ache

 鉢屋と諍(いさか)いがあった日から、今日で二週間になる。
 あの晩の翌朝、目が覚めたら鉢屋はすでに床にはいなかった。空になった布団を見たときには、もしや我儘を言う私に愛想を尽かして出ていったのではないだろうか──と一瞬肝が冷えたりもしたのだが、そんな動揺とはうらはらに、鉢屋は昼前には家に戻ってきた。そしてそれきり、前の晩の諍いなど最初からなかったかのように普段通りに振る舞っている。
 私もまた、鉢屋に合わせて何もなかったように暮らしている。だから表面上、私と鉢屋の夫婦生活には何の変化もない。ただ穏やかで、凪いだ生活。夫婦らしい肌の交わりもなく、どころか肌と肌が触れることすら滅多にないような、無風の日々。
 鉢屋から男のにおいを感じることは、あの晩以来一度もない。

「今日、城に兵庫第三共栄丸さんがいらしてな」
 ある日の晩、鉢屋がいつになく嬉しそうに言った。
 昼まで降っていた雨が上がり、蒸すような初夏の晩である。明日から数日の休みを約束されていることもあり、普段はあまり酒を飲まない鉢屋が、いつになく気分良さそうに食後の酒などを楽しんでいる。あまりにも陽気なのでいっそ薄気味悪いくらいに思っていたのだが、話を聞いていてその陽気さにも納得した。旧知の人間に会ったとなれば、その薄気味悪いほどの陽気さも分からないわけではない。
 鉢屋はこれでも、一度親しくなった人間に対してはとことん情が深い。とりわけ忍術学園時代に出会った人間に対する情はひとしおで、今も同級生や下級生、お世話になった先生方にまでまめに文を出している。
「兵庫第三共栄丸さんって、あの兵庫水軍の」
 鉢屋の盃に酒を注ぎながら、相槌を入れる。
「そうだ」
 鉢屋は、やはり嬉しそうに頷いた。
「相変わらずだったよ。お前と夫婦(めおと)になった話をしたが、あまりぴんときていないようだった。お前、思いのほか影が薄かったらしいな」
 そう言って鉢屋が意地悪く笑う。私の盃にも酒を注いでくれたので、ありがたく私も相伴にあずかることにした。
「それも仕方ないことよ。くのたまはあまり水軍の方とかかわりがなかったから。だって忍たまと違って、くのたまは船に乗らせてもらえないでしょう」
「そういや、そうか」
 酔っているのか、鉢屋が呻くように呟く。
 古来、船に女を乗せることは海の男たちの中では固く禁じられている。その理由は諸説様々あるが、女が男を惑わすとか、穢れがよくないとか、あるいは船の神様である女神が嫉妬するだとか──大体のところは全国的に見ても似たりよったりだろう。
 しきたりを重んじ験を担ぐ水軍にとって、理由はどうあれ女を乗せることは、いくら相手がくのたまといえどあってはならないことである。自然、くのたまと水軍の縁が薄いのも無理はない。くノ一教室とて、乗れもしない船をわざわざ見に行くような真似はしなかった。
 それに水軍の荒くれた雰囲気は、殺伐とした中にも優美さを求めるくの一教室の雰囲気にはそぐわない。武辺ものが女からの人気を集めるのは世の常だが、良家の子女たちの集いのようなくノ一教室が荒々しい海の男に惹かれることは少ない。そういった諸々の事情から、くのたまだった私は兵庫水軍と縁遠いままに忍術学園を退学したのだった。
「だから私、海を見たこともない」
「なに、海を見たことがないって?」
 私の言葉に、鉢屋が大袈裟に驚く。私はただ、こっくりと頷いた。
 船にも乗れず、水練をすることもない。海に行くような用事もなかった。海の幸を食べたいのであれば、町まで運ばれてきたものを買えばそれで済む話である。
「しかし船に乗れないといったって、臨海学校はあっただろう」
「くのたまは臨海学校は自由参加だったじゃない。忘れてしまった?」
 いつになく食い下がる鉢屋だが、その言葉はどこか的外れだった。酔っているせいもあるのだろうが、その根本にあるのはおそらく、くノ一教室に対する興味のなさゆえの無知だろう。
 鉢屋に限ったことではなく、忍たまたちはあまりくノ一教室の授業に興味を持たない。くのたまと忍たまとでは、まったく別の存在という意識が根底にあるのだ。もちろんこれはくノ一教室の方でも同じことが言えるので、忍たまである鉢屋といつまでも張り合っていた私の方が、当時のくノ一教室では異端であったといえる。
「くのたまから臨海学校に参加したのは、年にひとり、いるかいないかというところかしら。毎年必ずしもそうというわけではないけれど、行儀見習いが多い年だとそういうふうみたい」
「そうだったか。それでもお前なら率先して参加しそうなものだけど」
「水練は得意じゃないのよ。それに、親からもあんまり肌を焼くなと言われていたし」
 そう言った途端、鉢屋は呆れたように目を細めた。大体何を言われるかの察しはつくので、私も先んじてうんざりした顔をつくる。
「あれだけ毎日鍛錬に汗を流していたやつが、日焼けだなんだとそんなことを気にしていたのか?」
 案の定、うるさいことを言う鉢屋である。私は盃を置き、むっと唇を尖らせた。
「うるさいわね。日々の積み重ねは良くても、いっぺんに焼けてしまうようなものは気になるのが乙女心でしょう」
「乙女? どこに乙女がいるんだ? この部屋にいるおなごのことを言っているのなら、乙女というより獅子かサソリの方がお似合いだぞ」
「本当に腹立つ……」
 腹立ちまぎれに鉢屋から盃を取り上げる。飲み足りないらしい鉢屋は不満そうに私を眺めていたが、かと思えば唐突に、
「そうだ。海に行くぞ。お前も海を見たいだろう」
 と、突拍子もないことを言いだした。
 鉢屋らしからぬその思慮の浅そうな思い付きを、私はてっきり酔いに任せた口から出まかせだと思った。別に海が見たいというつもりもなく、まともに取り合うつもりもない。
「はいはい、海ね。行けたらいいわね」
「そうだろう。海はすごいぞ、何せ果てがない」
「ふうん、まあそのうちね」
 まるで子供の駄々をいなすように適当な受け答えをして、私は晩酌の用意を片付ける。まだ何か言っている鉢屋を無視して、さっさと寝支度に入る。
 が、それが鉢屋のただの思い付きではなく、本当に私に海を見せるつもりであったということを、翌朝早く叩き起こされた私はその場で知ることとなった。
 ごろごろと揺すぶられて目を覚ますと、私の横には旅装束に着替えた鉢屋が、まだ布団にくるまっていた私を見下ろすように立っていた。
「起きろ、海に行く」
「……ええ?」

 そうして、私と鉢屋は海に行くことになった。

「お前の足でも、そう長く歩き詰めることはできないだろうから、まあ夕方まで歩いて適当な宿で一泊することにしよう。鍛えておいてよかったな」
 結局、鉢屋によって慌ただしく起こされた私は、朝食もそこそこに追い立てられるように家を出た。鉢屋とふたり、海を目指す旅である。
 鉢屋は昨日の酔いなどまったく感じさせない、いつもの通りの表情をしていた。起き抜けでまだ本調子ではない私に合わせた歩調で、のんびりと旅路を行く。私はといえば、本調子でないことはたしかにその通りなのだが、それより以前に、そもそも何故海に向かっているのか、その理由から理解していなかった。
 昨晩の鉢屋の言葉は、酔いに任せた戯言のようなものではなかったのか。まさか久し振りに兵庫第三共栄丸さんと会ったことで、にわかに海のにおいが懐かしくなってしまった──なんてことはさすがにないだろう。鉢屋はそのような感覚的な生き方とは無縁の男である。
 となると、私に海を見せたいというのが本音なのだろうか。いや、しかし鉢屋に限ってそんなことを考えたりするだろうか。何せ鉢屋三郎である。腹の底の知れなさはただ事ではない。
 そもそも、ここのところの鉢屋はおかしい。表面上はこれまでと何ら変わりない平穏そのものな日々を営む鉢屋だが、私と鉢屋はあの晩の諍いを乗り越えたわけではないのだ。私たちの間に厳然と横たわる問題を見て見ぬふりをして過ごすなど、本来であればそこからして鉢屋らしからぬことだった。
 私の知る鉢屋三郎は、問題を先送りにしてよしとするような男ではない。その問題を持ち出した張本人が言うのも何だが、それは間違いないことだった。
 私に気遣いながら歩く鉢屋の様子を、私はちらちらと窺う。やはり、表情におかしなところはなかった。態度もいつもと変わらない。
 けれど、だからこそ、その変わりなさの中に何か鉢屋のただならぬ気配を感じてしまうのは、私の考えすぎというものだろうか。
「疲れたなら疲れたと言えよ。言わなければとことん歩くからな」
「察しなさいよ」
「面倒なことを言うなよ」
「鉢屋に面倒とか言われたくない」
 ざりざりと地面を踏みしめながら、私は歩く。
 私と鉢屋は、歩く。

 ache; 痛み、疼き、あこがれる

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