usher

 所用で顔を出した実家の母から、隣町に新しくできたうどん屋が評判だと聞いた。何でも、一時は城に仕えたほどの料理人が店を開いたらしい。評判の店となればどんなものか食べてみたいと思うのが人情というもので、翌日、仕事が休みの鉢屋を誘うと、意外にもこれがあっさり乗ってきた。
 そんなわけで、その日、私と鉢屋はふたり揃って隣町のうどん屋にうどんを食べに行くことにした。
 うどんを食べ、その帰りのことである。
「思ってたより美味しかったわね。つゆがしっかりと濃くて」
「いや、うちの近所のうどん屋のつゆが薄いだろ。そっちに慣れてるから濃く感じるだけじゃないか」
「あら、鉢屋の口には合わなかった?」
「そうは言ってない」
「だったら素直に褒めなさいよ」
「さっき店でうまいと言った」
「褒め言葉を渋るんじゃないわよ……」
 腹ごなしもかねて、取り留めのない会話をしながら、並んでとぼとぼ帰路につく。
 いつぞやの辻斬り騒動以降、私は時々鉢屋に付き合ってもらって組討の鍛錬をしている。武器を使わない徒手空拳なのは、いざというときどうとでも動けるようにするためだ。その鍛錬の甲斐もあって、忍術学園の退学後はめっきり落ちていた体力や反射神経も、ここのところは少しずつ現役時代の水準まで戻りつつあった。
 鉢屋からは、鉢屋といるときにしか例の鍛錬場を使わないよう言い含められてる。けれど私は空いた時間を見つけては、人目につかない場所を探してこっそりと鍛錬を積んでいた。
 あの何もかも見透かしたような冷静沈着な鉢屋を驚かしたい一心での鍛錬なのだから、今も昔も私に進歩というものはないらしい。
 ともあれ、そんな密やかな鍛錬の積み重ねによって、以前よりも私の健脚ぶりには磨きがかかった。今も鉢屋の歩幅に合わせて、息を切らすことなく普通に歩けている。
 鉢屋の場合、何も言わなければ私の歩幅に自然と合わせてくれるのだが、鉢屋に合わせられるのもそれはそれで悔しいものがある。私の方が鉢屋に合わせて歩くという、そのことにこそ意味があるのだ。あくまで自己満足の粋のようなものだが、私にとっては重要なことである。

 こうして昔のように鉢屋と張り合っていると、胸の中のがらんどうに住まう鉢屋を、必要以上に意識せずに済む。
 鉢屋と暮らし始めてからは、それでも以前よりもその存在感は薄まっているけれど、とはいえふとした瞬間に、私をぽっかり見つめる視線があることには変わりない。昔のように鉢屋の前で振る舞うことが、その鉢屋の影を感じずに済む、もっとも手っ取り早い方法だった。
 がらんどうに住む鉢屋は、かつての鉢屋への気持ちをうまく消化できなかった私自身が作り上げた、「忍たまだった頃」の鉢屋である。だから、その鉢屋を相手するように振る舞えば、自然胸の中に住まう方は出る幕をなくす。あくまで推測だが、きっとそういうことなのだろう。
 そんなことを考えながら、私は鉢屋の歩調に合わせてざくざくと先を行く。町の中なので人通りは多いが、私も鉢屋も人の間を縫うようにひょいひょいと進んでゆく。
「この調子なら夕飯までにまたおなかが空いてしまいそう」
「お前なあ……」
 鉢屋が何か言いたげに口を開きかけたそのとき、
「名前さん?」
 ふいに、聞いたことのあるやわらかな声が、不安げに私の名前を呼んだ。はっとする。鉢屋もまた、それと分かりにくくではあるが小さく身構えた。鉢屋の商売柄──そして私のこれまでの経歴柄、見知らぬ他人に正体がばれるということには敏感である。
 しかし、声の主が人混みの中から私の前に姿を現したとき、癖のように身構えた私の警戒心はたちどころに霧散した。
「母上……」
 私の口からこぼれたその声に、鉢屋がはっと目を見開いた。
 そこにいたのは、私がかつて嫁として仕えた婚家の義母──死んだ前夫の母であった。
 義母は鉢屋と並んだ私のもとにゆっくりと近寄ると、嬉しそうに目を細めて私の手を取った。されるがままに手をあずけ、あまつさえ驚きながらもその手を握り返す私を、鉢屋は奇異なものでも見るように見つめている。それから声をひそめて、
「苗字?」
 と私の名を呼んだ。いまいち状況を読めていないらしい。無理もないことだが、鉢屋にしては察しが悪いな、とそんな身勝手なことを思った。
 義母に手を握られたまま、私は鉢屋を振り返る。そして、
「以前お世話になっていた──前の夫のお母上よ」
 と、短く紹介した。
 その瞬間、傍らの鉢屋の雰囲気がかすかに変わった。ぴりりと身を切るような厳しさは、恐らくは私でなければ気付かない程度のものではあったものの、しかしたしかに、鉢屋をこわばらせていた。
 ──まずかったかしら。
 思わず、そっと鉢屋の表情を盗み見た。面をかぶった不破と同じその顔は、これといって変化を見せていない。けれど何となく違和感を感じるのは、これでも一応鉢屋の妻をつとめている私の勘のようなものゆえだった。
 義母と会う約束などしていなかったわけだから、ここで顔を合わせてしまったのも言ってみれば不可抗力のようなものである。しかしこと私の前夫のことに関して、鉢屋は何も言わないながらも色々と気にしているということだけは間違いなかった。というより、何も言わず何も言わせず、ゆえに鉢屋が必要以上に気にしているのだということは明白である。
 と、義母が私の手をきゅっと握った。
「名前さん」
 呼ばれ、私は再び視線を義母に向けにこりと笑った。鉢屋のことはひとまず後だ。
「ご無沙汰しております。母上」
 そう挨拶すれば、義母は嬉しそうに目を細める。
「嬉しい、まだ母と呼んでくださるのね」
「私にとっては、今も母上は母上でござります」
 事実である。婚家からは夫の死を理由に離縁されているが、それはけして心の繋がりの一切が灰燼に帰したという意味ではない。あくまでも私の新たな門出を願っての離縁であったから、私にとっての義母は今もまだ、母と呼ぶべき女性のひとりであった。
 嬉しそうに微笑んでいる義母は、そこでようやく私の隣に立つ男に気付いたらしい。
「そちらは?」
 と、控えめに尋ねた。
 鉢屋の顔を見る。鉢屋はひとつ、小さく頷いた。私も頷き返す。
「こちらは──夫の、鉢屋三郎です」
「お初にお目にかかります、私、鉢屋と申します。以前、妻がよくしていただいたとのこと。私からもお礼申し上げます」
 慇懃に鉢屋が言う。夫らしい鉢屋の姿を見るのは、嫁入り前に私の母と言葉を交わす鉢屋を見たとき以来だった。何となくむずむずしたものを感じていると、義母が深々と頭を下げた。
「あらまあ、ご亭主さまでいらっしゃいましたか。これは知らず失礼をいたしました。名前さんがお嫁にいかれたとは風の噂に聞いておりましたが」
「文の一つも差し上げずおりましたご無礼、お許しください。落ち着いたらと思っておりましたら、こうしてずるずると」
「いいんですよ、あなたが幸せならそれで私たちも幸せなのですから」
 義母のその笑顔を見ていたら、かつての夫との生活、そして夫を喪ってからの婚家での生活がしみじみと思い出された。最後にこの義母と会って、まだ半年も経っていない。それなのに、最後に会った時よりも顔の皺はより深く刻まれ、握ったてのひらも一回り小さくなったような、そんな気がした。
 ──暫く会わないうちに鉢屋が変わったように、きっと、このひともすぐに変わってしまうのだろう。
 漠然と、そんな思いが胸中にわきあがる。
 気が付けば、私は鉢屋の着物の裾を引っ張っていた。
「鉢屋。悪いのだけれど少し、話をしてきてもいい?」
「構わない。私は先に戻るけれど、ゆっくりしてくるといいよ」
 鷹揚に頷いて、義母に一礼して去っていく鉢屋の背中を見つめる。鉢屋の寛大さが今は有難かった。

 立ち話も何なので、近くのお茶屋で一服することにした。
 二人分のお茶を注文し、床几台に腰掛ける。人心地ついたところで、義母の方から先に話を切り出した。
「ご亭主さまとはどちらで?」
 改めて鉢屋のことを「ご亭主さま」などと呼ばれると気恥ずかしい。私にとっての鉢屋は、ただの鉢屋三郎でしかないのだ。妻の身となった今でも、どうにも学生時代の気分が抜けなくていけない。
 それでも、義母を前に醜態を晒してはならない。年老いた二人目の母を安心させるためにも、私は気恥ずかしさを押し殺し、
「それが……母が私の嫁入り先を探しておりましたところ、どこで聞きつけたのやら向こうから。鉢屋とは昔、忍術学園で同級だったのですが」
 と、多少しどもどしながら説明した。
「ああ、それで。どうりで新婚とは思えない気安い雰囲気があるなと思っておりました」
「お恥ずかしい限りです」
「何を言うの。そういうご縁は大切にしなければ」
 義母は朗らかに笑う。その笑顔を見て、少しだけ私もほっとした。
 こんな時代だから、夫と死に別れた女が早々にほかの家に嫁ぐことだってけして珍しくはない。うちは名ばかりとはいえ武家だから、そういうことがあってもおかしくはないだろう。私の場合、夫を看取ってからも三年近くは婚家に尽くした。三年のやもめを経ての再縁することは、けして責められるようなことではなかった。
 それでも、私がほかの誰かに嫁ぐことを、義母や義父、天国の夫は良く思ってはいないのではないだろうか──そんな思いが、常に私の胸にはあった。鉢屋と暮らし始めてからも、その思いは変わらない。おかしな話だが、夫と共に在ったときには鉢屋のことで罪悪感を抱き、こうして鉢屋と一緒になってからは、死んだ夫への申し訳なさを感じていた。
 いつだって私はただ流されているだけなのだ。自分で決めた何かを、最後まで貫き通せたようなためしがない。
 おなごだからと言われればそれまでだけれど、そう簡単に割り切れるものでもない。
「名前さんには、息子のことで随分と苦労を掛けましたね」
 その声に、自分がいつの間にか黙り込んでしまっていることに気が付いた。慌てて顔を上げて隣に座る義母を見遣ると、彼女は私とは対照的に視線を伏せ、寂しそうな顔をしていた。
 慌てて私は言葉を返す。
「母上、何をおっしゃるのです。あの方に──彦左衛門さまに嫁いでからの一年、私は夢のように幸せにござりました。あの方はいつも優しかった。幼く身の回りのことも覚束ないふつつか者の私を、よく愛し面倒を見てくださいました。やさしくて、穏やかで──大切なひとでした。誰からも慕われて、妻の身ながら、私はあの方を尊敬しておりました」
 その言葉に偽りはなかった。
 私を娶った男は、ただただやさしかった。忍術学園では武辺と学問ばかりに精を出していたような私に、いっぱしの妻として、女としての役目を果たすことができるようになるまで根気強く見守ってくれた。そのやさしさがあったから、私は忍術学園への未練を断ち切ることができたのだ。
 そのやさしさが尊かったから、私は胸の中から物言わずじっと見つめる鉢屋のまなこに応えずに済んだ──道を踏み外さず済んだ。
 今でもまだ、忍術学園を辞めずに済めばどれほどよかったかと、そう思わない日はない。けれど忍術学園を辞めて誰かに嫁がなければならないとしたら、嫁ぐ先が彦左衛門さまのもとでよかったと、私はそう思っている。今でも、そう思っている。
 この老いゆく母の家に嫁げてよかったと、そう思っている。
「そう言っていただけると私も救われます。──なれど、あなたのようなきれいな子を、若い身空でやもめにしてしまって。息子が死んだ後も、うちによく尽くしてくれて……」
 義母はついには言葉を詰まらせ、その小さな瞳からはらはらと涙を流した。
 私はどうしてよいものか分からず、そっと手巾を差し出す。しかし義母は、それを受取ろうとはしなかった。代わりに、
「だから、今日あなたに会えて安心しました。よかったわ、名前さんが幸せそうで」
 と、洟を啜って笑う。
「だからね、名前さん。私たちのことなど、あなたはもう考えなくてもよろしい。あなたにはあなたの人生があって、あなただけの幸せがある。三郎さんと、そうおっしゃったかしら。どうかご亭主様と仲睦まじくするのですよ。それが母から娘であるあなたへの願いです」
 義母とは、それきり別れた。
 きっともう彼女と会うことはないような──そんな気がした。

 義母と別れてひとり家に帰ると、鉢屋は居間で忍具の手入れをしていた。私が部屋に上がると、手元から視線を上げて、
「帰ったか」
 と短く発する。表情に変化はない。不用意な事は言わない方がいいような気がして、私もただ、短く答えた。
「ええ。時間をくれてありがとう」
「お前の大切なひとなんだろう。それなら私も無下にはしないさ」
 その言葉は鉢屋の本心から、ごく自然に紡がれたもののように聞こえた。
 鉢屋は、自分の故郷に私を連れ帰ることはない。同様に鉢屋の家族に私を紹介することもない。どういう経緯があって彼が家族との関係を絶っているのかは知らないが、そのことを私が多少気にしていることに、多分鉢屋は気が付いている。
 だからこそ、すでに離縁された先の義母と親しくすることをみとめてくれているのだろう。今の私には、家族と呼べるひとは母と鉢屋しかいないのだ。家族の縁が薄い私のことを、鉢屋は鉢屋なりに気遣ってくれている。
「今日はもう、早く休むといい。私も明日は遅番だ。だから朝もゆっくりでいいよ」
「ありがとう」
 そう返し、私は鉢屋のすぐ隣に腰をおろす。それからもう一度、
「ありがとう、鉢屋」
 と繰り返した。鉢屋は小さく笑って、
「お前はそればかりだな」
 と憎まれ口を叩いた。

 usher; 案内人

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