nest

 春が来た。
 この冬は一度うっすらと雪が積もっただけで、どかんと積もるようなこともなかった。この頃では暖かな日が続いており、その暖かさのおかげなのか何なのか、鉢屋の肩の怪我もすっかりよくなった。今はもう、怪我をする前と同じように仕事に出たり鍛錬に勤しんだりしている。その回復力にはいやはや恐れ入る。
 今日は鉢屋は仕事だが、夕方には帰ってくることになっている。辻斬りを退治したことで鉢屋には報奨金と何日かの休息が出た。休息の方はほとんど療養に費やしてしまったが、報奨金の方はまだほとんど手付かずで残っている。今晩は、鉢屋の快気祝いもかねて少し奮発する予定で、私は市へとやってきていた。
 道のわきに並ぶ店々を歩いて見ていると、魚屋の前が賑わっているのが目に入った。引き寄せられるようにして、私もそちらへと足を向ける。近所の奥さん方が真剣な表情で品定めをしているのに加わり、私も新鮮な魚を、つぶさに眺めた。
 春になったからか、ついこの間までとは出ている魚の種類もそろそろ変わり始めている。魚屋の前で何にしようかと物色していると、ふと、よく見知った柄の着物を着た男が私の隣に立っているのに気が付いた。
 そのまま視線を顔に上げれば、そこには日々見慣れた顔が、真剣なまなざしで魚を吟味している。
「鉢屋?」
 思いがけず町中で夫に出会ってしまい、うっかり名前を呼んでしまった。呼んでからしまった、と後悔する。仕事中であるはずの鉢屋がこんなところにいるということは、それはとりもなおさず仕事で町に来ているということだ。忍びの仕事中に本名を呼びかけるなど、迷惑千万な行いである。
 慌ててその場を離れようとする。けれど、去り際にもう一度、謝罪の意をこめて鉢屋の顔を窺い見ると、鉢屋はいつになくきょとんとした顔で私をじっと見つめていた。鉢屋らしからぬ邪気のない瞳に、私は思わず釘付けになった。
「鉢屋じゃ──ない」
「苗字……?」
「不破……」
 目を見合わせ、お互いぽかんと口を開ける。
 そこにいたのは鉢屋のそっくりさん──もとい、鉢屋が日ごろ姿かたちを模している相方にして、私のかつての知人、不破雷蔵だった。

 不破と私の間には、鉢屋との間に存在した因縁ともいうべき、強固な縁のようなものは存在しない。良くも悪くも、私と不破は同じ忍術学園の同学年程度の関係でしかなかった。不破は優等生だったから、もしも鉢屋と出会うより先に出会っていれば、私のライバルは鉢屋ではなく不破になっていたのかもしれない。
 しかしながらそんな存在しなかった「たられば」を語ったところで、今となってはまったくの無意味だろう。何より不破では人が良すぎて、私が意地になって張り合うこともなかったはずだ。
 とにかく、不破と私はあくまでも鉢屋を挟んでの関係しか築いてこなかった。だからこうしてふたりきりで言葉を交わすというのは、知り合ってからの長い期間のなかでも、実はこれがはじめてのことだった。
「この辺りに住んでいるのは知っていたからもしかしたらいずれ顔を合わせることもあるかもとは思っていたけれど、実際にこうして顔を合わせるとなんだか不思議な気分だなあ」
 町のすぐそばにある寺の石段に揃って腰をおろすと、不破が早速にこにこと切り出した。すぐそばには不破が先程の魚屋で買ったばかりの魚の包みが置かれているが、この気候ならばそう急いで帰宅せずともそうそう腐りはしない。
 のんびりとした口ぶりで話しかけてくるその様子は、昔と変わらず人がよさそうで穏やかだった。見る者を安心させる柔和な笑みは、何も知らない人間が見れば彼を忍びだなどとは思うまい。
「三年ぶりだっけ?」
「四年よ。私、五年生で退学したから」
「そっか。そうだった」
 不破が笑う。その適当さに、つい釣られて私も笑った。
「ところで、不破は今日は休みなの?」
「うん」
「そう。双忍でも休みが違うこともあるのね。鉢屋は仕事と言って出ていったけれど」
 別に鉢屋が仕事と偽ってどこぞに出掛けているだとか、そんなことを疑っているわけではない。ただ、鉢屋は不破とともに双忍として取り立ててもらっている以上、どうしてものとき以外は不破と一緒にいるのだろうと、そう漠然と思っていただけだ。こうして別々に行動しているというのは、私にとっては多少意外だったというだけである。
 とはいえ鉢屋も不破も、昔から優秀な忍たまだった。双忍として売っているのはその方がより仕事の成果がはかばかしいというだけで、個人での仕事であっても相応の成果は出せるのだろう。
 私の言葉に不破は眉を下げた。
「そりゃあ、まあ。というか三郎はこの間手柄を立てたことで殿に呼ばれてるはずだけど……えっと、その辺の話は聞いてる?」
「手柄というと、辻斬りのことかしら。それなら聞いてる」
「そうか、三郎ちゃんと話してるんだ」
 不破が表情をゆるめた。けして悪い意味でとられたわけではなさそうだが、一応、
「心配しなくても、普段は仕事の話なんて一切しないわよ。私は鉢屋の仕事のことはほとんど何も知らない。不破と双忍として働いているということくらいしか」
 と付け足しておく。不破はへんにゃりと笑って、
「大丈夫、三郎に限ってそんな心配はしてない」
 と、鉢屋への信頼を示してくれた。

 それから暫く、取り留めもない話をした。
 不破は私が忍術学園を去った後、彼らが五年と六年でどんな課題をこなしたかとか、その間に忍術学園で起こった様々な事件の話を、まるで昨日のことのように臨場感たっぷりに語って聞かせてくれた。いずれも、鉢屋が触れたがらない「空白の四年」の間の出来事である。
 退学後は忍術学園とも、そこでできた友人ともまったく縁のなかった私にとって、不破の話は懐かしくもあり、同時に少しだけ切なくもあった。嫁入り自体は仕方がないことだと分かっていても、忍術学園に六年で卒業するまで通えなかったことだけは、心残りといえなくもない。
 不破からの話のお返しに語ることができるような愉快な話の持ち合わせは私にはない。仕方がないので、共通の知人であるところの鉢屋との話をさらりと語るにとどめた。何もかもを赤裸々に語ったりはしないが、鉢屋のひねくれたところの話や面倒な癖の話なんかは、六年間鉢屋の同室をつとめ、現在もまだ仕事上の相方をつとめている不破から、おおいに共感を得た。
 私の話にひとしきり笑った不破は、目許に滲んだ涙を指の腹でそっと拭うと、
「それにしても、夫婦(めおと)になって暫く経つというのに、苗字はまだ三郎のことを『鉢屋』って呼んでるんだね。今は君も鉢屋なのに」
 と、まだ声に笑いを滲ませながら言った。
 実は呼び方のことについては、私もひそかに気にしていた。夫婦となった今も流れで「鉢屋」と呼んでいるが、だからといって世間の夫婦からしてみればこれが普通でないことは、さすがに私も理解している。
 一度結婚した身としては、できることならば前回の結婚のように、できる限りは「ふつうの夫婦」らしくしたいと思う。しかしその反面、鉢屋がそれを望んでいるわけではないということもまた、薄々察している。
 どこに落としどころを見つけるか決めあぐね、結果として昔のまま今も「鉢屋」と呼び続けている。
「抜けないのよ、昔の癖が。それに、一度だけ『三郎さま』って呼んだら鉢屋にも気味悪がられた」
「三郎らしいよ」
 私の溜息まじりの言葉に、やはり不破は笑うばかりだった。こういうところは、鉢屋とは似ても似つかない。鉢屋ならばなんだかんだと余計なことを言いそうなものである。
 突如として脳裏に出現した「余計なことを言う鉢屋」に顔を顰めていると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。不思議に思って不破を見ると、不破は先ほどまでの面白がるよな笑みとは違う、何とも形容しがたい笑顔を浮かべていた。
 嬉しそう、とでもいうのだろうか。
 しかし私には、不破を嬉しくさせるようなことをしたおぼえはない。考えてみたところで、心当たりはまるで思い当たらなかった。
 そんな私の疑問に答えるように、不破は小さく咳払いをして笑みを散らすと、
「なんか、ほっとしたんだ」
 と、そっと教えてくれた。まるで秘密を打ち明けるような声音に、なんとなく私も声をひそめ、
「何に?」
 と返す。
「苗字が、普通に三郎と生活してくれて」
 不破は、ごく自然に──けれどそれがとても大切であることかのように、そう言った。
「苗字と三郎が、自然に、ふつうに仲良くしてくれていて、僕はそのことにほっとしたし、そのことが嬉しいんだ。すごく」
「不破ったら、なんだか変なことを言うのね。私だって鉢屋だってもういい大人なんだから、そりゃあ昔みたいに競い合ったり喧嘩したりしないわよ」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
 いまいち不破の言っている意味を理解できずにいる私に、不破はそれでも、物分かりの悪いこどもにするように、やさしく噛んで含めるよう説明する。
「僕はまだ結婚もしていないし、男女のことだって詳しいわけじゃないけれど……ただ、前の旦那さんのもとで苗字が幸せそうだったことは知っているから。だから、今こうして三郎と新しく生活をはじめて、それでお互いにぎくしゃくしていないかなって、ちょっと心配だった。三郎、あれで結構気を遣うし」
 そこまでかみ砕いて説明されれば、察しの悪い私でも不破の言わんとするところを理解することができた。不破が懸念していたのは、ただ鉢屋と私の古くからの仲のことだけではないのだ。
 この四年間、私には私の、鉢屋には鉢屋の四年間があった。私はひとの妻となり、鉢屋の知らない変化を受け容れた。私がどうあがいたところで、鉢屋がどう思ったところで、すでに変わってしまったものを取り返すことはできない。私が鉢屋に対してかつての鉢屋に対するのとまったく同じようには接することができないように、鉢屋もまた、きっと私の変化を感じている。何も言わないだけで、何かしらは思うところはあるのだろう。
 それでも、表向き私と鉢屋は「ふつう」に暮らしている。
 不破に言わせれば、それはきっと「健全」だ。互いの四年間を見て見ぬふりをすることも、何もかもを開け広げてぎくしゃくとするよりはずっと「正しい」。
 その感覚は、少しだけ分かるような気がした。そして鉢屋はきっと、その正しさを信じている。
 私には少しだけ分かる程度のことだが、鉢屋と不破の中ではそれは共通の正しさなのだろう。なるほど、これが六年間の学園生活を共にし、卒業してもなお相棒として支え合う人間同士なのか──素直にそう思う。
 しかしそれと同時に疑問がひとつ、ぷかりと泡のように胸に沸き上がる。
「どうして不破が、私の以前の結婚のことを知っているのよ?」
 不破の言葉にはひとつも間違いはない。私は四年前、以前の夫のもとで慎ましくも幸福な日々を送った。胸の中に常に罪悪感のようなものを抱き、鉢屋の物言わぬ視線を感じながらの日々ではあったが、それでもあれらの日々はやはり、幸せだったというよりないのだろう。その幸福があったからこそ、私は忍術学園に未練を残さずに生きることができた。
 けれど、私は退学と同時に忍術学園とは何の縁もなくなったはずである。くノ一教室の友人とすら連絡をとりあっていなかったのに、何故不破が、そして鉢屋が、退学後の私の生活ぶりを知っているのか。
 こういってはなんだが、以前の夫は穏やかさとやさしさだけが取り柄のような人柄であり、彼が私の知らないところで忍術学園とつながっていたとは考えにくい。
 不破は、暫し悩まし気に視線を彷徨わせていた。
 どうやら私の前回の結婚について、不破は元々、私には何も話すつもりはなかったらしい。となると、先ほどの一言は完全に失言だったのだろう。気を緩ませ、うっかり口を滑らせた。そしてその失言を私に気付かれてしまったと、そういうことだろう。
 しかし、こればかりは聞かなかったことにするわけにもいかなかった。ほかのことならばいざ知らず、他ならぬ自分のことである。場合によっては忍術学園の監視の目がついていたという可能性もある。そういう話は今までにもまったく聞いたことがないわけではなかったが、まさか自分がその対象になるとも思えない。
 四年前のこととなれば今はもう時効だろう。自分の身にかかわることである以上、何としてでも不破から話を聞きだしたかった。それに鉢屋が絡んでいるのならば尚更だ。

 nest; 巣、ひとそろい、大事にしまう

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