omen

 ある朝、鉢屋を送り出し、私は遅まきながらようやく自分の食事にありついていた。
 忍びのゴールデンタイムは夜とはいうものの、城付きで、その上戦時中でもない鉢屋の生活は、おおよそ普通のお勤めと変わりない。週の半分以上は自宅に帰らないといったって、逆にいえば週のうちの半分ほどは夕方になれば家に帰ってくるということでもある。くだんの辻斬りが落ち着いてからは、週のうち五日は夜になると私の待つ自宅に帰ってくるようになった。
 帰宅した鉢屋は一晩自宅で休み、また朝になればうちから城へと向かう。そしてそういう日は、その日の昼食を持参することになっている。
 なっているのだが──
「これ、忘れていったわね……」
 部屋の隅に置き去りにされた竹皮のつつみを見下ろし、私はぼそりとこぼした。
 竹皮のつつみの中には間引き菜を混ぜ込んだおむすびが入っている。朝炊いたごはんでつくったばかりのおむすびは、まだほのかな熱を残していた。鉢屋の昼食のためにつくったものである。
 ──さて。
 両手を胸の前で組み、私は暫し考える。
 鉢屋のために作った昼食ではあるものの、昼食がないならないで、鉢屋ならどうとでもできそうな気はする。もともと鉢屋は、上背のあるしっかりとした体格のわりには食べる量が少ない。一食くらい抜くことは、忍者としての在り方としてもけして無理なことではないだろう。
 けれど、せっかく作ったものを食べてほしいという気持ちは、私にだって当然ある。たかがおむすび、されどおむすび。そろそろ気温が高くなってきたこともあって、間引き菜だけではなく梅干しまで中に入れる奮発ぶりだ。それもこれも、鉢屋が張り切って仕事に勤しむことができるようにという気持ちゆえである。
 それに、忍びの仕事の資本は体力だ。
 食べるものも食べないのでは、いざというときに十分な力を発揮できない。食べなくても平気であったとしても、食べられるなら食べた方がいいに決まっている。
 そうと決まれば、善は急げである。外出用の小袖に着替え、私はいそいそと城に向かった。

 我が家は鉢屋がつとめる城の城下町にある。不破やそのほかの忍びは大抵城内の詰所をそのまま塒(ねぐら)にしているらしいが、鉢屋のように所帯を持っている者は、城下に家を借りてそこに住まうこともある。鉢屋の場合は私と夫婦(めおと)になる前から今の家を自らの塒にしていたそうだが、それは単純に鉢屋の性質の問題だろう。
 十の頃から同室で気心知れた不破相手ならばまだしも、お互いに腹の内を見せることのない忍組のほかの忍びと生活を共にするなど、鉢屋の性格では土台無理な話である。そんなことになれば、まずは素顔を見せろと言われるに違いなく、また鉢屋がそれを受け容れるはずもない。
 常に素顔を暴かれるかもしれない緊張感の中を生活するくらいならば、外に塒を用意した方が気楽だと鉢屋が考えるのも自然なことだった。
 ──私だって、そりゃあ鉢屋の素顔が気にならないわけではないけれど……、でも、だからって今更無理に暴こうとも思っていないしね。
 というより私はもう、誰かの顔を借りている鉢屋を鉢屋だと認識してしまっている。鉢屋の素顔がどうだとか、そんなことを考えるのはずっと前にやめてしまった。そのことが鉢屋に安心感を与えているというのなら、それはそれでよかったとも思う。
 秘密の多い鉢屋だから、私ひとりくらいはその秘密を秘密のまま受け容れてやりたい──この頃はそんなことを考えながら鉢屋と生活をしていた。
 相変わらず夫婦の営みはなく、どころか肌が触れることすら最低限しかないような、そんな夫婦生活ではあるけれど。
 愛の言葉など何処にもなく、交わされるのは業務連絡と皮肉と嫌味と少しばかりの労わりの言葉だけだけれど。
 それが今のところの、私と鉢屋の夫婦のかたちである。これが、今のところの私と鉢屋である。その根底を流れるのはきっとお互いへの不格好なやさしさや思いやりであると、私は信じている。

 忍び詰所は城内にある。通常であれば部外者である私が、理由もなく城内に踏み込むことはできない。しかしここのところは城門の衛兵を忍び組のものが務めることもあるらしい。そうであれば話が通じやすく助かるので、その可能性に希望を賭ける。
 戦もなく情勢も落ち着いている今、忍びの衆にはそう急ぎの仕事もない。その分鍛錬をしたり、こうして衛兵などの仕事を肩代わりしているのと、以前鉢屋に聞いたことがあった。
 門の前まで寄ると、内側から衛兵がぬっと顔をのぞかせた。日よけの笠から覗く焼けた肌が、じろじろと値踏みするように私を見る。
「其方、何用か」
「私、忍び衆鉢屋三郎が妻、鉢屋名前と申します。急ぎ夫に渡したい荷物があり、参りました」
 正直、鉢屋の名前を出しても通じるかどうかは怪しいものだったが、どうやら衛兵のうちひとりが鉢屋を知っていたらしい。門の内側で何事か言葉が交わされ、ひとりが何処かへ駆けてゆく。
「鉢屋の──、暫しそこで待て」
 と声が返ってきた。
 ほどなくして、駆けていった男が戻ってきた。それと同時に城門が開く。
「鉢屋は今、手が離せぬ。その方、共に参れ。案内する」
 そう言って、衛兵の男は中から引き連れてきた新しい男──格好からして忍びの者に、私を引き合わせた。鉢屋とは違う小柄な体躯の男は、そのしわがれた顔を私に向けると無言で頷いた。ついてこいということらしい。
「かたじけありませぬ」
 その男の後ろをついていきながら、衛兵の男たちに小さく頭を下げた。
 忍びの男が私を連れて行った先は、武道場だった。しかし武道場の中からは剣のぶつかり合う音はおろか、足音のひとつすらしない。恐らく、場所は武道場だが中で交わされているのは何らかの会合なのだろう。そのくらいのことは、私にだって見当がつく。
「鉢屋を呼んでくる。暫し待たれよ」
 そう言って、また扉の前で待たされた。
 男が戻るのを待つ間、手持無沙汰に突っ立っていると、何人かの男たちが私の前を行き交っていく。じろじろと不躾な視線を送る彼らは、少し離れた井戸のところで立ち止まると相変わらずこちらにちらちらと視線を寄越しながら、服を脱いで汗を流し始めた。
「あれが鉢屋の」
 その男たち数名のもとから、声が届く。けして大きな声ではなく、彼ら当人たちですら、私のもとに声が届いているとは思っていないだろう。しかし生憎、もとくのたまとして鍛え上げたのはただ身体だけではないのだ。耳や目、鼻といった感覚器も、常人よりずっと鋭い。彼らのひそめた声は、すべて私のもとへと届いていた。
「へえ、器量よしとは聞いていたが、思った以上だな」
 不躾な視線の主たちは、やはり発する言葉にも品性など微塵も感じられない。私はそっと溜息をつき、地面を睨んだ。
 女として生まれた以上、男たちから値踏みされることには慣れている。くのたまを五年もやれば、自分の武器として女を使うことも、その使いどころも、重々承知しているというものだ。
 しかし、だからといって自分の望まない場面で勝手に品定めされああでもないこうでもないと口さがなく言われるのは、やはり気分のいいものではなかった。女は──私は、ものではない。人である。
 鉢屋はそういうことを、けして口にはしない。
 鉢屋は私を人間として扱う。
 ──だから、信頼ができる。
 聞きたくなくても聞こえてきてしまう声を聞き流しながら、私は鉢屋と案内の男をじっと待った。その間にも下劣な会話は続く。
「いや、まったく想像以上だな。鉢屋のやつ、初婚なのに何が悲しくて出戻りの女をと思ったが、あれならばその気になるのも分からんでもない」
「そうかあ? 私は初物かはともかく、初婚のおなごがいいがなあ」
「瘤(こぶ)がついてないだけましなんじゃないか? 連れ子はいないんだろう」
 その言葉に、思わず私の肩が揺れた。しかし男たちが気付くことはない。
「いや、瘤がつくれなかったから婚家から突き返されたんだろ? 石女(うまずめ)なんじゃないのか?」
「前の夫に先立たれての離縁と私は聞いたぞ。それに何でも、鉢屋とは昔からの知り合いというし」
「ほう、じゃあかつての知り合いがやもめをしているのを見かねて嫁にもらってやったということか? 鉢屋のやつ、情に薄い男かと思ったがそうでもないのか」
「おなごのこととなると話は違うんじゃないのか」
「いずれ、よく分からんな。あれは」
 そう言って男たちは笑った。
 その笑い声を聞きながら、私はふと、背中をひやりとしたものを流れるのを感じた。
 あんな会話は取るに足らない──取り合うだけ無駄な戯言の類であることは分かっている。どこにでもこの手の輩はいるし、そういうやつらはもう、同じ種類の人間であると見做すだけ馬鹿を見るのはこちらなのだ。神経を逆なでされるだけ損だから、関わらないに限る。取り合う必要などまるでない──それは分かっている。
 けれど、私は考えてしまった。
 彼らの言葉を耳に入れ、その上で考えてしまった。
 鉢屋は何故、私などに縁談の申し入れをしたのだろう。
 何故、私などを選んだのだろう。
 あの男たちの言うことはまったく下世話で下劣でしかなかったが、しかしある一点においては私には持ち得なかった視座を持っていた。
 私と鉢屋は知己である。それもただの顔見知り程度ではなく、好敵手として互いに意識し合っていた間柄──少なくとも、私はかつての鉢屋との関係をそういうものだと認識していた。であれば、鉢屋はそのかつての関係ゆえに私に声を掛けたのだろうか。
 けして知らない仲ではない私が、夫に先立たれて寂しい独り身に身を窶(やつ)している。若い女が不遇を託つ様は、それはそれは、さぞ哀れであったことだろう。
 そんな私を見かねて、鉢屋は夫婦になろうと思ったのだろうか。
 私は憐れまれているのだろうか。鉢屋に、哀れだと思われていたのだろうか。
 この婚姻の一番はじめに、愛されているわけではないのだということは理解した。鉢屋が私を妻にと考えたのは、なにもそこに愛情があったからではない。そのことはもう、私も理解している。理解して、納得している。
 けれどそこに哀れみがあったのだと言われれば、多少話が違った。
 私は憐れみゆえに嫁に貰われることなど、断固として受け容れられない。せめて人として、ひとりの人間として、私がよかったのだと思われ、選ばれたい。相手が鉢屋であってもそのことに変わりはなかった。いや、相手が鉢屋だからこそ、そんな理由で──哀れみを掛けられるようなことだけは、絶対に嫌だった。
 胸の中にどぶのようなどろどろとした感情が渦巻く。
 鉢屋は私を哀れみの対象として見ている? けれど、それならば夫婦らしいことはおろか、手さえ握らないことにも納得がいった。愛していないだけではない、別に嫁にもらうつもりなんて本当はなかったのかもしれない。だからこうして夫婦になった今も、私にその気などまったく起こらないのではないのだろうか。
 心臓が嫌な早まり方をする。どくどくと鼓動を速めているはずなのに、指先や頭は奇妙にひんやりと冷めきっていた。
 ここまでの可能性は、すべては私の単なる推測でしかない。下劣な人間の下劣な会話を聞くことに端を発した、あまりにも短絡的な思考回路である。それ以上でも以下でもなく、あくまでも私の脳内で広がれらた思考の域を出ない。
 けれど、その短絡的な思考回路が、短絡的だからこそするりと腑に落ちてしまったのも、また揺らぎようのない事実だった。
 脳裏に鉢屋の顔が浮かぶ。鉢屋の顔ではない──不破の顔を模した、鉢屋の顔。その顔が、私を白々とした目で眺め下ろしていた。いつも胸の中のがらんどうからじっと私を見つめていた物言わぬまなこが、今また、私をぽっかりと見つめている。
「名前」
 不意に名前を呼ばれ、はっとした。いつの間にか、目の前に立った鉢屋が、胡乱な視線を私に向けていた。家の外だから下の名前で呼んだのだろう。その呼ばれ慣れない響きに、ほんの束の間反応が遅れた。
「どうした、ひどい汗だぞ」
 言われて、私は自分がぐっしょりと汗をかいていることに気付く。そんなことにすら気付かないほど、私の意識は心もとない場所へと迷い込んでたらしい。鉢屋の眼が、探るように私の顔を覗き込んでいた。
 ──悟られたくない。何も、悟られたくはない。
 思わず、そう思った。
 取り繕うように、手にしていたつつみを鉢屋に差し出す。それから、こわばった顔の筋を何とかゆるめ、薄い笑みを無理矢理お面さながら顔に張り付けた。
「おむすび、忘れておいででしたのでお持ちいたしましたよ」
「わざわざすまない」
「いえ、今日はいいお天気でございますから。しっかり食べて励んでくだされ」
「ああ」
「それでは失礼いたしまする」
 それだけ伝えると、私は小さく会釈をして踵を返した。来たときと同じ忍びの者に案内され、城外へと立ち去る。鉢屋の視線はもの言いたげに背中に纏わりついていたが、気が付かなかったふりをした。私の思考は、いうなれば鉢屋への不信だ。今はただ、鉢屋に胸のうちが露見することが、何よりも恐ろしかった。

 omen; 兆し、予兆

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