禄を食む身

 馬車を降りて魔法舎の前に立ったナマエは、空を仰いで額の汗を拭った。馬車での移動は楽だが、日差しを避けるためにこの時期は幌をおろしている。さして速度も出ていないので、馬車での移動は存外暑い。
 ──こういうとき、箒でひとっ飛びの魔法使いたちが羨ましい。
 そんなことを考えつつ、ナマエは魔法舎の外門をくぐった。本来部外者が出入りできないよう、魔法舎の門には結界が張られている。しかしナマエはアーサーの命によりたびたび魔法舎を訪れるため、結界に阻まれることのないようにすでに魔法使いたちに頼んである。
 ひとりでも難なく魔法舎の敷地に入り込み、そのまま建物の中へと向かう──向かおうとしたところで、
「あっ!」
 背後から、聞き慣れぬ焦った声がした。直後、ナマエが振り向く間もなく、誰かの身体がぶつかった。勢いよく身体が傾いで、そのまま前のめりに地面に倒れ伏す。
「痛い……」
「わっ、悪い。まさか人がいるとは思ずに──って、ナマエか! 悪い、怪我はないか」
 そう言って地面に倒れるナマエに慌てて手を差し出したのは、左右で異なる色の瞳を持つ青年だった。中央の国の元騎士団長でありナマエの友人でもあるカインだ。ぶつかったことで肌が触れ、ナマエの姿が見えるようになったらしい。
「カインだったなら仕方ないね。見えていなかったんでしょう」
 倒れたままでナマエが困ったように笑うと、カインも眉を下げて同じく笑う。
「ああ、悪い。少し話に夢中になっていて前方確認がおろそかだった」
「見えていないのに確認も何もしようがないよ。気にしないで」
 カインの手をとり立ち上がると、ナマエはそう笑って見せた。幸いにして以前オズの前で醜態を晒したように鞄の中身をひっくり返すこともなく、怪我というほどの怪我もしていない。悪意があったわけでもないから、それきり気にするのはやめにした。
 衣服に付着した砂を払い、ナマエは首を曲げる。カインの後ろにはナマエの知らない人物がひとり、事の成り行きを心配そうに見つめていた。先程カインとぶつかる直前、声を上げた誰かであることは間違いなさそうだ。
「カイン、こちらの方は──」
 いきなり声を掛けるのも不躾かと思い、ナマエはひとまずカインに尋ねる。しかしカインが答えるより先に、視線の先の人物が口を開いた。
「はじめまして、真木晶といいます」
「ナマエは会ったことなかったっけ? 晶は俺たちの賢者様だ」
 賢者──その短い肩書に、しかしナマエは急いで姿勢を正した。そして優雅に腰を折る。
「お初にお目にかかります、賢者様。私、中央の国でアーサー殿下にお仕えしておりますナマエ・ミョウジと申します。賢者様の御高名はかねてよりお伺いしております」
 異界から出でし賢者といえば、世界を救う使命を帯びた賢者の魔法使いたちを束ねる存在だ。ナマエの主であるアーサーも、賢者の魔法使いのひとり。つまりナマエにとって、賢者である晶は主と比肩する、あるいは主よりさらに高い位の貴人ということになる。
 しかし突然ナマエが礼をとったのものだから、当然晶は困惑した。おろおろとする晶に代わり、カインがナマエの肩を叩いて言った。
「ナマエ、固い固い。晶が困ってるだろう」
「あっ、いえ、あの、こちらこそアーサーにはいつもお世話になっています」
 慌てて頭を下げた晶を見て、カインが面白そうに笑った。
「そういうことなら、俺もアーサーにはお世話になっている」
「私もアーサー様には主として良くしていただいています」
「なるほど、それじゃあ俺たちは全員アーサーにお世話になっている者たちってことだな!」
 晶とナマエの肩を叩いて満足そうに笑うカイン。晶とナマエは揃って苦笑する。
「なんというか、ものすごくざっくりと共通項を括りましたね」
「私は臣下だからお世話になっているというのはまた少し違う気がするんだけど」
「それじゃあナマエは何だ?」
「グランヴェル王家の禄を食む身……?」
「言い換えればアーサーに世話になってる、だろ」
「ううーん、そうなのかしら……? まあいいか……」
 たしかにカインの言うとおり、ナマエもアーサーの世話になっていないわけではない。ただどちらかといえばナマエは現在アーサーの持ち込んだ厄介な仕事を押し付けられている立場なので、単に世話する、されるという言い方ではどうにもうまくしっくりこないのだ。
 ともあれ、そのことをここで議論しても仕方がない。ナマエは胸中のうまく言い表せない感情をいったん脇に置いておくことにした。すると見計らったかのように、
「今日はオズに会いに来たのか?」
 カインがナマエに話を振る。ナマエは微笑み肯いた。
「うん。この後オズ様のお部屋をお伺いするお約束になってる」
「えっ、オズの部屋に!?」
 余程驚いたのか、晶が頓狂な声を上げた。カインも驚き目を見開いている。
「前は談話室じゃなかったか?」
「そうだったんだけど、毎回談話室を人払いするわけにもいかないからって。この間はじめてお部屋にお招きいただいて、次からはオズ様のお部屋でということになったのよ。人のいない場所がいいといったって、まさかオズ様をお城に呼びつけるわけにもいかないし」
 前回というのは、ナマエが書庫で発見した資料を手に、オズの部屋を急襲──訪問した日のことだ。その日はおかげでゆっくりとオズに話を聞くことができ、これまでの数度の聞き取りの中でももっとも充実した仕事となった。おまけにオズからは紅茶が振る舞われ、思いがけず快適な時間を過ごすことができた。
 もちろんそのことをナマエは誰にも話していない。ナマエに伝記編纂を命じたアーサーには定期的に進捗の報告をしているが、職務上の報告においてそこまでの事情を打ち明ける必要は何処にもない。オズに気を遣わせたなどということがアーサーに知れれば、温和なアーサーといえどさすがに苦い顔をしかねない。
 しかしカインと晶の驚きと懸念は、ナマエの不安とはまた別のところにあった。
「オズに限っておかしなことは何もないとは思うが……そういうのは、貴族として大丈夫なのか?」
 気遣う色のカインの視線に、ナマエはにこりと笑って返した。
「大丈夫。このことは誰にも話していないし、それに仮に知られたたしても、このくらいで動じるような両親なら娘を仕官させたりしない」
 貴族としてというのは要するに、オズとそれほど親密になっても良いのかということだ。賢者の魔法使いはおおむね人間の味方であるとはいえ、未だ人々の中に蔓延る魔法使いへの偏見は根深い。特に貴族階級の人間の中には、強力な魔法使いであるオズを忌避する風潮がある。
 カインが心配しているのも、まさにそのことだった。場合によってはナマエの仕官も、親族連中によって取り消されかねない。
 しかしナマエは、カインが不安に思うほどには事を深刻に捉えていない。そもそも魔法使いへの嫌悪はナマエにはないし、ナマエの親族たちもまた親アーサー派──魔法使いを忌避する考えとは訣別していた。
 もちろん嫁入り前の娘として、節度と慎みを持つべきだとはナマエも思う。それでも職務に殉じて万が一何か不都合を被るようなことがあったとしても、それは仕方のないことだとも思っている。主に忠を尽くす以上、最優先は主の命に従うことだ。それにナマエは、そうした理屈以前にオズが無体なことをしないと信じてもいる。
 きっぱりと言い切るナマエは、自分でも多少オズへの認識を改めつつことあることを自覚していた。少なくともオズは話せばきちんと言葉が通じるし、部屋に招いた相手に紅茶を振る舞ってもくれる──要するに、ナマエと同じような言語と感覚を持っている相手なのだ。ナマエは書物を愛するが、自らの目で見た事実は書物から得た知識よりも信じるに足る情報だ。ナマエが認識する限りにおいて、オズは不埒で無法な魔王などではなかった。
 そんなナマエを、何処か眩し気に晶が見つめる。
「ナマエさんは──」
 そう晶が口を開いた直後、次の語を発するまでの間隙をつくようにナマエが言葉を挟んだ。
「どうぞ私のことはナマエとお呼びください、賢者様」
「えっ、でも」
「我が主が敬称をつけず呼ばれているのに、臣下の身で主を差し置き敬称つきで呼ばれるわけにはまいりません」
「そ、そういうものですか……?」
 晶は困ったようにカインに視線で意見を仰ぐ。当然ながら晶には貴族間での事情など分からない。魔法舎に集う魔法使いたちの中には社会的な地位の高い者もいるにはいるが、基本的には賢者の魔法使いたちの間に序列はなく、また魔法舎の外での位の高さを持ち込もうとする者もいない。
 晶の視線を受け、カインが小さく頬を掻いた。多少自由なところがあるとはいえ、カインも以前は騎士団長の位にあったくらいだ。貴族の思考や振る舞い、彼らなりの理念については理解している。
「晶、悪いが聞いてやってくれ。ナマエにもナマエの事情というか、思うところがあるんだよ」
 取り成すように晶に言うと、それを見たナマエが浅く頷いた。カインからそう言われてしまえば、晶にはそれ以上食い下がる理由もない。
「分かりました、それではナマエと呼ばせてもらいますね」
「感謝いたします、賢者様」
 ひとまずそんなふうにしてナマエと晶の間の線引きがなされたところで、場の空気を和ませるかのようにカインがさらりと話題を変えた。
「それで、伝記の編纂事業の方は順調か?」
「どうなんだろう。自分でも正直いまいち進み具合がどうなのかよく分からなくて……。何せオズ様は悠久にも等しいときを生きておられるし、諸国に散らばる伝承は小さなものまで集まれば相当数にのぼるでしょう。正直、ある程度の取捨選択をしていかないとどうにも……」
「大変そうですね……」
 溜息をつくナマエに、晶がそっと眉根を寄せた。賢者として各地を行き来する晶には、説話の蒐集だけでも一苦労だということが容易に想像できる。特に晶の元居た世界と比べると、人間の通信伝達技術はまだまだ各段に劣る。この世界で国境を越え活動をするということは、相当に骨が折れる作業だった。たとえアーサーの後ろ盾があったとしても、その事実に変わりはない。
「まあ、これまでオズは自分に纏わる説話について、どんな内容であろうと肯定も否定もしてこなかっただろうからな。そういう話は際限なく広まるものだろうし」
「そういうことです。だから今日は、さすがにこれは眉唾という話をリストアップしてきて、オズ様に正誤を分けてもらおうと思いまして。それを頼りに、今後の草稿づくりに取り組むことにしました」
「なるほど、たしかにオズ本人に事実確認をしてもらえば話が早いですね」
 晶の弾んだ声を聞き、ナマエも小さく微笑んだ。とはいえ、この方法にもまったく難がないわけではない。
「ただ眉唾ものの伝承を集めているので、できればオズ様のお目に触れさせたくないような酷い語り草のものもあるのです」
「たとえばどんな?」
「あまりにも酷い──というか確実にデマだと思われるものは端から無視しているのですが、オズ様の御力や様々な事情を考慮するとギリギリ尾ひれがついただけと言えなくもない、でもほとんど怪物まがいな伝承、とか。そういうものも結構あるんですよね。まあこればかりは仕方ありません。お叱りを受けたら誠心誠意謝ります」
 今日一番の溜息とともに、ナマエが悩まし気な声で嘆いた。オズのあの赤い瞳でぎろりと睨まれたらと思うだけで、すでにナマエの胃はきりきり痛み始めている。
 しかしそんなナマエの胃痛を知ることもなく、怖いもの知らずのカインはからりと笑い飛ばした。
「少し前まではオズといると空気が薄くなるとまで言っていたのに、随分歩み寄ったな」
「主命だから致し方なし」
 深く重たいナマエの溜息は、吹き抜けた夏の風にまぎれてすぐに消え去った。

prev - index - next
- ナノ -