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 忍術学園に入学してすぐの頃から、私は鉢屋三郎という男のことを常に意識していた。
 忍術学年でも低学年のうちは、忍たまよりくのたまの方が優秀だったり、腕が立つものも多い。何故かといえば、そもそも忍術学園に入学するほどのおなごであれば生来負けん気が強く、また男顔負けの力自慢だったりするおなごが多いからだ。体格的にもこの頃は男と大差なく、場合によってはおなごの方が発育が早い分だけ上背があったりもする。
 私もまた、そういう類の娘だった。
 昔から癇(かん)が強く、なよなよとした一種のおなごらしさのようなものが嫌いだった。くの一の道を志しはしたものの、だからといって色を武器に使うようなことをしたいとはつゆほども思わなかった。
 ただ、腕を磨き、学を修め、精神を鍛える。
 やがては男である忍たまに通用しなくなると分かっていても、今だけは負けじと張り合っていきたいと、そう思っていた。
 鉢屋三郎は特別なこどもだった。
 詳しい出自は知らない。忍たまとくのたまの間には、はっきりと目で見ることはできないながらも明確な線のようなものが引かれており、鉢屋に限らずよほどの有名人でなければその素性をくのたまが知ることはない。
 鉢屋の場合、有名は有名だった。けれど彼は、自身の出自を同輩である忍たまにも明かしていなかった。優秀な忍びとしては正しいふるまいなのだろうが、しかしわずか十のこどもにしては随分と可愛げがないのもまた事実であり、だからやはり、鉢屋は特別であり、異端だった。

 忍術学園に入学して一か月ほど経ったある日のこと。私は忍たまとくのたまが共同で使用している学園内の鍛錬上で、たまたま鉢屋の姿を見かけた。これまでにも学園内ですれ違ったことはあったが、お互いにひとりきりだったのはそれがはじめてのことだった。
 学園内には公私を問わない鍛錬場がいくつかあるが、下級生が使用できる箇所は限られている。逆に、下級生が使用する鍛錬場は上級生が荒らさないのが暗黙のルールだ。その時鉢屋と私がいたのは下級生用の鍛錬場で、拓けた砂地に手裏剣術の練習用の的がいくつか用意されていた。下級生用の鍛錬場なので的までの距離はそう遠くなく、障害物も設置されていない。見通しのいい場所だった。
 手裏剣術の練習でもしていたのか、鉢屋は学園の備品である手裏剣を片付けているところだった。私はたまたま通りがかっただけだった上、鉢屋とは一言も言葉を交わしたことはない。
 それでも、臆すことなく、鉢屋に近づいた。
「あなたが鉢屋三郎?」
 無遠慮に近づき声を掛けた私に、鉢屋は年不相応な面倒くさそうな視線を投げて寄越した。頭巾の下にのぞくこどもらしい丸い顔には、いきなり話しかけてきた私に対する不審の色がありありと浮かんでいる。
「そうだけど、そういうあんたは誰だ? くのたまの一年か」
「そう。苗字名前よ」
 短く名乗った。鉢屋は眉ひとつ動かさない。
 かまわず私は続けた。
「山本シナ先生に、今年の一年にすごく優秀な忍たまがいると伺ったの。鉢屋三郎という忍たま。それでどんな顔をしているのか見に来たのよ」
 本当は鉢屋の顔は知っていたし、話しかける機会をずっと待っていた。けれどなんとなく、いきなり話しかけた側として多少格好つけたくて、私はそんなことを言った。
 鉢屋はそんな私の見栄のようなものも恐らく看破していただろうが、そのことについて特に何か言うこともなく、
「へえ、そいつはご苦労なことで。だが生憎、私のこの顔は同級生の顔だぞ」
 と、やはりぞんざいな口調で言った。
「それも知ってる。変装名人なのでしょう」
「そこまで知ってもらえてるとは、感動で涙が出そうだ」
 鉢屋が鼻で笑った。
 その時の鉢屋は不破という、同じ忍たま一年の顔をしていた。しかし不破は先ほど、水飲み場でほかの一年生と一緒にいるのを確認している。同じ人物がふたりいる、そして片方が本物であることが分かっている以上、ここにいる不破が鉢屋であることは間違いなかった。
 一年生ながらに見事な変装だと思う。さすが変装の名人の山本シナ先生が名指しで褒めるだけのことはある。
 しかし私は、鉢屋に感心するために声を掛けたのではなかった。鉢屋の名前を呼んだのには、私にとってはもっと重要な用件があるからだ。
「鉢屋、私と勝負をして」
「勝負ぅ?」
 途端に、鉢屋が胡乱な目を私に向けた。先ほどまでのただ面倒くさそうな視線ではなく、もっと具体的に「厄介な」とでも言いたげな、そんな視線だった。鉢屋は見るからに私を厄介な女だと思っている。
 けれどそれこそ、私には関係のないことだった。鉢屋にどう思われようが、私には知ったことではない。私にとって大切なのは、同学年の忍たまで誰が最も優れているかということだった。
 今にして思えば何ともこどもじみた意地である。
 当時の私は、入学してすぐにも関わらずほかのくのたまたちよりも頭一つ抜けた成績を出していた。今から思えばその成績の差は、ただ行儀見習いで気楽にくのたま生活を送っているか、それとも私のようにがつがつとしていたかの違いでしかなかったのだろう。
 行儀見習いで入学してきたおなごたちは、別に手裏剣を上手に打てなかろうが、兵法に精通していなかろうが、そんなことはまったく問題ではない。自分の人生に不必要なことに無駄な労力を注がないだけ、彼女たちは私などよりもずっとずっと、おなごとして賢く立ち居振る舞っていた。
 が、そんなことすら当時の私には分からなかった。周囲よりも優秀であるという、結果だけを見ていた私は、見苦しくも増長していた。
 己がもっとも優秀であると、そうであるはずだと頑なに信じていた。
「勝負の方式は鉢屋、あなたに任せるわ。好きな方法を選んでくれてかまわない」
 いかにも高慢ちきな物言いは、多分鉢屋にとっても鼻持ちならないものだったに相違ない。しかし鉢屋は意外にも、顔を顰めながらも
「そんな勝負をして、私に何かメリットはあるのか?」
 と一応は話を聞く態度を示した。私は頷く。
「鉢屋が勝ったら、食券三枚」
「お前が買ったら?」
「仮面の下の素顔を見せてちょうだい」
 そう答えた。
 本当のことを言えば、私は鉢屋の素顔になど微塵も興味はなかった。しかし入学以来、鉢屋は誰にも仮面の下を見せたことがないという。だからそういう条件を出せば、否が応でも本気を出すに違いない──そう考えていた。勝負をする以上、本気の勝負をしなければ意味がない。あとから「くのたま相手だから手を抜いてやった」などと言われるのは心外だった。
 私の出した条件に、鉢屋は眉をひそめる。
「それはちょっと、いや随分とそっちに都合がよくないか」
「素顔を見せるのが嫌だというのなら、勝てばいいだけの話でしょう」
「おいおい、勝負を受けてやるかどうかは私が決めるんだぞ」
「受けなさいよ」
 何とも自分勝手な言い分である。大人になってから思い出すと、まったく恥ずかしくて顔から火が出そうだが、しかしその時分はそういう振る舞いをすることで自分の優位を保とうとしていたのだから浅はかだった。幸いにしてそんな態度をとったのは鉢屋相手だけだったが、それでもやはり、何とも苦い思い出である。
 ついでに言えば、その頃の名残で今も私は鉢屋に対して高慢な態度をとってしまうことが無きにしも非ずなわけだが、それはまた別の話である。
 ともあれ、そんな高慢ちきで鼻持ちならない女であるところの私を、鉢屋は暫し吟味するようにしげしげと眺めた。
 そして、
「そうだなあ、まあ暇つぶしくらいにはなるか」
 と、私に負けず不遜なことを口にして、つかつかと私の眼前へと歩み寄った。近くで相対すると、私の方が鉢屋よりもほんの少しだけ身長が高い。十の頃の鉢屋は、けして小柄というわけではなかったが、それでもまだまだ子供らしい体格をしていた。
「おい、お前」
 鉢屋が私を呼ぶ。
「苗字よ」
 最初に名乗った名前を、私はもう一度名乗った。しかし鉢屋は私の名乗りを無視して、そのまだ小さな手のひらを開き、ずいっと私に差し出した。
「食券三枚じゃ足らない。五枚だ」
「……そんなにふんだくってどうするのよ」
「友達にご馳走してやる分だ。分け前は仲間内で等分する方がいいだろ?」
 すでに勝負に勝ったようなことを言う鉢屋は、やはりふふんと勝ち誇ったように笑った。その不敵な笑みに私の中のボルテージがむくむくと上昇してゆく。
 実家が貧乏武家の私にとって、食券五枚はけして易々と賭けに出せるような代物ではなかった。まして、まだ十の頃の話だ。身体も小さければ胃の腑も小さい。食べ溜めることなどできるはずもない。
 しかし、ここまで言われて渋っていては女が廃るというものだ。大体、勝負を吹っかけたのは私だし、私とて負けるつもりは毛頭なかった。
 鉢屋の言い分を、私は受け入れた。
「分かった。それでいいわ。それで、勝負の方法は?」
 相対する鉢屋は体格では私に劣る。となれば、知略を巡らせるような勝負を仕掛けてくるだろう──そう私は予想した。知略を巡らすというのは、何も学科の試験だけの話ではない。たとえば借り物競争だとかかくれんぼだとか、一見すると子供の遊戯のようなことですら、忍者の学校の中では知略を用いた課題になりうる。
 天才鉢屋がどのような難題を吹っかけてくるのか、私はじっと鉢屋を睨んで待った。
 ややあって、鉢屋は言った。
「うーん。あ、お前、手裏剣術は得意か」
「……まあまあ」
「その顔、大得意なんだな」
 呆れたように鉢屋が言った。どうやら顔に出ていたらしい。
 鉢屋に指摘された通り、手裏剣術は私の得意とするところだった。くのたまの一年生の中ではもちろん、こと手裏剣術のみに限って言えば、その実力は二年生の一部にすら匹敵する──というのは先日授業で教えてくださった山田伝蔵先生の言である。山本シナ先生はあまり生徒を褒めることはなく、だからシナ先生からは「その調子で励みなさい」と微笑みかけられただけである。
「じゃあそうだな、折角だから勝負の方法はお前の得意な手裏剣術にしよう。ちょうど前の授業で私も手裏剣術を習ったところだ。あの木の幹に的が掛かってる。三投してその結果で決めるというのでどうだ」
 すらすらと勝負の方式を鉢屋が説明する。
 しかしそれは、私にとっては甚だ納得できるものではない。慌てて私は鉢屋を止めた。
「待って。前の授業って言った? じゃあ鉢屋、あなた手裏剣術を習ったばかりなんじゃないの?」
「ん? そうだけど。昨日習ったばかりさ。だからこうして自主練習に来た」
 不思議そうに鉢屋が首を傾げる。私が何故異を唱えているのか、まったく理解できていないらしい。馬鹿にされたような気がして、私はむっと眉頭を寄せた。
「それじゃあいくら何でも私に有利すぎるわよ。あなた、ほかの方法になさいよ」
「なんだ? 私に勝ちを譲ってくれるつもりがあるのか」
「そういうわけじゃないけど、あまりにも私に有利な条件で勝負をされても、後味が悪いでしょ。どうせならもっと公正な勝負を求めるわ」
「公正ねえ。忍者にそんなものは求められないと思うけど」
 そうぽそりと零し、それから鉢屋はにやりと笑った。
「まあ、いいさ。一度やってみようじゃないか。なに、私だってさっきの自主練習でコツはつかんだ。そこまでひどい結果にはならないと思うよ」
「……泣いても知らないわよ」
「おお、怖や。お手柔らかに頼んだ」
 鉢屋がおどけて目を細めた。

 果たして、結果は私の惨敗だった。
 私の膨らんだ自意識は、そこでぱちんとはじけて潰れた。いや、潰された。鼻っ柱を折られたとでも言おうか。とにかく惨敗だった。
 先に打った私の手裏剣が三投とも的の中心部に刺さったのに対し、後から打った鉢屋の手裏剣は、いずれも的のど真ん中──たった一点のみをきれいに打ちぬいた。
 実力の差は歴然であった。
 私に勝利した鉢屋は、約束通り私から五枚の食券をまきあげると、そこで呆然としている私になどもはや一瞥もくれず、さっさとその場を立ち去ってしまった。それはまるで鉢屋にとって、私などもはや顧みる価値もないと言われているようで、驕っていた私にとっては横っつらを引っぱたかれるよりも衝撃的な、そんなひどい屈辱だった。
 それが私と鉢屋のもっとも古い記憶であり、思い出である。
 以来、私は何かにつけては鉢屋と競い、鉢屋は鉢屋でその都度食券だったり掃除当番だったりと、なんだかんだ勝負にかこつけて私に厄介事を押し付けた。私が勝負に勝ったことは一度としてなかったが、鉢屋が私との勝負を避けたこともまた、一度もなかった。
 天才鉢屋の背中を追うことで私の実力はめきめきと向上し、気が付けばくのたまの中でも近年では類を見ない才媛と呼ばれるようになった。鉢屋にとってはメリットがあったのか分からない勝負ばかりだが、嫌がられてはいないことだけはたしかだった。
 そんなことが五年間ほど続いた。
 そしてある日ぷっつりと、まるで糸が切れるように終わった。私と鉢屋の最後は、あの中庭での短い会話である。たったあれだけの会話が、私たちの五年間の幕引きになった。

 忍術学園を退学してからの四年間、私は鉢屋と顔を合わせることもなく、人の妻をつとめ、婚家の娘をつとめ、そして一時のやもめを経て、今再びこうして人の妻などしている。
 鉢屋の、妻をしている。
 四年の歳月を経てまたしても鉢屋と共に在る私だが、しかしあの頃と今とでは、何もかもが違う。
 もはや鉢屋は私と何かを競うこともない。
 鉢屋が私に対して何かを望むこともなく、厄介事を押し付けることもない。
 あの頃、けして私と鉢屋は仲が良かったとはいえない。私が鉢屋に抱いていた感情を、きっと鉢屋は知らない。私自身、あの感情がはじめて抱いた思慕だと気が付いたのは忍術学園を去ってからだった。
 私の初恋は自分の知らぬ間に始まり、そして潰えた。たとえ今、初恋の相手である鉢屋と夫婦になったからといったって、私にとってのあの右も左もおぼつかぬ気持ちが成就したとは、とても言えなかった。
 今の鉢屋はあの頃の鉢屋ではない。
 今の私はあの頃の私ではない。
 あの頃、限りなく細く不確かに、それでいてたしかに心を通じ合わせた友人同士だった鉢屋と私はもいない。夫婦となった今、あの頃よりもずっと鉢屋との距離は近いはずなのに、今の私にはもう、鉢屋が何を考えているのか分からなかった。

 半刻ほどじゃれるようにして鉢屋と組み合い、やがて疲れたので下山した。
 帰り道、鉢屋はどういうわけか何も言葉を発しなかった。私もまた、言うべき言葉を見つけられず、ただ黙々と鉢屋の後ろをついていった。
 あの頃と今とでは何もかもが違う。夫婦となった私と鉢屋の、互いの岸辺は遠い。

 even;平坦、滑らか、吊り合いのとれた

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