virtue

 奇妙に落ちた沈黙が気まずくて、
「刀傷ね」
 と、私はそんな毒にも薬にもならないようなつまらないことを言った。鉢屋に包帯を巻き終え、床に就くための寝間着を手渡す。傷が痛むのか、鉢屋が緩慢なしぐさでそれを受け取った。
「斬られたっていうのに死なずに済んでよかったわね」
「それだけか?」
 不意に、鉢屋が声をひそめた。先ほどまでのゆるりとした声音とは違う、その低く固い声にほんの一瞬、私はぎくりとした。
 何か悪いことを言っただろうか。
 あるいは、何か正しいことを言わなかっただろうか。
 どきどきとしながら、私は鉢屋にそろりと視線を遣る。
「それだけって?」
 慎重に尋ねる。けれど鉢屋は、
「実際のところはもっと色々、聞きたいことがあるんじゃないか」
 と、短く尋ねただけだった。ただ、振り返った鉢屋の眼が、まっすぐに私を射抜いていた。
 久し振りに鉢屋の試すような視線に晒され、私の胸がにわかに疼く。ここのところはすっかり忘れていたあのまなこが、眠りから覚めたかのようにきょろきょろと私の胸の中を検めて回る。
 そのまなこを見ないようにしながら、私は鉢屋の真似をして目を細めた。
「忍びの夫相手に忍務の内容をつまびらかにしろだなんて、そんな無茶は言わないわよ」
 というよりも、そういうことを言いださないからこそ、鉢屋は私を妻にと選んだのだろう。その辺りの分は弁えているつもりだ。
 私がそう言うと、やはりというべきか、鉢屋はにやりと笑った。
「さすがに元くのたまは話が早くて助かる」
「お褒めに与り光栄です」
「まあ、といっても今回のことは言えないような仕事じゃない。例の辻斬りがいただろう。あれ絡みさ」
 軽い口調で流すように話す鉢屋だが、その言葉に私ははっとした。
 もう長らく城下を騒がせている辻斬りの退治に鉢屋たち城付きの忍びまでもが駆り出されているということは、以前にも鉢屋から聞いたことがあった。
 その辻斬り絡みということは、まさか鉢屋はその辻斬りにやられたのだろうか。仕留めるつもりが返り討ちにあったのだろうか。
 胸中に渦巻く不安な気持ちが表情に出ていたのか、見かねて鉢屋が苦笑した。
「そんな顔をするなよ。大丈夫、仕留めたよ。ほとんど相討ちのようなものだけど」
「そう……よかった」
 ひとまずは、そう答える。
 とはいえ鉢屋がこうして深手を負っている以上、本音を言えば、私にとってはけして「よかった」とは言い難い。それでも、城下を騒がせた不届きものが仕留められたということに関してだけは、やはり純粋にほっとした。そんな大捕り物に関わりながら鉢屋が一命を取り留めたことにも、同じようにほっとした。
 鉢屋が「言えないような仕事じゃない」と言ったのは事実らしい。着替えを手伝いながら、私は鉢屋の口から、事の顛末とその詳細を聞くことができた。
 曰く、そもそも鉢屋に召集がかけられたのは、此度の辻斬りとはまったく別件でのことだったらしい。不破とともにその仕事を終えたのが一週間ほど前。それから報告書なり何なりを書くついでに、自分が碌な説明もないまま家を出てきたことを思い出し、私に無事を伝える文を出したとのことだった。
 ここで鉢屋が帰宅せずにわざわざ文を寄越したのは、城内が何となくざわついていて不穏な空気だったためらしい。家に戻るような余裕はないかもしれないと、鉢屋はそう判断した。
 そしてその判断は正しかった。それからすぐにくだんの辻斬りの居所が分かり、腕の立つもの数名で辻斬りを討ちに出ることになったのだ。たったひとりの辻斬り相手に数名がかりだったのは、相手が相当の手練れであったためと、潜伏場所と目される場所が複数だったためだ。
 そして、鉢屋と不破が送り込まれた先に辻斬りはいた。双方深手を負いながらも、最終的には鉢屋が辻斬りを討ち、片が付いたということだった。
「一応、表向きに彼奴を仕留めたのは随伴していた武家の御仁ってことになっている。忍びが大っぴらに活躍するよりはその方が何かと都合がいいしな。が、まあ殿は実際の報告を私と雷蔵から受けているから、そのうち私にも何かしらの報酬が出るだろう。よかったな」
 呑気にそんなことを言う鉢屋を、私は思わずきっと睨んだ。
「何をいいことがありますか。まったく、どうせ鉢屋のことだから『心配するな』なんて文を送った手前、斬られたことが恥ずかしくて帰るに帰ってこられなかったんでしょ。見栄っ張りで嫌になる」
「お前、この傷を見てよくそんなことが言えるな……これでも無理を押して戻ってきたというのに。あまり長く家を空けるとお前に心配を掛けるかと」
「おあいにく様でした。ご心配いただかなくても私は鉢屋の心配なんか、ちーっともしてなかったわよ。どうせならもっとゆっくりしてこればよかったのに」
 心とはうらはらな言葉がついつい口をついて飛び出してくる。しかし今更、鉢屋を相手に殊勝な素振りを見せるつもりもない。素直に心配したところで、鉢屋からどんな馬鹿にしたような皮肉が飛んでくるかなど分かったものではないからだ。
 つんけんとした態度で鉢屋を着替えさせると、軽く鉢屋の背中を叩いた。傷に障らない程度にとどめたが、そんな気遣いをするまでもなく、鉢屋はひらりと私の手を避けて見せる。先ほどよりは具合がよくなったらしい。
 その鉢屋は、手をよけたついでに私を指さし口を尖らせる。
「まったく、可愛げのない……。それじゃあ聞くけどな、お前のその恰好はなんだ? 用もないのにきっちりめかしこんだりして。どうせ私の安否が心配でいてもたってもいられず、城にまで乗り込んでくるつもりだったんじゃないのか?」
 思わず言葉につまった。図星である。
 が、そんなこっ恥ずかしい事実をまさか認めるわけにはいかない。
 私はあたりに散らばった包帯や着替えを手早く回収しながら、
「なっ、ば、そ、そんなわけないでしょ! これは実家に帰るつもりだったのよ!」
 と力いっぱい反論した。鉢屋が口角を上げる。
「ほー、そうかそうか。それなら私に構わず行ってこい。なに、私はここで一人で寝ているから」
「そうしたいのはやまやまよ。でもね、弱り切ってふにゃんふにゃんの鉢屋を置いてきたなんて母上に聞かれたら、どうせ物凄い剣幕で追い返されるもの。だから今日のところはやめておくことにする」
「そうかそうか。いや、そうかそうか。まったく悪いな、私なんかのためになあ」
 何もかも見透かしたような鉢屋の態度が癪(しゃく)で、私は腹立ちまぎれにぷいと顔を背けた。まったく、この男はいつだって私の一枚上手で嫌になる。
「洗濯もの、玄関にある分だけよね? 片付けてくるから安静にしていてちょうだい」
「すまないな、頼む」
 そう言って鉢屋は、のっそりと布団に寝そべった。何気ないように振る舞っているが、やはり傷が痛むのだろう。よくよく見ていると右肩を庇うような仕草を、そうと気取られない程度に挟んでいる。
 ──安静にしてから帰ってこればよかったのに。そうでなくとも、無事を伝える文で済ませるとか、遣りようはあったでしょうに。
 鉢屋の無茶に溜息をつく。けれどその時ふと、先刻の鉢屋の言葉が脳裏によみがえった。
 ──これでも無理を押して戻ってきたというのに。あまり長く家をあけると心配を掛けるかと。
 鉢屋はたしかにそう言った。先ほどはかっとして聞き流したが、よくよく考えるまでもなく、鉢屋は私のために無茶をして家に戻ってきてくれたのだ。
 何も聞かされずにこの家でやきもきしているであろう、私のために。
 そのことに気付いた途端、まるで胸の中で突風が吹き荒れたような、ざわざわとして落ち着かない気持ちになった。鉢屋が私のことを思って、私のためにこの家に戻ってきてくれた。その事実が、うまく落ち着く居場所もないままに胸の中でぐるぐると暴れている。
 ──鉢屋が。
 鉢屋が、私のために。
 そう思うだけで落ち着かなくて、据わりが悪くて、居心地が悪いような気分になる。それなのに不思議と、それは嫌な感覚ではなかった。むしろじわりと心地よくすら感じられる。
 泣きだしたくなるくらい、嬉しかった。
 ──そうだ、嬉しい。私は今、嬉しいんだ。
 こどものように、たったひとつの感情をじっくり噛みしめる。嬉しい。私は嬉しい。鉢屋が、私のためを思ってくれたことが、この上なく嬉しい。
 鉢屋はもう、私に背を向け安静にしている。その背中に向かって、私はそっと声を掛けた。
「鉢屋」
「なんだ?」
「おつかれさま。それから、ありがとう」
「仕事だからな。礼には及ばない」
 低く掠れた声が、照れているようにも苦しんでいるようにも聞こえた。

 virtue; 善行、美徳、貞操

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