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 翌朝早く、宿を出た。
 以前の諍(いさか)いの日と同様に、今日の鉢屋もまた、昨晩の奇妙な遣り取りなどなかったかのように振る舞っている。私はといえば、結局あの後ろくに寝付くこともできず、ようやく眠れたのは明け方近くになってからだった。そのおかげで目蓋は重いし足もずるずると重たく感じる。かつてくノ一教室に通っていた人間とは思えないような体たらくではあるものの、しかし忍術学園を退学して四年も経っているのだから、今の私が一般人と同じような体のつくりをしていることは仕方のないことである。
「このままのペースで歩けば昼過ぎには海につくな」
 横を歩く鉢屋が言う。不破と同じ、毛量の多い髪を風にそよがせ目を細めた。風に含まれる潮のにおいは、昨日よりも一層濃くなっていて、それがいよいよ私たちが海に近づいているのだと私に実感させる。
「なんだかどきどきしてきた。溺れたらどうしよう」
「そう深いところまで行かなければいいだけだろう。第一、泳ぐ支度もしていないじゃないか」
「それは……たしかにそうだわ」
 海というものを話しの中でしか知らない私は、ここまできてようやく「海とは如何なるものだろう」ということを考え始めていた。もちろん、これまでも幾度となく考えたことはあるけれど、なんとなく塩水が寄せては返す途方もないもの、くらいの認識で満足していた。自分には縁のないものだと思っていればこそ、想像力を働かせることもなく、ただ「そういうもの」と納得することができていた。
 果たして、海とはどういうものなのだろう。しょっぱくて大きくて、貝や魚が山ほど泳いでいるのだろうか。得体のしれない何かが海底深くい身を潜めていて、船も人ももろとも食らうということは本当にあるのだろうか。
「波に攫われたらどうするのが正しいのかしら。どうしよう、こんなことならば臨海学校に行けばよかったかもしれない」
「お前、海を見るのにそこまでテンパってどうする……見るだけだぞ、見るだけ」
「こ、子供じゃないんだから分かっているわよ」
 とはいえ、自分の正気がだんだん失われていくような気がしているのは事実だった。鉢屋に「あんまり期待しすぎるなよ」と言われても、胸の内で期待と不安がない交ぜになった感情がどんどんと膨らんでいってしまう。昨晩感じた言い知れぬ恐ろしさも忘れ、私は一時、まだ見ぬ海へのふわふわとした感情に身体の内側をたっぷり満たされてしまってた。

 そして、その瞬間は唐突に訪れた。
 海に続く森を抜けると、ある瞬間、突然視界が開ける。その先に広がっていたのは、銀色にぴかぴか輝く、果てしない水の盆だった。
「うわあ……」
 思わず、声が漏れた。
 曇りがちの天気のためか、海の果てと空の境界が白んで曖昧になっている。どこまでが海でどこからが空なのかも分からないような風景は幻想的というよりもどこか夢の中の風景のようであった。知らず識らずのうちに、私はその境目に手を伸ばす。おそらく境界だろう場所を指でなぞるように宙を指で切ると、鉢屋が「何をしているんだ」と苦笑した。
 そのまま、さらに海まで近づいてゆく。沖に船が何艘か浮かんでいるのが見えた。朝の海岸には人の気配はない。恐らくみんな漁に出た後なのだろうと、鉢屋が教えてくれた。
 適当な大きさの流木を見つけ、その上に腰掛ける。まだ気が抜けてしまったように海を眺める私を、鉢屋がいつものようににやにやと笑った。
「はじめて海を見た感想は?」
「大きい」
「お前、そんな分かり切ったつまらん答えを」
「きらきらしてる……それに大きい……。すごい、これ、ずっと海なのね。あの先、見えなくなった後もずっと、どこまでも」
「ああ、そうだよ。水平線の先もずっと、海は続いているらしい。まあ、私もそこまで行ったことはないんだけど」
「すごいのねえ……」
 そんな言葉が、自然と胸の中からこぼれた。
 これまでの人生で、私は一度も海を見たいなどと思ったことはない。そんなものは見なくても生きていけるし、海を見たことがなくとも魚を食べることはできる。知らなくても困らないことは沢山あって、海を見ると言うこともきっと、そのうちのひとつでしかなかった。見たことがないということを惜しいと思うことすらなかった。
 けれど、こうして海を見て、私は自分がいかにものを知らないかを実感した。狭量で、器の小さな人間であったのだということを、改めて深く理解した。
 鉢屋は海を知っていた。不破も、尾浜もおそらく知っている。あの人は──彦左衛門さまはどうだっただろう。そういえば、私はあの人が海を見たことがあるのかどうか、聞いたことがなかった。そんな些細なことも気にも留めないまま、あの人は私の前から永遠に隠れてしまった。
 鉢屋のことはどうだろう。
 鉢屋のことも、知らないことは沢山ある。分からないことも山ほどある。鉢屋が何を考えているか分からなくて、予想もできなくて、はぐらかされたり曖昧にされたり、時々は拒まれたりもする。そのことで傷ついたりもする。夫婦(めおと)なのにと、感情が空回ったりもする。
 けれど今日、私は知ることができた。
 鉢屋は海を見るとき、こんなふうに目を細めるのだ。
 鉢屋は私を見るとき、こんなふうに笑うのだ。
 なんとなくだけれど、それでいいような気がした。
 何から何まで分からなくたって。鉢屋の言葉が本当か嘘か分からなくたって。鉢屋が私をどう思っているか分からなくたって──それでいいような気がした。それでもかまわないような、そんな気がした。
 もしかしたらそれは今、こうして広大な海を眺めて思うだけの一時の感情かもしれない。帰り道にはもう、鉢屋に対してもやもやとしたものを感じるかもしれない。
 それでも今だけは、それでいいと思えた。
「よかったな、海を見られて」
 鉢屋が言う。
「うん……本当によかった」
 私が返す。
「まさかここまで大きなものとは思いもしなかった」
「語彙がまったく子供だな」
「感動した時に流暢にしゃべれる方がどうかしてるわよ。嘘くさい」
「嘘をつくのは得意じゃなかったか?」
 嫌味っぽい言い方をして私の顔を覗き込む鉢屋から、私はふいと視線をそらした。
 たしかにかつては優秀なくのたまだったと自負しているけれど、だからといって私はなにも、嘘をつくのが得意だなんて自称したことは一度もない──ないはずだ。
 嘘つきは鉢屋の方だろう──そんな思いを込めて鉢屋に視線を戻す。すると鉢屋は、何故か一層口角を上げて笑った。
「ま、お前がどれだけ嘘を得意としていたって、私の前には何の意味もないことだけどな。お前ごときの嘘を私が見破れなかったことなど一度もない。ただの一度もだ」
 その不敵な言葉に私はむっとして言い返す。
「そんなことないでしょう、何度かはあるはず」
「いや、本当だよ。まあ、嘘だと分かっていて敢えて何も言わず黙っていたこともあったけど」
「何それ、いつの話よ」
「お前が忍術学園を辞めるときだよ」
 鉢屋が、笑った。私は言葉を失う。
 鉢屋はただ、眩しそうな、泣きそうな──そんな顔で、笑っていた。
「知っていた。お前が本当は忍術学園を辞めたくなどなかったことも、お前の夫となる男がどんな男なのかも。──私が去ったあと、お前がひとりで泣いていたことも。知っていて、それでも私は知らないふりをしたんだ。泣いているお前に気付いていながら、その場にいないふりをした。本当は気配を消してずっとそこにいたのに、うずくまるだけの私は、何もしなかった。何もできなかった。そのことを、もう何年も、ずっと悔いてきた」
 鉢屋は笑う。泣いているように笑う。
 潮騒が鼓膜を揺らす。海のにおいが、嗅覚を濡らす。
 鉢屋の笑顔は、ただ記号としての笑顔だった。
 それは多分、嘘つきの笑顔だった。
「あのな、苗字。私はあの頃ずっと、お前のことばかり見ていたよ。お前よりも優秀であれば、お前が私の背を追うことを分かっていたから、だから勉学にも鍛錬にも励んだ。お前は知らなかっただろう、私がそんな、いじらしく女々しい男だったということを。お前は女々しいことが嫌いだったから、もちろん私はそんなところを絶対に見せなかったけれど。──でも、ずっとそうだった。ずっとそうやって、私はお前を、私のもとに向かうように、そうやって」
 そこで一度、鉢屋は言葉を切った。
 黙って鉢屋の言葉に耳を傾けている私の手を、静かに握った。
 肌と肌が、そっと触れた。
「私はお前のことをずっと見つめてきた」
「私は──」
「言うなよ、分かってるから」
 鉢屋が、やっぱり笑って、言った。
 私はゆっくり、頷いた。
 おずおずと鉢屋の方に腕を伸ばす。はじめて触れるかのように、いつくしむように手を伸ばす。伸ばした手は拒まれることなく、鉢屋の背中にゆるりと回った。
 慎重に慎重に、抱きしめた鉢屋が壊れてしまわないように細心の注意を払って、私は回した腕に力をこめる。身を委ねてもいいものか確かめるように、そろそろと鉢屋の胸に、身体を預ける。
「鉢屋のことが、すごくすごく、大切」
 ひと言そう、伝えた。
 やおら鉢屋の腕が私を抱きしめる。回し返された腕はしっかりしていた。鉢屋のあたたかさが心地よくて、私はその日、鉢屋と夫婦になってはじめて泣いた。

 ひとしきり泣いて、ひとしきり海を眺めて、それからもう一度抱き合って。
 私と鉢屋は、ようやく海を後にした。来たときよりも心なしかゆっくりと、噛みしめるように歩いていく。鉢屋は何も言わず、私の歩調に合わせてくれた。
「今度、休みがとれたら私と一緒に実家に帰ってくれないか」
 ふいに鉢屋が言う。その言葉に私は驚いて──けれどすぐ、別の心配が首を擡(もた)げた。私は顔を顰(しか)める。
「いいけど、いきなり私が行って驚かないかしら」
「大丈夫だろう。嫁をもらったことは文で伝えてある」
「何それ、聞いていないんだけど」
「言う必要もないと思ってたからな」
 相変わらずの鉢屋ぶりに、私はがくりと項垂れた。何も聞かされていなかったのは私だけで、鉢屋はきちんと身内への報告を済ませていたらしい。故郷に帰っていないのは事実だが、それはけして絶縁しているわけではなかったということだ。私の早とちりなのか、鉢屋が私に意図的に勘違いさせたのかまでは定かではないものの、ともあれ鉢屋と家族との縁が切れていないのであれば、私としても一安心だった。
 こうして鉢屋はひとつ、私に秘密を開いたことになる。
 代わりに私も、ひとつ胸に抱えていたわだかまりを打ち明けることにした。
 足場の悪い森の中を歩きながら、私はひそかに心を決める。
「私からもひとつ、聞いてもいい?」
「なんだよ?」
 鉢屋が小さく首を傾げる。のろのろと呼吸を整えてから、私は思い切って鉢屋に尋ねた。
「鉢屋は私の──私の前の夫のこと、何か気にしてる?」
 我ながら思い切った質問だった。私の前夫のことといえば、鉢屋が頑なに触れようとしない四年間の、その中でももっとも微妙な話題である。これまでその話題を持ち出すことは暗黙のうちに禁じられているようなものだった。
 鉢屋がむっと眉をひそめる。やはり、その話はしたくなかったのだろう。痛いところを突かれたといわんばかりの、そんな顔だった。
 しかしその表情とはうらはらに、
「そういうわけではないけど」
 と、鉢屋はもごもご言い返す。その表情と仕草は、どう見ても気にしている人間の言い分にしか見えない。何とも往生際の悪いことだった。
 しかしここで引いてはわざわざこの話を持ち出した甲斐もない。視線をそらす鉢屋の裾をくいっと引いて、私はさらに詰め寄った。
「でも、鉢屋はわざと避けているでしょう、その話をするのを。分かりやすすぎて今まで何も言わなかったけど、私のことを好いているというならはっきりして」
 我ながら理屈の通らない言い分である。しかしこれが鉢屋には効果覿面だった。
「……まあ」
 と、そう渋るように発した鉢屋は、束の間苦し気に呻いたあと長い長い溜息を吐き出して、観念したように言った。
「お前が話したくないだろうと思って、だから聞かなかった」
「私が?」
 鉢屋の問題を私のもののようにすり替えられるのは心外だ。私は思わず眉をひそめた。そのしぐさを見て、鉢屋がまた溜息をつく。今度は短く、その分大袈裟に。
 多少芝居がかったその動作は、きっと鉢屋なりの悪足掻きのようなものだった。
「一度だけ、お前がお前の夫と一緒にいるところを見かけたことがあるんだ。お前は知らないだろうが」
 鉢屋が、本当に渋々といった声で打ち明けた。
 おそらくそれは、私が以前不破から聞いたのと同じ話だろう。私が忍術学園を退学してから、学園の忍務でたまたま私の家の近くを通りかかり、私の姿を垣間見たという、あの話である。
 覚えのある話ではあった。けれどまさか、事前に不破から聞いて知っていたとは言えない。鉢屋に不信に思われないよう、私はせめて、神妙な顔で鉢屋の話に驚いてみせた。その演技はけしてうまいとは言えない出来栄えだったものの、幸いにして鉢屋も自分のことにいっぱいいっぱいだったので、演技と見破られることはなかった。
 私の心も知らず、鉢屋は続ける。
「見かけたといってもほんの一瞬のことだ。けれどそのときのお前は、何とも幸せそうだったよ。忍術学園にいたころ、鍛錬に汗を流して土にまみれていた頃とは違う、女らしい穏やかな顔をしていた。それで思ったんだ、お前はあのひとに幸せにしてもらって、それで幸福なんだなと」
 そこで一度言葉を切って、鉢屋は私を見る。そのまなこは一見穏やかで、けれどその奥底はぐらぐらと燃えているような、そんな不思議な色をしていた。懐古なのか後悔なのか、それとも別の何かなのか──まなこに宿る鉢屋の心は、いろいろな感情が入り混じってひとつにおさまることもなく、ただ不安定に揺れているように見えた。
「病で死に別れたのだろう。嫌い合って離縁したわけじゃない。それなら、前のひとにまだ情が残っていてもおかしくない」
「それは──」
「分かってる、お前を責めているわけじゃない。ただ、夫婦となった以上、そこにあったのは多分、思慕の情だけの話じゃないだろう。一度所帯を持った間柄だ、そう簡単に過去のものにできるわけじゃないことは分かってる。だからこそ、お前は彼を看取ったあとも実家に戻らなかったんじゃないのか」
 ごくりと唾を飲み込んだ。鉢屋の言い分はすべては正しいわけではないけれど、すべてが間違っているわけではなかったからだ。その言葉は切ないほどに真摯で、だからこそ私の心をやわらかく抉った。
 鉢屋は、あまりにもやさしかった。
「私はな、一度はお前を諦めたんだ。手に入れたもの、手に入れかけているもの全部をなげうって、嫁入りを控えたお前を攫うなんてことできるはずなかったし、あの頃に戻れたとしても、きっと私にはそんなことはできない」
「うん」
「だから、せめてお前の幸せを願ってやろうとそう思っていた。お前が暮らす国の忍びとなって、くノ一ではなくただのおなごとなったお前を陰から見守ろうと、そう思っていた。そのはずだったのに、ようやく踏ん切りがつき始めていた頃、お前の母親が出戻り娘の嫁入り先を探しているというじゃないか。もう、あの時ばかりは頭を抱えたね。まったくお前はどこまで私を惑わせる気なんだと」
 そう言って鉢屋は目を細めた。いつもの皮肉っぽい笑顔だ。
「だから今度はもう、間違えないようにしようと思った」
 いつもの鉢屋が、そうやさしく笑う。
「ちゃんと手の届くところにお前を留めておこうとな、そう思ったわけさ。まあ、そこから先のことは特に考えていなかったが、別に夫婦という名前だけあればそれでよかった──私が守ってやれる場所にいてくれるなら、それでよかった。ま、当の苗字はそれだけじゃ足らないようだけど?」
 揶揄うようなまなざしに私の顔がかっと熱くなる。鉢屋があの晩の話を蒸し返しているのは明らかだった。
「なっ、ま、あれはっ」
「いや、嬉しかったよ。ああ、ようやく報われた──そうとすら思ったね」
 そして足を止めると、まだ顔を熱くしている私の頬に、鉢屋はそっと手のひらで触れる。ひやりとした指の温度が、私の顔をさらに熱くさせる。
「これまでは散々我慢してきた。お前の傷心に、これでも気を遣ってやっていた。だけどそれも、もうここまでだ。家に戻ったら、私はもう誰にも気なんか遣わないぞ。お前にも、お前の前のひとにも」
「……いいんじゃない、それで」
 照れ隠しのつもりで答えると、なんだか随分そっけない返事になってしまった。しかし鉢屋は、
「相変わらず可愛げのないおなごだな。だがまあ、そこがいい」
 そう言ってにやりと笑ってくれた。

 gift; 天才、贈り物

fin.

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