存在する意味

 アーサーに教えられたとおり、談話室を出てすぐの階段を上り、ナマエは五階の書庫を目指した。魔法舎にやってくるのはこれで三度目だが、これまでは談話室にしか入ったことが無かったため、魔法舎の中を自由に歩くのははじめてのことだ。古い建物ではあるものの、手入れが行き届いているため古臭かったり不潔な印象は受けない。むしろ重厚で気品のある造りは、王城らしく華やかなグランヴェル城よりもナマエの好みに近かった。
 階段の踊り場にはこれもまたよく磨かれた硝子の窓が嵌めこまれている。その向こう、空に浮かぶ雲はいよいよ厚みを増し、今にも雨が降り出しそうだった。もしかしたら、嵐になるかもしれない。
 ──このところ、なかなかすっきり晴れないわね。
 天候に気分が引き摺られ、思わず溜息をこぼした。そうしているうちに気付けばナマエは階段を上りきっており、迷うことなく書庫までやってくることができた。
 重い両開きの扉を、力いっぱい押して開く。重たく軋む音がして扉が開くとともに、古い紙とインクの匂いがふわりと流れてナマエを包む。ナマエにとっては慣れ親しんだその匂いに、にわかに心が安らいだ。魔法舎ではどうしても、常に気を張った状態になっている。
 一歩、中へと踏み出す。床から天井まで、聳えるように高い本棚が広い書庫内にいくつも並んでいた。どの本棚にもぎっしりと本が詰まっている。グランヴェル城にも書庫はあるが、もしかするとそれ以上の蔵書量があるのではないだろうか。中央の国は現王朝勃興のきっかけとなった革命時、古く貴重な資料の多くを焼失している。
「それにしても、本当に広い書庫……」
 誰にともなく呟いて、ナマエはゆっくりとした足取りで書庫内を見て回った。
「随分と年季ものの本もたくさんあるみたい。目当ての本を見つけるためには骨が折れそうだけど、これは本好きの血が疼く」
 らんと目を輝かせ、ナマエは早速資料となりそうな本の選別に取り掛かった。

 重いカーテンが引かれた書庫内は、薄暗く乾燥している。ただでさえ薄暗いうえに今日は曇天で、書庫内はいつにも増して薄い暗闇に満ちていた。頭上では豪奢なシャンデリアが揺れているが、ナマエにはどうしたら灯りをつけられるのかも分からない。火災を避けるためか、書庫には燭架が用意されておらず、仕方がないので目ぼしい書物を見つけては、目を凝らしてその内容を確認した。
 暫くそうして、ナマエはひとり黙々と作業を続けていた。やがて目が疲れ、ナマエの視界がぼやけ始めた頃。
「あっ、これ……!」
 だんだんとしょぼついてきていた目を、ナマエは思わずはっと見開く。一冊の本がナマエの目を引いた。引き込まれるようにして、ナマエはその内容を読みふける。
 それは北の国の天候や作物の出来などを数年ごとに記した記録物だった。出版されたものではない、個人の記録らしい。中央の国と直接関係がないものだから、おそらくは魔法使いの誰かが持ち込み、そのまま魔法舎に忘れ去られて書庫に収納されたのだろう。北の国の魔法使いがこのような記録をつけるとも思えないが、物好きな魔法使いがいたとしてもおかしくはない。
 ちょうどナマエが草稿にまとめていた時期の記録も残っていた。オズが厄災を齎し、北の国の辺境の村をひとつ滅ぼしたという言い伝えの頃だ。思いがけない発見に、ナマエの胸が早鐘を打つ。
 記録を読み解いてみると、実際にその頃、ひどい飢饉が辺境の村を襲っていた。北の国は国土のほとんどが一年を通して雪におおわれているが、それでもまったく作物が育たぬわけではない。その作物が、全滅といっていいほど育たなかった年がある。
 自然災害の結果と片付けるには、あまりにもひどい窮状だった。仮にそれだけの厄災をオズというただひとりの魔法使いが引き起こしたというのならば、世界最強の魔法使いの恐ろしさを証明するこれ以上ない証左でもある。オズの恐ろしさを目の当たりにしたようで、ナマエの背筋がひやりとする。
 と、記録を読み進めたところで、
「──ん?」
 ナマエは首を傾げた。小さな違和感が胸を掠める。それは草稿をまとめているときにも感じた曖昧模糊とした引っかかりを一段強くしたような感覚だった。
 違和感は、じわりじわりとナマエの胸のうちに広がって、言いようのない焦燥と昂りを生み出していく。気付けばナマエは荷物の中から草稿と付録の資料を取り出して、見つけたばかりの記録と照らし合わせ始めた。

 ナマエとの三度目の対面を終えたオズは、身体的な疲労とは違う気疲れのようなものを感じながら、ひとりぼんやりと自室で暖炉の火が揺れるのを眺めていた。
 アーサーの頼みだというから、気乗りはしないが伝記編纂に力を貸している。しかしオズはそもそも、これまでの自らの行いについてひとつも誇ったことがなかったし、いわんや書物として後世に残すなど望んだことがなかった。
 そのような気乗りしない事業に手を貸すなど、不毛のきわみとしか言いようがない。ナマエ個人に対しては何の感情も抱いていないが、ナマエが持ち込む伝記の草稿を読むことは、オズにとって無意味で、なおかつどちらかといえば不愉快な行為だった。
 そんなことを考えるともなく考えて、むすりと眉間に皺を寄せていると、やおら部屋のドアをノックする音が耳に届いた。アーサーやカイン、あるいは賢者のノックの仕方とは違う。覚えのないノックの仕方に、扉を開けるべきか否か肘掛け椅子に腰をおろしたままで思案する。
 数秒の思案ののち、結局オズは無視することに決めた。大体、この部屋を訪ねてきてほしい相手、喜んで迎えたい相手もオズにはいない。聞こえなかったふりをして目を瞑ると、
「オズ様、いらっしゃいませんか!」
「…………」
 ドアの向こうから、女の声が這入りこんできた。
 魔法舎にいる女性といえば賢者とカナリアくらいだが、そのいずれの声でもない。この声の主はつい先程まで向かい合っていた、アーサーの臣下であるナマエのものだった。
「オズ様、あの、ミョウジですが」
 声は依然続いている。オズは目を瞑ったまま、さらに渋面を濃くした。
 果たして如何したものだろうか。このまま無視を決め込んでいれば、そのうち諦めて立ち去るのだろうか。オズはナマエについて、ほとんど何も知らない。どのような人間か分からないから、この後ナマエがどう行動するかの予測を立てられない。幼いころのアーサーと同じような人間ならば、もしかしたら放置すれば永遠にドアの前でオズを呼び続けるかもしれない。それはさすがにまずかった。五階にはほかの魔法使いの部屋もある。
 深い溜息をひとつ吐き、ようやくオズは肘掛け椅子から腰を上げた。気乗りはしないが、追い返すにしても一言掛けねばならない。
 仏頂面でドアを開く。そして。
「貴様──」
「あっいらっしゃいましたかオズ様! あのですね、先程目を通していただいた草稿なのですが、やはり間違っていた部分があったのではないですか。その、ご覧いただきたい書物がござまして──」
 オズが文句をつけるより先に、ナマエが一気に捲し立てた。そのままオズが一瞬言葉を失っている隙に、ナマエはぱんぱんに膨れた鞄から、草稿と資料を勢いよく引っ張り出す──引っ張り出そうとして、中身を無様にぶちまけた。
「わっ、あわわわわ」
 オズの部屋のドアの前に、ばらばらと書物や紙が散らばる。オズはそれらを無感情の目で眺め下ろした。
 ナマエが慌てて、それらをかき集めるため床に膝をつく。しかし慌てているせいで、動作のひとつひとつがばたつき騒々しい。見かねたオズが「≪ヴォクスノク≫」と短く呪文を唱えると、散らばったナマエの荷物はすぐにひと纏めになってナマエの腕へと舞い戻った。
「す、すみません」
「何の用だ」
「はっ、そうでした」
 オズの冷ややかな視線に促され、ナマエは手元に戻った書物のうち一冊を、大急ぎで捲った。先程書庫で見つけた記録物だ。目当てのページを見つけると、ナマエはその書物をオズに向けて勢いよく差し出した。
「あのですね、これは数百年前の北の国の天候と、それに伴う人間の村や集落の状況を記した記録物です。オズ様がお住まいになっていたあたりの土地についても記録が残されているのですが──あっ、ここ、ここには或る強大な魔法使いが、北の辺境の村を未曾有の飢饉から救ったという記述があります。オズ様のお名前はありませんが、記された特徴からオズ様であることが推察されます」
 ナマエの説明を聞きながら、オズはまたしても眉根を寄せていた。追い払うつもりで扉を開けたにもかかわらず、どういうわけだかナマエは勝手に話を始めている。そのうえ語っているのは用件そのものではないのだから、オズの端的な問いにすら答えていない。人間の小娘にしては恐るべき、凄まじい図々しさと肝の太さ、身勝手さだった。
 そんなオズの胸中も知らず、ナマエは話を続ける。頬は赤く紅潮し、目の下を縁どる隈とあいまって、半ば異常者のような熱気を放っている。
「それで、ですね。先程オズ様に読んでいただいた草稿にあった伝承と、こちらの書物の記述は、同じ時期の同じ地域を指していますよね。最初、草稿をつくるにあたってグランヴェル城の書物を漁っていたとき、どうにもそこにあった記述に違和感があったのです。ただ、その記述の明確な齟齬や矛盾が見つけられなかったものですから、そのまま草稿に写したのですが」
 そこでようやく、ナマエは書物から顔を上げた。
 三度目──いや四度目の対面にして、はじめてナマエの瞳がオズの燃える瞳を正面から見つめた。
「こちらの書物の記述の内容を踏まえお尋ねしたいのですが、これはオズ様が村に厄災を齎したのではなく、オズ様こそが厄災から人々を救った事実の伝承、ではないですか」
 オズが村に飢饉を齎したのではなく。
 オズが人々を蹂躙したのではなく。
 オズこそが、救済となったのではないか。
 どこかで事実が、順序が、捻じれたのではないか。
 ナマエはまっすぐオズを見つめていた。今この瞬間に限って、ナマエは世界最強の魔法使いへの恐怖も、畏怖も、すべて放り投げていた。ただただ己が見つけた仮定の正しさをオズに答え合わせをしてほしい一心で、それ以外の感情はまるきり頭から抜け落ちていた。
 好奇心と興奮が、ナマエの瞳にはっきり映っている。その瞳はかつて、ほんの束の間の幸福のときをオズとともに過ごした幼いアーサーの眼に似通っていた。
 オズの身体の内側が、ちくりと鈍く痛んだ気がした。しかしオズの巨躯はあまりに頑丈で、オズ自身、それが傷みだとは認識することなく過ぎていく。
 暫時ののち、オズは言った。
「そうだとしたら、何になる」
 それは問いかけですらない、ただナマエの言葉を切り捨てる、そのためだけに発された言葉だった。低く冷え冷えとした声音は、オズがナマエの言葉に微塵も興味を持たず、心揺さぶられることもないのだと暗に示している。
「何百年も昔の、北の国の辺境の地での出来事だ。厄災は事実その地に齎された。呪いは土地を蝕み、人間たちは飢えて苦しみ数を減らした」
「呪い……」
「そうだ。私を狙った魔法使いの掛けた呪いだ。我が城の結界に阻まれ、近隣の村に降り注いだ」
「それを、オズ様がお救いになられたのですか」
「双子が言ったからだ。私のせいで無辜の民が害を被ってはならぬと」
 それだけだ、とオズは淡々と告げた。何かを弁解しようという意思は感じられない。何かを誤魔化そうという作為も孕まない。本当にそれだけの、言葉通りの意味しか持たぬ言葉だった。
「……ですが、少なくともオズ様の手による厄災ではなかった」
「如何な理由であろうと、如何に人間が救われようと、それはすでに済んだことだ。私が呪おうが他の何物かが呪おうが、起きたことに変わりはない。過去はそこにあるだけだ。多少の取り違えがあろうと、今更それを気にする者もいない。双子ですらもう、忘れ去っていることだろう。誰も知ることはなくても、事実はただ事実として私だけが知っていればいい」
「しかしそれでは、私が此処にいる意味がありません」
「おまえの存在する意味など私には関係がない」
 そっけなく、オズは切り捨てた。事実、オズはそう思っていた。
 伝記の編纂など望まない。誰に記憶してほしいとも思わない。自分ですら、自分を正しいと認めていないのだ。誰に何を思われたところで、オズの心が揺らぐことはけしてない。
 ふたりの間に、ふと沈黙が落ちた。互いに発する言葉を持たぬまま、視線すら交わさず無為な時間が流れ続ける。遠く、窓の外から雨が硝子を打つ音がした。何時の間にか降り出した雨が、沈黙の隙間をたどたどしく埋める。
 やがて、ナマエが小さく息を吸い、そして言った。
「それでも、アーサー様が、お望みです」
 それが卑怯な言葉であることは、口に出したナマエが一番理解していた。オズの表情が見る間に険しくなる。ナマエが素早く言葉を継いだ。
「オズ様が、ご自身の評判にご興味がないことは存じ上げております。世界最強をほしいままにするオズ様には、人間たちからの評判など取るに足らぬ雑事でございましょう。ですが、アーサー様にとっては大切なことなのです。そして私は、アーサー様にとって大切なものを大切にする者でありたいのです。どうかこの仕事が終わるまでの間だけ、私にオズ様のお力をお貸しいただきたい」
 ナマエの瞳がまた、オズをまっすぐ見つめていた。すでに好奇心は鳴りを潜め、瞳にうつるのはただ真摯な懇願だ。
 ナマエは真に、アーサーの忠臣であろうと努めている。世界最強のオズを恐れる以上に、主君であるアーサーの意に沿おうとしている。オズの目にも、それは明らかなことだった。
 沈黙のなか、オズがひとつ嘆息する。そして、
「……ここは魔法使いの出入りが多い」
 脈絡もなく、淡々と告げた。不意をつかれ、ナマエが「はぁ」と気の抜けた返答をする。
「それはまあ、通路、ですものね」
「談話室もそうだ。おまえが来るたびに人払いをすることはできない」
「人払いをされていたのですか……」
 そういえば、ナマエがオズに会いにくるときに談話室にほかの魔法使いが入ってきたことは一度もなかった。魔法使いと人間合わせて二十名以上が生活している場にもかかわらず、もっとも人が集まりやすい談話室が毎回静かだったことに、ナマエは今ここではじめて気付く。
 そんなナマエに、オズはまたいつものように、短い言葉をぞんざいに投げた。
「部屋に入れ」
「えっ」
「すべてを記憶はしていないが、著しい間違いを正すことはできるだろう」
「わ、わた、私がオズ様のお部屋に……?」
 戸惑うナマエを見下ろして、オズはむっと眉根を寄せた。
「……嫌ならば、」
「し、失礼いたしました! 謹んで入らせていただきます」
 大急ぎで部屋の中に滑り込むナマエに、オズが呆れたような視線を向ける。ナマエの服の裾がひらりと揺れ、そのすぐ後に部屋の扉は音もなく閉じた。

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