東の魔法使い

 ナマエがオズの部屋を辞したのは日盛りをやや過ぎ、暑さがわずかにゆるみ始めた頃だった。階下にくだり、玄関とは反対の方向に通路を進む。魔法舎に出入りする機会も増えたことで、建物の構造はすでに頭に入っている。
 ナマエが目指しているのは中庭だった。中庭に出るためには談話室を通るか、談話室をぐるりと半周囲むように伸びた通路にある扉を使う必要がある。談話室にはナマエの見知らぬ魔法使いがいるかもしれず、今日のところは通路にある出入口を使用することにした。
 大きな窓が設えられた通路には、夏の日が高い位置から光を降り注いでいる。絨毯の敷かれた通路が明るく照らされ、ナマエはそっと目を細めた。オズの部屋は昼間でも何処か薄暗く、その薄暗さに慣れた目では通路はいささか眩しい。
 ──睡眠不足の身体にこの直射日光は堪える……。
 ふらふらと歩みを進めながらそんなことを考えるともなく考えていると、ふいに背後から「ナマエ!」と突如大声で名前を呼ばれた。振り返ればそこには、にこやかに近寄ってくるカインの姿がある。ナマエは歩みを止め、大股でやってくるカインを待った。いつも通り、腰に佩いた剣がカインの歩みに合わせて揺れている。
 やがてカインが目の前までやってくると、ナマエはごく親しい友人にしか見せない笑顔をつくった。
「今日はよく顔を合わせるね。まあ、同じ建物の中にいるのだからそれも当然かもしれないけれど」
「だな。そっちはオズのところに行った帰り? また箒で城まで送ってやろうか」
「ありがとう、でも今日はちゃんと迎えが来るよ。といってもまだ迎えまで時間があるから、中庭で本でも読もうかと思っていたところ」
 そう言ってナマエは、ぱん、と提げた鞄を軽く叩いた。ナマエは貴族ではあるものの、いざとなれば乗合馬車への乗車もやぶさかではない。しかし今日はオズとの面談に合わせそれなりに貴重な資料もいくらか持参していた。それらの資料に何かあってはまずいので、きちんと事前に迎えを頼んでいる。
 ただ、余裕を持って迎えの時間を設定してしまったため、妙に時間を余らせてしまっていた。また書庫に籠ってもいいのだが、それだとうっかり時間を忘れて没頭してしまう恐れがある。それで息抜きに、読書でもしようと中庭に向かっていたのだった。
 ナマエの話を聞き終えたカインは、唐突ににこりと微笑んだ。巷の娘たちが悩殺されそうな微笑だ。
「それならナマエ、お茶を淹れるから付き合ってくれないか?」
 途端にナマエが訝し気に眉を顰める。
「カインがお茶……?」
「なんだ、その顔は。俺だって騎士団長としてアーサーに随伴することがそれなりにあったんだ。淑女をお茶に誘う作法くらい弁えている」
「重ねて驚いた。まさかカインに淑女と言われる日が来ようとは」
「仕方ないだろ、昼間からあんたをパブやバーに誘うわけにはいかないし。そもそも酒は飲めるのか?」
「あまり得意ではないね。飲めないこともないけれど」
 貴族の娘なのだから、ナマエとて夜会に参加したことくらいはある。しかしああいう場所には馴染めずに、今では付き合いで稀に顔を出す程度だった。自宅での食事でも、やはり酒は時折味わう程度だ。何より飲酒をすると読書に集中できなくなる。普段からろくに飲まないから、いつまでも飲めないままだ。
「それじゃあやっぱりお茶会だ。談話室でいいか? あいにく俺の部屋は散らかっていて」
「もちろん」
 読書はいつでもできることだ。ナマエはカインの誘いをありがたく受けると、共に談話室に向け歩き出した。

 先程横目に見て通り過ぎた談話室のドアを押し開け中に入ると、中にいた魔法使いがふたり、会話を中断し、ナマエとカインに視線を向けた。
「ヒース、それにファウストか」
 ナマエにとってははじめて会う顔の魔法使いだった。警戒心をあらわにするファウストと、戸惑うように視線を彷徨わせるヒースクリフに、ナマエは一瞬足を止める。しかしカインが気にせずふたりの方に歩いていくので、逡巡のすえナマエも続いた。
「紹介しよう。東の魔法使いのヒースクリフとファウストだ」
「は、はじめまして」
「紹介なんかされても困る」
 ヒースクリフは一応挨拶をしたものの、ファウストの方はにべもない。どちらの魔法使いもナマエの来訪に困惑しているのが明らかだった。
 しかしナマエも、紹介の相手が東の魔法使いと聞いた時点でふたりの態度の理由を察する。東の国に遊学経験のあるナマエは、東の国の出身者の気性をそれなりに把握していた。
 ここはひとまず、カインに任せた方がいいだろう。ナマエはそう判断し、会話の流れをカインに委ねることにした。
「ファウスト、そう言わないでくれ。せっかくの縁だ」
「何が縁だ……」
「こっちはナマエ。最近よくオズを訪ねてこの魔法舎にきているから、顔を合わせることもあるだろう。互いに挨拶しておいた方が後々面倒がないんじゃないか」
「それは、そうかもしれないけど」
 ファウストが言い淀んだタイミングを見計らい、カインがナマエに目配せする。ナマエは一歩踏み込んで、カインの影から姿を現した。
「はじめまして、中央の城でアーサー様にお仕えしておりますナマエ・ミョウジと申します。現在はオズ様の伝記を編纂している最中でして、こちらにもよくお邪魔しております。以後お見知りおきを」
「女性の官吏の方ですか」と興味深げにヒースクリフ。ナマエが微笑み頷いた。
「はい、文官です。本来は書記官として登用していただいておりますが、今はアーサー様から任された仕事の方を優先しております」
「ナマエの家系は代々グランヴェル王朝に仕えてるんだ。もちろん家柄だけで登用されているわけじゃないが」
 朗らかにカインが言い添える。するとファウストが何かに反応したかのように、小さく身じろぎしてナマエの方を向いた。そして色眼鏡ごしに、まるでナマエを検分するようにまじまじと見つめる。
「君は姓をミョウジというのか。何代か前の先祖にテオという男はいるだろうか」
「テオ……ええ、おります。我が一族がグランヴェル王朝にお仕えするきっかけとなった先祖で、建国のいしずえなのだと、我が家ではそう伝えられております」
「そうか。いや、すまない。かつてそういう男がいたと、聞いたことがあったんだ。忘れてくれて構わない」
 それきりファウストは視線を伏せ、口を閉ざした。ナマエはカインと目を合わせる。何か含むところのありそうな物言いと態度ではあったが、それについて真っ向から質問をしたところで、ファウストからすんなり返事が得られるとは思えなかった。
 先祖の話は気になる。しかし、今はひとまずその件については脇に置いておくことにした。それよりもナマエには、もっと重要な話があった。
 ナマエは体の向きをヒースに向け、膝を曲げて礼をとる。そして、
「ブランシェット家のヒースクリフ様ですね。かねてよりヒースクリフ様には一度ご挨拶に伺いたいと思っておりました。ご挨拶が遅くなってしまう申し訳ございません」
「え!? ええと……?」
 突然のナマエに言葉に、ヒースクリフは助けを求めてカインを見た。カインも首を傾げている。
「ヒースとナマエは知り合い、ではないよな?」
「俺には覚えがないんだけど……。すみませんが、以前に何処かでお会いしましたか?」
「いえ、直接お目にかかるのは今日がはじめてです。申し訳ございません」
 ナマエはそう言って、ふたたび頭を下げた。
「実は以前にブランシェット侯爵──ヒースクリフ様のお父上より御恩を賜りまして」
「父から、ですか」
「以前、私は二年ほど東の国に遊学していたのですが、その際に下宿先探しなどでお父上にお力添えいただいたのです。ご令息が魔法舎にお住まいであると聞き、機会がありましたら一度お礼をと思っておりました」
 滔々と語るナマエの言葉を聞き、ヒースクリフはようやく思い当たることがあったのか、ああ、と声を上げた。
「そういえば父から聞いたことがあります。中央の国の貴族のご令嬢が、見聞を深めるためにブランシェット領にしばらくの間ご遊学されていたと。俺は丁度その頃魔法の修行が忙しくて、結局お会いする機会はなかったんだけど、たしか俺の家庭教師をしてくれていた学者の家に下宿をされていたんですよね」
「はい。その節はとてもよくしていただきました」
 屈託なく笑い、ナマエが答えた。
 ナマエが東の国に遊学に出ていたのは今より二年前、十八歳の頃のことだ。一年間の遊学期間を経て、一年前に帰国。そして半年ほど前の試験合格を経て、現在中央の城に仕官している。
 名家の出身とはいえ年若い女性であるナマエは何かと侮られがちだが、東の国への遊学のおかげで箔がつき、おかげで今もアーサーの個人的な命令にばかり従っていられる。そうでもなければ、さすがに非難は免れないところだ。
「お父上は御息災でいらっしゃいますか?」
「はい。おかげさまで。ナマエさんとお会いしたことを伝えたら、きっと父も喜びます」
「よろしくお伝えください」
 ナマエとヒースが貴族同士らしい交流をするなか、割って入るように口を開いたのはカインだった。
「というかそもそも、どうしてナマエはブランシェット領に遊学なんてしていたんだ? ナマエは中央の国の貴族──高官の娘だろう。俺は東の国の地理には詳しくないんだが、そういうことなら東の国でももっと王族寄りの家柄に頼るもんじゃないのか」
 この疑問に答えたのは、ナマエではなくファウストだった。
「彼女が貴族、それも宮廷で国王の腹心として働く家柄の出自だからこそ、だろう。東の国と中央の国は平和協定を結んでいるとはいえ、まだまだ難しいところがある」
「ファウスト様のおっしゃる通りでございます。私のような立場の人間が、娘とは言え東の国の政の中枢にある方々に近寄るというのは、あまり良いことではないという配慮ですね」
 ファウストに続き、ナマエも難しい顔で頷いた。
 目下大陸を五分する五つの大国は、平和協定のもとに不可侵の盟約を結んでいる。しかし実際にはその均衡は常にあやうい。ほんの些細なきっかけひとつで、いつ崩れるともしれない脆さを孕んでいる。
 中央の国と東の国は現在、大きな火種を抱えているわけではない。しかし西の国は数年前より戦の好機を手ぐすね引いて待っているような状態だ。東の国の政府としては、いつ対立するかしれない隣国の貴人を、まさか政の中枢に近づけるわけにはいかない。
 もっとも、その程度のことは中央の国の重臣であるナマエの父でも考え付く。要らぬ火種をつくる必要もない。自然、遊学先は東の国の首都を離れ、なおかつ治安の安定した土地ということになった。そこからさらに伝手を頼れそうな土地ということで、ブランシェット領が遊学先に選ばれたのだ。
「ああ、それで家庭教師の家に下宿になったのか」
 カインが息を吐いた。ブランシェットは一領主であると同時に、東の国では名の知れた武門でもある。地方領主といえど城内に長くナマエを留めさせるわけにはいかない。
「それももちろんそうなのだけど」とナマエ。「学ぶために東の国に渡っていたのだから、貴族の屋敷で悠々と過ごすというよりはもっと市井の人々に近い方がよいだろうと」
「実際、ブランシェットを選んだのは正しいだろうな。東の国は保守的かつ閉鎖的だから、中央の国からの留学生なんて煙たがられるだろうし。それに、アーサーを王位継承者として支えていくというのなら、ブランシェット以上に勉強になる土地はない。ブランシェットの次期領主はヒース──魔法使いなのだから」
「ああ、たしかに……」
「その通りでございます」
 さまざまな思惑のすえに決まったナマエのブランシェット領への遊学だったが、結果的には最善の遊学先だったのだろう。ナマエはそう思っているし、ブランシェット領のことも一年間でずいぶんと好きになった。ブランシェット領はけして観光地ではないものの、機会さえあればまた行きたいとナマエは思っている。
「大変だな、貴族っていうのも。それよりそろそろ、お茶にしないか? 話してたら喉が渇いてきた」
 カインがそんなふうに話を締めくくろうとしたところで。ナマエが唐突に声を上げた。
「あっ、しまった!」
「どうした?」
「オズ様のお部屋に万年筆を忘れてしまったみたい。取りに行かないと」
 実は先程から、会話のかたわら、ナマエは鞄と長衣のポケットを探っていた。会話中、ふいに万年筆を持っているかが気にかかったのだ。それとなく探してはいたのだが、予感は的中し、何処にも万年筆が見つからない。
 ただの万年筆ならばいくらでも替えが利く。しかし忘れてきたのはナマエの仕官祝いにアーサーから賜った、思い出深い逸品だ。紛失などしようものなら、金輪際アーサーに合わせる顔がない。絶対に紛失するわけにはいかなかった。
 オズの部屋で使用したのはたしかだから、紛失したとすればオズの部屋に違いない。さっきの今なので、まさかオズがすでに出掛けて不在ということもないはずだろう。もう一度訪ね、室内を探させてもらうしかない。と、そのとき。
「オズならさっき一瞬談話室を覗いて、すぐにまた引き返していったぞ」
 邪気も他意もなさそうな声で、カインがさらりと笑って言う。
「ああ、もしかしたら万年筆を忘れていることに気付いて、持ってきてくれたんじゃないか? 引き返していった理由は不明だが」
「な、なんてこと……」
 ナマエの顔から血の気が引いた。カインの言うことを疑うわけではないが、それが事実ならばナマエはアーサーからの贈り物を紛失したあげく、あまつさえアーサーに次いでナマエが関心を払うべき存在であるオズに気付かず、せっかくの会話の機会をみすみす逃してしまったことになる。
 ナマエは現在、オズへの歩み寄りの真っ最中だった。当初は最低限の会話、遣り取りだけで済ませる予定だったのだが、オズと何度か顔を合わせているうち、きちんと歩み寄り打ち解けなければ聞くべきことも聞き出せないと気が付いた。
 職務の遂行のためにはオズとある程度打ち解ける必要がある。オズの方はナマエに微塵も興味がなく、また歩み寄るべき理由もないだろうから、親しくなるにはナマエから話しかけるしかない。
「オズ様のお部屋に行かなければ。皆さま、それではこれにて失礼させていただきます」
 腰を曲げて礼をとり、ナマエはくるりと踵を返す。談話室を出ると少し前に下った階を、ふたたび最上階の五階まで一気に駆け上り、ナマエはオズの部屋のドアを叩いた。

prev - index - next
- ナノ -