tiny

 文武両道、学園はじまって以来の優秀なくのたまだと持て囃されたおなごは、その名を苗字名前という。くのたまにさして興味のない私がきちんと名前を覚えた数少ないおなごのうちのひとりであり、そして同時に、彼女は私の好敵手であり──いつの頃からか、懸想する相手でもあった。
 たまたま同じ年に忍術学園に入学したということ以外、私と苗字の間に共通点はない。故郷が近いわけでも委員会が同じわけでも、共通の友人がいたわけでもない。彼女が私を見出したのは、ひとえに私が先生方の間で覚え目出度い生徒だったからである。
 功名心が強いとでもいうのだろうか、苗字はとにかく気が強く、そして自身の実力に過大なまでの自信を持つ、癇(かん)の強いおなごだった。くのたまらしいといえば、くのたまらしいのかもしれない。
 自身の優秀さを信じ、その優秀さに磨きをかけるべく、日々鍛錬を怠らない真面目な性質のおなご。くノ一教室のほとんどが行儀見習いとして入学し、武辺や学問はそこそこに優美な遊びと人脈つくりに勤しむ中、馬鹿がつくほど真面目に努力を重ね、全身を傷だらけにしても平然としているおなご。
 そんな苗字にとって、自分を差し置き天才などと呼ばれる私が、気にならないはずがなかった。

 くのたまの長屋と忍たまの長屋との間には、目の高さよりもずっと高い塀がある。それは男女があやまちを行さないよう、また行儀見習いとして入学した良家の子女たちを傷物にしないようにと学園側が用意した、言うなれば保護者への配慮の代物である。とはいえ上級生ともなれば、そんな塀を乗り越えることなど造作もない。
 竹で作られた塀をひらりと乗り越え、誰もいないくのたま長屋の中庭へと降り立つ。するりと滑り込むように中庭に生えた垣根の裏に身体を忍ばせると、私はほんのわずかの気配だけを残し、そっと呼吸を消した。
 ほかのくのたまならば、これで私の存在に気付くものはいない。潜んでいたのが私でなければ、おそらく誰も気が付くことはないだろう。
 しかし中庭に面した濡れ縁のそばに立つおなご──彼女だけはこの程度の気配でも、相手が私のときに限ってのみ感じ取ることができるのだということを、私はもう何年も前から知っていた。
 ──苗字名前。
 何かにつけて面白いこのおなごのことを、私はそれなりに気に入っている。だからこいつの気配を感じれば、たとえ苗字が三間先にいたとしても、ぎりぎり苗字に感じ取ることができる程度の気配の調整をすることもできる。この五年間、それほどまでに私は苗字に敵対視されるよう仕向け続け、常に意識の範疇に置かざるをえなくなるよう注意を傾けてきた。
 苗字は、言葉もなく私の潜んでいる垣根を見つめていた。おそらくは私が忍び込んでいることに、すでに気付いているのだろう。毎度のことながら、自分の気配の調節と苗字の私の気配を察する正確無比さに苦笑する。そして、
「聞いたぞ」
 と、私はそう言葉を発するとともに垣根の後ろから姿を現した。
 そのまま濡れ縁の前に立つ苗字のもとまで歩み寄る。あと一歩でつま先が触れるような距離まで近づき、足を止めた。
「聞いたって何を」
 苗字の声がかすかに震えている。私が何を聞いたかの察しくらいはとっくについているだろうに、それでもしらばくれようとするところが却っていじらしく、私は何とも言えない気分になった。
 他人の動向など大して気に留めない私だが、それでも苗字のことならば自然と耳が情報を集めている。
 その進退について、問う。
「お前、忍術学園を退学するそうじゃないか」
「そうだけど」
「結局私に一勝すらできないまま、おめおめと逃げ出すつもりか」
「随分上からものを言うのね」
「事実だからな」
 わざとらしく冷めた目で苗字を見る。対する苗字の眼は今にも泣き出してしまいそうな、苦し気なものにしか見えなかった。本人はきっとひややかな視線を寄越そうとしているし、そのつもりであることは私にも分かる。しかし生憎、私は人の感情を読むことには長けている。心乱したおなごの虚勢など、私の前では何の意味もなさない。
 ふたつの視線が宙でぶつかり、絡み合う。
 先に視線を逸らしたのは苗字だった。
「くのたまが男の忍たまと同じ土俵で戦おうなんて、馬鹿げているって思ったのよ」
 視線の行方を私からずらし、苗字は中庭に置かれた灯篭を睨む。それでもかまわず苗字に視線を投げかけ続ければ、苗字は居心地悪そうにもぞもぞとつま先を動かした。
「そんなこと、五年かかってようやく分かったのか」
「そう。やっと分かった。──だから、鉢屋よりもずっと頭がキレて、鉢屋よりもずっと腕の立つ男を夫にすることに決めたのよ」
 吐き出すように、そう言った。
 苗字の忍術学園退学の事由は明白で、簡単に言えば輿入れが決まったからである。もともとくノ一教室には年に何人か、家の事情で自主退学する者がある。年頃の娘たちが家に戻る事情といえば、たいていは嫁入りであった。
 どういう事情で卒業まであと一年余りという時期に苗字が縁談を受けたのか、そんなことを当時の私は当然知らない。あとから聞いた話では苗字の父が身罷られたというから、そのことに関して何らかの事情があったのだろうとは思う。
 苗字はひとり娘だったし、けして裕福な家の出自ではない。安穏と忍術学園で気ままな生活を送るよりは、何処ぞに嫁にいって母親を安心させたいという思いがあったのだろうことは想像に難くない。
 が、どれもこれも後から人づてに聞いた話に基づく推測でしかない。当時の私は、突然降ってわいたような縁談話に飛びついた苗字に対し、裏切られたような気持ちを抱いていた。
 私を追いかけまわしては勝負を吹っかけ、そのたび悔しそうに顔をゆがめていた日々は何だったのか。それは苗字にとって、そう易々と手放せるようなものだったのか。
 そう思うだけでやりきれない気持ちになった。だからこそ、こうして塀を乗り越えてまでこいつの前に姿を現したのだ。こんなことがばれれば罰則は免れないというのに。
 けれど、こうしてここに来てはっきりした。
 苗字は嫁入りを望んでなどいなかった。ただ、抗えぬ流れに呑まれて為すすべなく翻弄されているだけだった。そうでなければ、晴れの日を間近に控えたおなごが、このようにつらそうな顔をしているはずがない。人生に恐らく一度きりの晴れ舞台を目前にした娘が、ぐらぐらと不安そうに瞳を揺らしているはずがない。
 であれば、私がすべきことはただひとつ。
 苗字の言葉に、私は鼻を鳴らした。仮面をかぶって雷蔵の顔を模した顔に、できるかぎりうんざりした顔をつくる。
「つまらないことを決めたもんだ」
 ただ、吐き捨てるように言った。
「放っておいて。これが女の私にできる鉢屋への最大最善の戦い方よ」
 苗字の顔が、ほんのかすかに歪む。痛みを堪えるように、悲し気に歪む。
 きっとそれは、私でなければ分からないほどの微細な変化だった。くノ一教室開講以来の才媛との呼び声も高い苗字だから、嘘をつくのだって相応にうまい。感情を隠すことなど、きっとこいつにとってはお手の物なのだろう。
 私でなければきっと、気付かなかった。ただ、相手が悪かった。私ではその嘘に気付いてしまうし、気付いたうえで、何もしてやることなどできなかった。
 私では、苗字のことをどうしてやることもできない。
「もうお前とは二度と会うことはないだろう」
「もう鉢屋とは二度と会うことはないでしょう」
 次の瞬間には、私はもう苗字の前から姿を消していた。何のことはない、最初に隠れていた垣根の後ろに姿を隠しただけのことである。けれど完璧に気配を消した私のことを、苗字はその場からいなくなったものだと思ってくれたようだった。あいつは私が本気を出せば、苗字にすら気取られないでいられることを知らない。
「最後くらいは、ちゃんと騙しおおせたのかしら」
 ぽつりと、苗字の呟いた声が空気を振るわせた。風に乗って私のもとまで運ばれてきた声音は、今にも泣き出してしまいそうなか細く頼りないものだった。
 ただの女の声だった。
 その声を聴いて、私は思う。苗字の夫となる人は、きっと私ほど頭がキレることもない。私ほど腕が立つこともない。きっと、凡庸で、平凡な男なのだろう。苗字はそんな男のものになり、やがては私を忘れる。私では与えることのできないだろう幸福を手に、長くながく、幸せに暮らすのだ。
 私では苗字を攫ってしまうことはできない。あいつがそうと決め、諦めた未来をちらつかせることなどできるはずもない。私はまだ忍術学園の五年生なのだ。私ひとりにできることなどたかが知れている。今すぐ苗字を救ってやれるのは、私ではない何処かの誰か──天才でも何でない、誰かなのだろう。
 涙など、この私が流すはずもない。それでも何故か、乾いた地面をひと粒の雫がまるく濡らした。

 tiny; 些細な、ちっぽけな

戻る



- ナノ -