあるのならば、それを率直に尋ねる権利が、夫である鉢屋にはあるはずである。
 けれど鉢屋は何も言わず私の様子を窺っている。まるで腫れものを扱うようなその態度に、却って私の方がもやもやとしたものを増幅させられる。
 ──何よ、言いたいことがあるなら言えばいいのに。
 けれどそれは、翻(ひるがえ)って自分にこそ当てはまることなのだ。
 私だってそうだ。私だって自分の頭の中だけで広がられた可能性の話に一喜一憂して、自分勝手にしょぼくれている。鉢屋から何か決定的な言葉を聞いたわけでもないのに、あたかも鉢屋が私を憐れんだがゆえに妻の座に据えたものと、そう思い込もうとしている。嫌だ嫌だと思いながらも、それが事実であるような馬鹿な考えに駆られてしまう。
 鉢屋本人に尋ねれば解決するかもしれないことを、ずるずると自分の中だけで引きずっている。みっともなく、情けなく滑稽なのは私だって同じことだった。これで夫婦だというのだからお笑い種もいいところだ。いや、ここまで似た者同士なのだからこそ、夫婦らしいともいえるわけだが。
 気を窺うように黙っている鉢屋に気付かないふりをして、私はじっと、ただじっと、胸に疼く痛みをこらえるようにして、平静を装い続けた。
 その鉢屋がいよいよ私に、
「何かあったのか」
 と、そう声を掛けたのは、互いにすっかり寝支度を整えて、ふたりともが布団に入ってからのことだった。
 灯りを消し、寝室は暗闇に包まれている。今晩の月にはうっすらと雲がかかっていて、窓から差し込む光もどこか薄ぼんやりとしたものだった。
 いつものように、手のひらを広げたほどの距離を開けて敷かれた布団に横になると、おもむろに鉢屋は切り出した。
 何かあったのか。
 何か、あったのか。
「……そういうわけでは」
「城で誰かに何か言われたのか」
 私の言葉にかぶせるように、鉢屋はさらに言葉を重ねる。声音が先ほどよりも少しだけ険しくなって、その声を聴いたとき、きっと鉢屋はもう何か勘付いているのだろう──漠然と、そう思った。
 尋ねているわけではないのだ。
 鉢屋は、確信を持って私を問いただそうとしている。
「そうじゃない、けど」
「けど、何だ」
 一層詰問口調になる鉢屋に、私はゆっくりと息を吐きだした。
 夜の幕がおりたような部屋の中に、吐き出した吐息に混ぜた感情が、うすく拡散されてゆく。
 話すべきか、話さないべきか。
 正直に言えば、つい先ごろまでは、この胸に抱えたもやもやを鉢屋に打ち明けるつもりはまったくなかった。鉢屋からは私と夫婦らしくあろうというつもりが、少しも感じられない。そんな鉢屋に何を打ち明けたところで、それは私ばかりが苦しいだけのものであるような、そんな気がした。
 けれど鉢屋は今こうして、私の気がかりに気付いてくれている。気が付いて、分かち合おうとしてくれている。理解を示そうとしてくれている。私の気がかりが何なのかを、知ろうとしてくれている。
 それならば──私も気がかりのほんのさわりくらいならば、話してもいいような気がした。
 何もかもを打ち明けるわけではない。そんなことは私にだってできないけれど、ほんの少しくらいならば、鉢屋に打ち明けてみてもいいような気がした。それで鉢屋の反応を見て、そこから先のことはまたその時に考えればいい。
 ひとつ深呼吸をする。
 それからゆっくりと口を開いた。
「私と──私と鉢屋は夫婦でしょう」
「そうだ。私とお前は夫婦だ」
「鉢屋は私に良くしてくれる。やさしくしてくれる」
「お前、」
「でも私たち、夫婦らしいことを何一つしない。鉢屋は私に、何も望まないのね」
 静かに、そう伝えた。
 鉢屋は私に何も望まない。鉢屋は私に何も求めない。
 人としての信頼関係で繋がっていれば、それもそれで構わないと思っていた。現に、私と鉢屋はこれまでうまく夫婦生活を営んできたはずだ。小さな衝突や問題はあっても、それはその都度乗り越えてきた。互いのことをよく理解し合って、承知しあって過ごしてきた。
 必要以上に踏み込まず、必要以上に踏み込ませず──
 そうやって、互いの許す距離感を慎重に守り続けてきた。
 それでいいと思ってた。鉢屋は私のことを、女としては愛していなくても、ひとりの人間として──かつて競い合った知己として、友人として、敬意をもって思ってくれているのだと、そう信じていた。
「鉢屋は、私に何も求めない」
「……そんなことはないだろ。今日だって、お前は妻の役目を果たしてくれてるじゃないか」
「あんなの、妻じゃなくたってできることよ。そうじゃなくて、私は──」
 ひとりの女として、鉢屋に求められたかった。
 ひとりの女として、鉢屋に望まれたかった。
 そのことに気付き、愕然とする。けれど同時に、それはずっと、ずっとずっと、もう長い間胸に在り続けた思いだった。
 夫婦となって、妻となって──人として鉢屋の側に在ることを許されているのだと納得して──それでいいと思っていた。そう思わなければならないのだと、そう思うことこそが正しいのだと、そう信じていた。
 だってそうだろう。今更ひとりの女として見てほしいなど、どうして私が言えようか。あの頃の、ただくのたまだった頃の私ならばまだしも、今の私にどうして、そんなことを望めよう。どうしてそんな欲を出せよう。
 だから私は胸に抱く思いをすり替えた。
 鉢屋が差し伸べた手をとって、女としてではない、ただひとりの人間として──ただの苗字名前として、そばにいようと思うことに決めた。
 それが正しいと思った。
 けれどそうではないのなら──そんなもので満足しようと諦めていたことすらかなわないというのなら。
 それならば、私のこの胸に燻り顧みられることのなかった感情は、一体どうすればいいのだろう。持て余したままの欲望を、どこに捨てればよかったのだろう。
 代替品で納得しようとしていたのだ。女として愛されることのかわりに、人として望まれることで自分を満足させようとしていた。それ以上を望めば不幸になることは分かり切っていたから、今ある幸せで手を打とうとしていた。それだけのことだ。
 それなのに、その身代わりの感情すらなかった。本当はそんなもの、どこにもないただのまやかしだった。
 私はずっと、ひどい思い上がりで幸せになったような、そんな気になっていただけだった。
 けれど、そこまでの感情を言葉にすることはできなかった。そこまで言えば、鉢屋はきっと何も言えなくなるだろう。鉢屋はきっと、自分を責めるだろう。
 哀れみで私に手を差し伸べようとしたことを、間違いだったと思ってしまうだろう。今あるかりそめの幸福を、間違いだと断じてしまうだろう。それはあまりにも悲しかった。
 哀れみで夫婦になどなりたくはなかったけれど、だからといって、間違ったまま、思い上がったまま手にした幸福をなかったことにはしたくない。
 自分のなかだけでこれだけ感情がぐちゃぐちゃになっているのだ。こんな感情をそのまま鉢屋になど伝えられるはずもない。
 もう一度、私はそっと、細く長く息を吐く。心を落ち着かせるように。鉢屋に、心の中を覗き込まれてしまわないように。
 傷ついている心を、少しでも鉢屋から隠すために。
「……ごめんなさい、思ってもないことを言ったわ。なんだか、ずっとおかしくて」
 低く発する。
 言い訳するみたいに、ぼそぼそと呟く。
「忘れてちょうだい。今のはほとんど本心じゃない」
「そういうわけにいくか」
「ごめん、本当にごめんなさい。違うの。私は別に、何も鉢屋に望んでない。だからさっきの言葉は忘れて」
「そんな嘘を私が破れないと、お前はそう思っているのか」
 低く潜めた私の声よりも、さらに低く、鉢屋は吐きだした。唸るような、這うようなその声音に、私は思わずびくりと肩を揺らす。
 暗闇の中で、鉢屋が起き上がる気配があった。怒ってどこかへ行くのかと、そう思った刹那、仰向けになった私の腹の上に、何かが──鉢屋が覆いかぶさる感覚があった。
 はっと息を詰める。かと思えば、次の瞬間には鉢屋の腕が、私の頭の横に逃げられない檻をつくるようにまっすぐおろされた。
 暗がりに茫と、鉢屋の輪郭が浮かび上がる。怒っている──そう直感した。
「さっきの言葉──お前が謝るより前に発した言葉。あれは嘘なんかじゃなかった。掛け値なく、お前の本心だった。そうじゃないのか」
 ごくりと、つばを飲み込んだ。鉢屋の身体が発する熱が、私の上から、横から、まるで私を覆うようにどくどくと感じられる。どくどくと、鉢屋の鼓動が脈打つのと同期するように、私に熱が伝わってくる。
「それじゃあなんだ、お前は夫婦らしいことを私に望んでいるのか。お前は、私に夫として、男を望んでいるのか」
「鉢屋」
「お前は私に、女として抱いてほしいのか」
 その直接的な言葉に、私は言葉を失った。
 女として抱いてほしいのか。
 私は鉢屋に、ひとりの女として愛してほしいのか。
 鉢屋の指で肌をなぞるように撫ぜられ、鉢屋の唇で私の唇を食まれ、鉢屋の手のひらで胸を、腹の下の窪みを愛撫され、そして鉢屋のものを受け容れたいのか。
 抱かれたいのか。私は、鉢屋に。
「はちや、」
「私が何も望んでいないと、そう思うか。私がお前のことを、まったく何とも思わずに妻としてそばに置いていると、本当にそんなふうに思うのか」
「そうじゃない。そうじゃなくて」
「じゃあ、何なんだ。お前は、これ以上私にどうしてほしいんだよ」
 その声を聞いた時、まるで鉢屋が泣いているようだと、不意にそう思った。
 大声を上げて、こどものように泣きじゃくっているのだと。そんな気がした。
 けれど鉢屋は涙など流さない。今までだってこれからだって、鉢屋のまなこは粒の涙を流すことなどきっとない。
 鉢屋が泣いているようだとそう思うのであれば、泣いているのは私の方なのだ。私の心が、きいきいとみじめに泣いている。鉢屋を困らせ、惑わせ、失望させた。鉢屋のやさしさを無下にした。鉢屋をひどく、傷つけている。今もまだ、傷つけている。
「そうじゃない。そうじゃないの。そうじゃないけど」
 必死で弁解しようとする。どうにかしなければと、ただそれだけが頭の中をぐるぐるめぐる。言葉はたどたどしく、何の意味も持たなかった。
 私のように、役立たずだった。

 どれほど長い沈黙だっただろう。暗闇を挟んで、私と鉢屋は随分長く向き合っていた。
 睨み合っているとも見つめあってるとも言えない、曖昧で胡乱で判然としない、そんな空虚な交錯だった。
「……悪かった。かっとなった。今の言葉は忘れてくれよ」
 やがて鉢屋が、ひっそりと吐き出した。緩慢なしぐさで私の上から退くと、そのまま自分の布団へと戻ってゆく。それきり鉢屋は私に背を向けて、けして私の方を見ようとはしなかった。
 ただ、少し経ってから一言だけ、
「私は何も望んでないわけじゃない。もうこれ以上間違えたくないだけだ」
 そう、静かに呟いたきり、鉢屋はそれ以上、何も言おうとはしなかった。
 私も、ぎゅっと目を瞑る。
 あの時、私に跨った鉢屋からは、もう何年も間近に感じることのなかった男のにおいのようなものが、強くつよく、におっていた。

 cave; 洞穴、女

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