誰しも持つ矜持

 カインと晶と別れたナマエは、そのまままっすぐオズの部屋へと向かった。魔法舎へは約束の時間よりずいぶん早く到着していたのでどうしたものかと思っていたが、カインたちと話をして時間が潰れたおかげで、約束の時間ちょうどにオズの部屋のドアをノックすることができた。
 ノックの直後、部屋の中から応えが返る。すぐに内からドアが開き、無表情で肘掛け椅子に腰かけたままのオズがナマエを出迎えた。
「本日もよろしくいたします、オズ様」
「入れ」
 挨拶もそこそこに、すぐに仕事に取り掛かった。
 ナマエは先程カインたちにしたのと同じ説明をふたたびオズにしてから、説話のリストを手渡した。リストにはおおまかに、説話の伝わる地域とその内容が羅列されている。万年筆を手にしたオズは、それをひとつひとつ事実か確認し、デマである、あるいは記憶にないものを消していく。単調で、静かな作業だ。
 座り心地のいいソファーに浅く腰掛け背筋を伸ばしたナマエは、先程からずっと、目の前でナマエの持参した説話リストに目を通すオズをちらちら盗み見るようにして窺っている。
 真夏だというのに、オズの部屋の中は不思議と肌寒いくらいの室温が保たれていた。それが魔法によるものなのか、建物の構造上そうなるのか、はたまたオズと同じ室内にいることで精神的に寒く感じているのか、ナマエにはいまひとつ判別がつかない。それらすべてが理由であるような気もする。
 オズが魔法で淹れた紅茶には、まだひと口も口をつけていない。ナマエはいつ叱られるのではないかとひやひやし続けており、あいにくと紅茶を楽しむどころではなかった。
 毎度のことながらナマエの持参したリストを読むオズの表情は険しい。そのオズの表情を見ているだけで、ナマエは寿命が縮むような思いを味わうはめになる。
「あの、オズ様」
 オズがページを捲るために視線をリストから外したタイミングを見計らい、ナマエはおそるおそる声を掛けた。呼びかけられたオズが、訝し気に視線を上げる。眉間の皺はリストを読んでいたとき刻まれていたものだが、視線を向けられたナマエとしては、あたかもオズが自分に対し怪訝で不機嫌そうな顔をしているかのように感じられる。もっともリストを持参しているのはナマエなのだから、それもあながち間違いというわけではない。
 自ら呼びかけたにも関わらず、オズの真紅の視線を受けたナマエは早々に耐え兼ね、
「私がお持ちしたもののせいで御不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
 そう詫び視線を逸らした。オズは一瞬もの言いたげに眉を動かしたが、すぐに口を開きはしなかった。オズがようやく言葉を紡いだのは、ナマエの言葉の意味をたっぷり時間をとって噛み砕いてからだった。
「……お前が謝ることではない。アーサーの指示なのだから」
 ただそれだけの返答をするためにオズが要した時間は、おそらくほかの者であれば会話が二、三往復するのに十分な時間だった。ナマエはぱちくり瞬きをする。物々しいオズの口調に、一瞬何かとてつもないことを言われたような気がしたのだ。
 しかし実際にはナマエの謝罪に対するただの応えだった。これといって重大な事を言われたわけでもない。口調と会話の内容のギャップに気付き、ナマエは少しだけ表情をゆるめた。そうだ、オズは常に物々しく厳かではあるものの、口にする言葉すべてが箴言や呪言というわけではない。そのことにふっと気付く。
 いくらか緊張がほぐれたナマエは、これこそがアーサーの言うところのオズの優しさなのだと理解した。しかしその優しさに甘えていては職務を遂行することはできない。仕事相手でもあり、また主の恩人でもあるオズに極力気分よく仕事をしてもらうこともまた、ナマエの重要な仕事に含まれる──と、最近のナマエは意識を改めている。
 ようやく紅茶をひと口飲みこんで、ナマエはすっと表情を引き締めた。目の前のオズは泰然としてナマエと向かい合っている。ナマエの表情の変化に気付いたのかも、ナマエからは分からないほどだ。
「たしかにオズ様のおっしゃる通りではあります。ありますが……その、あまりにも悪しざまに記されていた伝承をこのようにオズ様のお目に掛けると決めたのは、アーサー様ではなく私でございますので」
 すべての責任はナマエにある。そのことだけは疑いようもなくたしかだと、ナマエはオズにそう伝えたかった。自分が受け持つ仕事であり、自分がすべての裁量を与えられている。それなのに責任の所在だけをアーサーに任せるのは、いくらナマエが下っ端だからといったって矜持が許さない。
 オズは暫し、凪いだ瞳でナマエのことを眺めていた。見つめていたといえるほどに一心に視線を向けていたわけではない。それでもその真紅の双眸の真ん中には、正しくナマエの自信なさげな姿をとらえていた。
 沈黙が部屋の中に降り積もる。ナマエは相手によっては多弁だが、けして沈黙を苦とするタイプではない。それでもやはり、世界最強の魔法使いにじっと視線を向けられ沈黙を強いられていれば、次第に落ち着きをなくしそわそわし始める。
 ──何か此方から声を掛けたほうがいいのかしら。
 膝の上で握った手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながら、ナマエが世界最強の魔法使いとの会話の糸口を脳内で必死に探し始めたところで。
「人間が」
 おもむろに、オズがぼそりと呟いた。低く深く、ともすれば沈黙の中に紛れてしまいそうに──それほどまでに無造作に放られた短い言葉を、ナマエはあやうく見逃しかけた。どうにか取りこぼさずに拾い上げ、ナマエはオズに視線を向ける。ふたつの視線が、わずかな緊張を孕んで静かに絡んだ。
 オズがまた、悠然と口を開いた。
「人間が私をどう思おうと、何を記そうと、それは一瞬光がまたたくのと同じようなものなのだと思っていた。短い時間しか生きられぬ人間がほんの一瞬思考するだけのものに、大きな意味や価値を見出していなかった」
「オズ様は御長命の魔法使いでいらっしゃいますから、人の一生など、オズ様からご覧になればそのような儚いものに思われるのでしょうか」
「人間だけではない。ほとんどの魔法使いもまた、現れては消えるだけだ」
 オズの言葉は淡々としていた。だからこそ、その言葉には重みが増す。
 ナマエは中央の国の人間として生まれ、魔法使いとの関わりもほとんどないままこれまで育ってきた。知っている魔法使いはアーサーとカインだけだ。彼らは温厚で人あたりもよく、誰かと衝突するということ自体が少ない。
 北の国の魔法使いは、そんな彼らとはまるで生き方が異なる。オズの魔法使いとしての半生は望まぬ闘争に満ちていた。そしてその闘争は常に、相手が石と化し朽ち果てることでのみ終焉を迎える。
 人間であろうと魔法使いであろうと、オズの前で長く呼吸をできる者の方が稀なのだ。オズにとっての他者とは、長年そういうものでしかなかった。まして人間の間に伝わる伝承など、何の意味も持たない無力な言葉にすぎない──ずっとそう、思い続けてきた。
「それらの説話や物語が、よもや数百年に亘り語り継がれ、お前に頭を下げさせることになるとは思わなかった」
 脈絡のないように思われた話は、唐突に帰結した。ナマエがオズに謝罪したことについて、それはオズなりの不格好な励ましでもあったのかもしれない。
 しかしナマエは、オズの言葉にほのぼのと笑って答えた。
「お言葉ですが、オズ様。私の頭などいくら下げようと構わないのですよ」
「しかしお前は貴族だ。貴族というものは頭を下げない」
「まあ……そういう者も中にはおりますが……」
 幾人かの知り合いの顔を思い出し、ナマエは困ったような呆れたような、何とも言えない顔をする。オズがどこで貴族というものについての知見を得たのかは不明だが──おそらくはアーサーを迎えに来た中央の国の官人から受けた印象だろう──少なくともそれは完全に間違いというわけでもないのだった。
 だがナマエとしては、そうした貴族の印象をナマエに押し付けられても困る。アーサーに驕ったところがないように、ナマエもまた、自らを特権階級の人間だとは思っていなかった。
「もちろん私とて意味なく頭を下げたりはいたしません。私のような若輩であっても、矜持というものはございます。貴族だとかは関係なく、それは誰しも持つものでございましょう。魔法使いであっても、人間であっても」
「……そうか」
「ただ、オズ様に御不快な思いをさせたことへの謝罪が少しでも伝わるのであれば、頭を下げるくらいはいくらでも」
「不快というほどではない」
「そうでしたか。これは失礼いたしました。出過ぎたことを申しました」
 そう締めくくって、ナマエはふたたび口を閉ざした。オズはまだリストのすべてに目を通したわけではない。これ以上の会話はオズの仕事の邪魔をするだけだと判断した。
 しかしオズの方は、尚ももの言いたげに眉根を寄せていた。そしてナマエが黙ってから暫しの間を置いたのち、ふたたびオズは会話の口火を切った。
「お前は誰に対してもそのような話し方をするのか」
 思いがけない言葉を掛けられ、ナマエは一瞬面食らった。そのような、というのがどのような話し方かは分からぬが、ナマエとしてはごく自然に、礼を尽くしてオズとの面談に臨んでいたつもりだった。
「……私の言葉や立ち居振る舞いについて、何か至らぬ点がございましたでしょうか」
「カインやアーサーは……若者は、もっと砕けた話し方をする」
「恐れながら、アーサー殿下と私ではあまりにも立場が」
「カインは」
 そう言われたところで、ナマエは返答に窮するだけだ。何せナマエはカインがオズと話をしているところなど見たことが無かった。
 カインのことだから、オズにも気軽に話しかけているのだろうという想像はつく。だからといって何処まで砕けた態度なのかまでは分からない。まさか世界最強の魔法使いを相手にため口で話をしているとは思わない──思いたくないが、しかしあのカインだ。そうではないとはとても言い切れなかった。
 困ったナマエは窺うようにオズを見た。オズはナマエの言葉を待つように、身じろぎひとつせぬままナマエを眺めていた。気分を害しているわけではなさそうなことだけが救いだ。ナマエはひとつ空咳をして、どうにか気持ちを立て直した。
「ええと……要するにオズ様は、私がカインのように砕けた話し方をするのをお望みなのでしょうか……?」
「そういうわけではない」
「そ、そうですか」
 それならばどうしろと言うのか。もはやどうすることもできず、ナマエは眉尻を下げてオズを見るしかなかった。依然としてオズは微動だにせず座っている。しかしリストのチェックを再開する気配もない。この会話はまだ終着していないということだ。
 それならば、まずは会話を終わらせなければならない。そうでないと、ナマエの仕事はいつまで経っても終わらない。
 意を決し、ナマエはオズに言った。
「……カインがオズ様にどのような話し方をしているのかは存じ上げませんが……も、もう少し砕けた話し方をした方がよろしければ、そう、いたします、が……」
 だんだんと尻すぼみになるナマエの声は、最後には聞き取れないほどに小さくなって消えてしまった。
 事ここに至り、さすがにオズもナマエが困り果てていることに気付いたのだろう。オズは今日一番の顰め面をつくると、ばさりとリストをテーブルに投げ出した。びくりとナマエの身がすくむ。その怯えを見て取って、オズは溜息を吐き出し言った。
「恐れる必要はない。ただ、若い者が畏まった話し方をするところは──見慣れない」
 無理をする必要はない、と。そう言ってオズは、静かな瞳をナマエに向けた。
 炎よりも赤い瞳は、一切の烈しさを持たず、ただ静かにナマエの姿を映している。不思議だ、とナマエは思った。アーサーのサファイアの瞳とはまるきり色が違うのに、宿すあたたかさは不思議とよく似通っている。
 オズの視線を真っ向から受け止めていても、ナマエの心に恐怖や焦燥はまったく生まれなかった。
「ふふっ」
 やがて小さく笑みを零したナマエに、オズが低く「……何がおかしい?」と問いかけた。世界最強の魔法使いからの問いかけは、並の人間ならばその場でひれ伏し許しを請うてもおかしくないような台詞だ。
「はっ、これは失礼いたしました」
 ナマエも咳払いとともにそう謝りはしたものの、しかしゆるんだ顔はまだゆるんだまま、引き締まりはしなかった。そして、
「私はこれまでオズ様の前で、けして無理して畏まった話し方をしていたわけではなかったのです。ですがオズ様からそのように恐れ多いお言葉を掛けていただきましたので、折角ですからもう少し砕けた──そうですね、アーサー様と個人的なお話をさせていただくときくらいの話し方に」
 嬉しげに目元を綻ばせるナマエに、オズは「ああ」と短く応え、今度こそふたたびリストのチェックを再開した。

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