mellow

 潮のにおいがようやく風に混ざり始めたころ、私たちはその日の宿に到着した。
 海まではもうあと半刻ほどで到着する。しかしどのみち、明日も明後日も鉢屋は休みをもらっている。別に先行きを急ぐ必要もなく、また夜の海を見ても仕方がないということで、海に向かうのは明日に回すことにしたのだった。
 近くの海でとれた新鮮な魚を夕飯にいただき、部屋に戻る。素泊まりなので何もかも自分たちで賄わなければならないが、個人主義で秘密の多い鉢屋にはその方が何かと都合がいいこともある。
 たとえそれが宿の人間であっても、鉢屋は他人が自分の部屋に入ることを嫌う。だから寝る場所だけを借りてほかには何もしてもらえないというのは、これはこれで私たちにとっては丁度良くもあった。
 美味しい食事に腹を満たされ、風呂も浴びた。
 いつものように、ふたつの布団を並べて敷く。手のひらほどの間隔を開けて敷かれた布団は、あの諍(いさか)いの晩を経てもなお、些かも近づくことも離れることもない。頑ななまでのその距離感は、どうしたらいいのか分からず現状維持に甘んじる私と鉢屋の距離感そのものだ。
 鉢屋が先に布団に入るのを待って、それから私も自分の布団に潜り込んだ。
 宿の布団は、うちで使っているものよりも固く平べったい。木床の感覚を布団越しに感じながらごろりと寝返りを打つ。
 海が近いためか、開けた窓からは時折びゅうびゅうと強い風が吹き込んでくる。潮騒は聞こえない。それでも町にいては聞くことのない、静寂ゆえの静かな騒がしさのようなものが、風に乗って部屋まで届いた。
 ──鉢屋はどうして私を海に連れていこうなどと思ったのだろう。
 今日一日、歩きながらずっと考えていたことを、かたい布団の上で再び反芻する。この旅路に意味などないのかもしれないが、何かにつけて理由を求めてしまうのは私の狭量さゆえだった。
 理由がないと落ち着かない。
 理由を求めないと、疑ってしまう。
 何をどうして疑うのかも定かではないというのに、理由がないと落ち着くこともできないのだった。私が鉢屋に何かをしてやろうと思う時、そこに何かしらの理由を見いだしているから。何も起こらなかった時、理由がないと悲しくなるから。
 分かっている。
 すべては私の小ささゆえだ。
 忍術学園で鉢屋を追いかけ優劣を競っていたころから変わらない、私の狭量さ。ただ鉢屋のあるがまま、したいようにすることを受け入れられずにいる、私の矮小さ。分かっている。分かっているのに、止められないのだ。
 理由を求めること──
 鉢屋を求めることを、私は止められない。
 そうしているとふと隣の布団の鉢屋から、
「こうしてお前とふたりで出掛けるのははじめてだな」
 と、淡々とした声を投げ掛けられた。
 ともすれば独り言のようにも聞こえるような声音である。それでも私が眠っていないことを知っていて話しているのだから、一応は私を話し相手として想定した言葉なのだろう。
 先ほどまでの後ろ向きな思考を心の裏側に隠す。それから私に背を向ける鉢屋に向かって、控えめに声を投げ掛け返した。
「そうね、まあ鉢屋にはお勤めがあるから」
「お勤めか。時々、フリーの気楽さが羨ましくなる。勘右衛門は元気かな」
 鉢屋の言葉に、私は独特の髪型をした、かつての同級生を思い出した。
 鉢屋や不破と同じ学年の忍たまだった尾浜は、卒業後はフリーの忍者としてそれなりに忙しくしていると聞いている。もちろんその情報も、鉢屋と夫婦(めおと)になった後に鉢屋から聞いた話だ。退学して以来尾浜とは顔を合わせていないが、鉢屋に負けず劣らずのつかみどころのない飄々とした男だったから、きっと今もどこかでうまいことやっているのだろうと、そう思う。
「尾浜はともかく、フリーとなるとそれはそれで色々と気苦労もあるでしょう」
「なんだ、フリーの忍びとしての働くことが、勘右衛門にはできて私にはできないっていうのか」
 鉢屋の子供じみた物言いに、私は思わず苦笑した。
「いえ、そうは言っていないけど」
「じゃあなんだ」
「だって、鉢屋は不破と双忍でやっていきたくて今の城を選んだのでしょう。フリーになるのは勝手だけれど、不破まで巻き込んだら可哀想よ。不破はフリーには不向きな気がするし」
「雷蔵が巻き込まれる心配はするのに、亭主が定職を失うかもしれない己の身の心配はしないのか」
「心配しなくてもいざとなれば私が家計を支えるくらいの甲斐性はある」
「それは頼りになる」
 どこまで本気と受け取っているのか、鉢屋は私の言葉を一笑に付した。だが私としてはいたって真面目にそう考えている。前の夫の看病の間だって、蓄えを食い潰す速度を少しでも落とすべく、私はいろいろな仕事に手を出した。その時の経験から言えることは、やってやれないことは何もないということだ。
 それに、どのみち忍びの仕事は不安定なものである。今でこそ戦もなく、鉢屋も安穏とした日々を送っている。しかしひとたび戦が始まってしまえば、城付きの忍びはただの駒でしかなくなってしまうのだ。
 その点フリーの忍びであれば、先行きの不透明さや安定はなくとも、自分の裁量で仕事を選ぶことができる。大義のために命を失うことはなく、何もかもが自己責任でるがゆえに、ある程度の自由が保障されている。
 しかし鉢屋の場合、ただ己が身軽になるというだけの話ではない。鉢屋には不破が、不破には鉢屋がいる。それぞれがかなりの力量を持っているにもかかわらず、ふたりは双忍としてともに在る道を選んだ。
 鉢屋が不破と双忍として働きたいというのであれば、仕え先の選択肢は自ずと限られる。鉢屋がフリーになることに関しては一向にかまわないと思うものの、そこに不破を巻き込むのは、やはり可哀想なことのように思えた。今の仕え先である城は、そういう意味ではこれ以上ないほどの好条件の仕え先であることは言うまでもない。
「今の城を選んだ理由は、それだけじゃないぞ」
 と、私の思考の先を読んだかのように鉢屋が言う。なんとなく、その間から負け惜しみのような雰囲気がして、私はついつい笑ってしまった。自然、声にも揶揄うような色が乗る。
「へえ、そうなの」
 私の答えに、鉢屋の肩が小さく揺れる。けれど、鉢屋はこちらを振り返ることはなく、相変わらず私に背を向けたまま言った。
「卒業前、雷蔵の希望はほかの城だったんだ。そこを、私の我儘で変えてもらった」
「ふうん、珍しいのね」
 迷い癖のある不破に対して鉢屋がぐいぐいと話を進めることは昔からよくあった。けれどだからこそ、鉢屋は不破が自分で決めたことであれば、それに異を唱えることはほとんどない。もちろん、仕事における戦略などで意見の食い違いがあればお互い納得するまで話し合うのだろうけれど、私生活であれば、鉢屋は不破の選択を尊重することがほとんどだった。
 けれど、まあそういうこともあるのだろう。鉢屋と不破の間のことは、正直に言えば私にはよく分からない。ふたりの間に積み上げられてきた時間や経験は、私にはおよそ想像も及ばない事柄である。
 そう思い、それ以上の追及はしなかった。けれど鉢屋は平坦な声で、
「どうしてあの城を選んだのか聞かないのか?」
 と続けた。まるきり子供みたいな受け答えだと思いながら、ふっと息だけで笑って、私は答える。
「聞いてほしいなら、最初からそう言ってよ。──どうして、今の仕え先に就職を決めたの?」
 鉢屋が、小さく空気を吸い込む音が、ひゅうと鳴った。
 そして、
「お前の嫁ぎ先と、生家が領内にあったから」
 と、低い声で、けれどはっきり言い切った。
 思わず息を詰める。
 空気が固まる音が聞こえたような気がした。
 鉢屋はそれ以上何も言わない。取り繕うように言葉を足すことも、笑って誤魔化すこともしない。ただ言葉を発し、その後のことは何も考えていないような、そんな態度だった。何もかもを私に委ね、私の判断に任せるというような──そんなやり方だった。
 いつもの鉢屋とは違う。すべてをきちんと全うし、その上で私の返事を待つ、いつもの鉢屋ではない。
 肌がぞわりと粟立った。
 今隣で私に背を向けている男は、きっといつもの鉢屋じゃない──そんな気すらした。
「──そんなことばっかり言って。答えるつもりがないのなら、最初からそんな話をしないでよね」
 何とか絞り出した言葉は、我ながらあまりにも空虚で薄っぺらなものだった。鉢屋はもう何も返事をせず、会話はそれきり打ち止めになった。仰向けになり、固い床の間隔を背中に感じる。
 眠ろうとするけれど、なかなか寝付けなかった。先ほどの鉢屋の言葉が、いつまで経っても鼓膜のあたりでわんわんと鳴っている。まるで終わることのないまじないのように、いつまでもいつまでも、繰り返しなり続けている。
 どうして鉢屋はあんなことを言ったのだろう。鉢屋の言葉が真実なのか冗談なのか、その判断すら私にはつきかねる。だって、今日の鉢屋は尋常ではない。尋常ではないから、普段ならばけして私に私には明かさない本音を明かしたのかもしれないし、尋常ではないから面白くもない嘘をついたのかもしれない。私には分からない。鉢屋が何を思い、何を考えているのか。何を感じ、何をしたいのか。
 鉢屋は何も言わなかった。眠っているのかもしれないし、ただじっと暗闇の中に身体を横たえているだけなのかもしれない。普段から寝息を立てない鉢屋が眠っているのかどうか、それを調べるすべは私にはない。
 起きているかどうか声を掛けようかとも思ったが、私と同じようにただ眠ったふりをしているのかもしれないと思うと、それも気が引けた。もしも鉢屋がただじっと暗闇を睨んでいたとしたら。そのことを知るのが何故だかひどく恐ろしくて、私は結局、鉢屋に声を掛けることができなかった。

 mellow; 枯れる、やわらか、熟む

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