美しき横顔

「オズ様、いらっしゃいますでしょうか。たびたび申し訳ありません、ミョウジです」
 ノックに続けて早口に名乗る。直後音もなくドアが開き、ふたたびノックをしようとしていたナマエは勢い余って室内に飛びこむはめになった。何とか転ばずに済みはしたものの、慌ただしい入室をしてしまったことでかっと顔が熱くなる。一応は貴族の令嬢なのに、随分とそそっかしい真似をしてしまった。
 気を取り直して顔を上げ、前方に視線を遣る。オズはやはり肘掛け椅子に座し、無表情にナマエを迎え入れていた。ドアは魔法で開けたのだろう。世界最強の魔法使いなのだから、いちいち客を招くために椅子から腰を上げたりはしないのかもしれない、とナマエは場違いな事を考えた。
 しかし、無意味な思考はすぐさま打ち切られる。この部屋を再訪した目的を思い出し、ナマエは急いで姿勢を正した。
「あの、先程参った際にオズ様のお部屋に万年筆を忘れてしまいまして、オズ様がご存知でないか伺いにまいりました。よろしければ少し、探させていただいてもよろしいでしょうか」
「その必要はない」
 撥ねつけるような一言に、ナマエの背筋が一瞬ひやりと凍る。しかしそれは拒絶の言葉ではなかった。ふいにオズが、テーブルの上に腕を伸ばす。長い指先がテーブル上の何かを抓んだかと思えば、彼は腰を上げ、ナマエの方へと歩み、それを差し出した。
 天冠にナマエの瞳と同じ色の宝石をあしらい、美しい銀装飾のほどこされた万年筆──それは間違いなく、ナマエが半年前にアーサーより賜った品だった。
「探しているものはこれか」
「それです! 見つけてくださりありがとうございます!」
 ナマエは顔を綻ばせ、両手を差し出しオズから万年筆を受け取った。内心では、ほっと安堵の息を吐く。
 けして値がつけられない品というわけではないが、ナマエにとってこの万年筆は値段以上の価値がある品だ。失くせば二度と同じものは手に入らない。もちろんオズがその謂れを知っているはずはないのだが、何はともあれ無事に手元に戻ってきたことに、ナマエは感謝した。
 一通りオズに感謝の言葉を述べたところで、ナマエはふと、先程の階下でのカインの言葉を思い出した。ナマエの用件はすでに済んだが、今のところオズがナマエを部屋から締め出そうとする気配もない。歓迎されている様子もまるでないが、ひとまずその事実には目を瞑り、ナマエはゆるりと切り出した。
「先程、談話室の前までオズ様がいらしていたとカインが言っておりました」
 ナマエの言葉に、オズは無表情のまま屹立している。肯定も否定も返らずに、ただ沈黙が続いただけだった。
 逡巡ののち、ナマエは続けた。
「こんなことを申し上げると不遜かとも思うのですが、その、もしや万年筆をお持ちくださったのでしょうか……?」
 またしても、沈黙の応え。しかし今度は沈黙の中に、たしかな肯定の気配が漂っていた。オズのばつの悪そうな表情が、その何よりもの証左だ。
 ──やっぱり、お気遣いいただいたんだ。
 ナマエは眉を下げ、オズを見つめた。自分がオズの気遣いに気付かず、無下にしてしまったことが情けなく、申し訳なかったのだ。
 そんなナマエの視線を避けるように、オズはナマエに背を向け肘掛け椅子に身を沈める。その後をナマエが縋るかのように追いかけた。
 肘掛け椅子のそばに立ち、ナマエはオズを一心に見つめる。ほんの一瞬、頭が高いと思われやしないかとも思ったが、ここで膝をつくのもおかしな気がした。結局そのまま直立で、ナマエはオズに話しかけることにした。
「折角のオズ様のお気遣いに気付かず、大変申し訳ございませんでした。ですがその、お声を掛けてくだされば……」
「東の若い魔法使いは、私を恐れている」
「東……ヒースクリフ様やファウスト様が、でしょうか」
「ファウストは若くはない。古くもないが」
 ということは、オズが言っているのはヒースクリフのことだろう。思いがけない名前が出て、ナマエはぱちくり目を瞬いた。
 オズは瞼を閉じ、むっつりと口を閉ざす。思案しているようにも見えるが、同時に何かを誤魔化すような、子供のような所作にも見えた。世界最強の魔法使い、長命の魔法使いに対し「子供のような」とは不敬極まりないが、ナマエの眼にはそう見えたのだから仕方がない。 
「オズ様は偉大な魔法使いであらせられますから……。たとえ賢者の魔法使いとして比肩していたとしても、畏怖や畏敬の念を抱かぬ者の方が稀ではないかと存じます」
「しかし歓談に水を差すべきではないだろう、と」
「水を差すだなんて、そんなことをお考えだったのですか……」
 またもや思いがけない台詞を耳にし、ナマエは戸惑い言葉を失った。オズはまだ、目を瞑ったままでいる。ナマエは何と言っていいものか分からず、暫しその美しい横顔に視線を注いでいた。
 オズがそのようなことを考えていたなど、まったくナマエにとっては想定外のことだった。そも、ナマエにとってのオズは未だ世界最強の魔法使いでしかないのだ。いくらアーサーがオズの優しさ、慈悲深さを説こうとも、いくら言葉が通じることが分かろうとも、それは世界最強の魔法使い──冷酷無比な北の国の魔王というイメージを完全に覆すだけの決定打にはなりえなかった。せいぜいが思っていたより話が通じる、という程度の印象の上書きがあったに過ぎない。
 だからこそ、ナマエは今戸惑い、狼狽していた。世界最強の、比類なき、圧倒的なまでの魔法使いが、年端も行かぬ魔法使いや人間に気を回し、輪を乱さぬようその場を後にする──それがどれほどまでに異様なことか。そしてそのことに憤るでもなく、気恥ずかしさを感じているように見えることが、どれほど尋常ならざることか。ナマエが絶句するのも、また仕方のないことだった。
 すでにナマエの抱くオズへの印象は、書物や伝承により知ることができるオズの像から、大幅にぶれを生じている。アーサーの言葉を信じきることはできずとも、記録にある姿をそのまま受け入れるわけにもいかない。ゆえにオズという魔法使いの実像が掴めずに、ナマエは半ば途方に暮れていたところだった。
 しかし事ここに至り、ナマエはようやくアーサーがオズを誉めそやし、巷間の流言飛語に胸を痛めている真の理由を理解した気がした。
 ナマエが思っているほどに、オズは冷たい魔法使いではないのかもしれない。残酷で残忍な面ばかりが強調されているだけで、実際にはもっと穏やかで、他を慈しむ心を持つ魔法使いなのかもしれない──それはちょうど、ナマエがよく知る魔法使いの、カインやアーサーと同じように。
 己が心を落ち着けるため、ナマエは二、三度深呼吸を繰り返す。そして多少の冷静さを取り戻したところで、意を決し、ナマエは口を開いた。
「ヒースクリフ様がどのようにお考えかは、私では想像しかねますが……。少なくとも私にとってはオズ様のお話を聞かせていただくことも、立派な職務のうちです」
「職務」
 目を開き、オズが抑揚なく繰り返す。
「もちろん、まったく個人的興味がないとは申しませんが」
「個人的興味」
「世界最強の魔法使いのお言葉を拝聴できる人間など限られておりますでしょう。あたらその機会を無駄にしないためにも、私はオズ様への興味については素直に表してもよいと、自らにそう決めております」
 そう言いながら、ナマエの心臓は早鐘を打つ。考えるまでもなく、不敬なことを言っている自覚があった。叱られるだろうか、怒られるだろうか──ナマエはそんな、半ば試すような心持ちでオズを見つめていた。
 しかしオズは声を荒げることもなく、さりとて冷ややかに突き放すでもなく、じっと考え込むように視線を前方へと投げていた。静寂が室内に満ち、暖炉の火が爆ぜる音だけが時折空気を鳴らしていた。
 夏なのに暖炉に火を入れているのだということに、ナマエはふと気付く。暑さを感じはしないから、何らか魔法が掛けられているのだろう。揺れる火を、ナマエはぼうと眺めた。
 沈黙がゆるやかに流れていく。オズの言葉を待つ間、不思議とナマエは気詰まりを感じなかった。その理由をナマエ自身がはっきり理解していたわけではない。ただ、長命の魔法使いとの時間の流れ方が違うこと、オズがオズなりに、彼の時間のなかでナマエとの会話に意識を割いていることは、漠然と感じ取っていた。
 やがて、オズは重い口を開き、言った。
「私は誰かと歓談したりはしない」
 一言、それきりだった。長い沈黙のすえに導き出した言葉とは思えない、簡素で他愛ない一言。
 それでも、ナマエには十分だった。
「そうでしたか。ですが幼いアーサー殿下とお過ごしの際には、オズ様も他愛ない会話を楽しまれていたと、以前アーサー様に伺いました」
「……それは」
「アーサー様との歓談をお楽しみでは、なかったのですか?」
 ナマエの問いに、オズは答えなかった。答えにくい、意地の悪い問いだったからでもあるし、同時にそれはオズにとってもナマエにとっても、答えるまでもない問いだった。
 ナマエが顔を綻ばせる。今、ナマエの前にいるのは、世界最強の魔法使いのオズではない。かつて幼少のアーサーを育て慈しんだ、ひとりの不器用な魔法使いだ。
「私はアーサー様の足元にも及ばぬ些末な人間でございますから、オズ様にお楽しみいただけるような巧みな話術を持ってはおりません。ですが、オズ様のお言葉を聞き遂げることは職務でもあり、個人的興味に基づく私事でもございます」
 口許に笑みを浮かべたまま、ナマエは淡々と言葉を紡ぐ。オズの顔色は変わらない。
「私は、オズ様ともっと対話を重ねられたらと思っておりますが、ご迷惑でございましょうか」
 できることならば、アーサーの記憶にあるようなオズの姿を見てみたいと思う。自らの主がこの無愛想な魔法使いを慕う理由を、ナマエはアーサーの臣下として、友人として知ってみたいのだ。そしてまた、ナマエ個人の望みも同じところにある。
 そんなナマエを、オズは直視しない。あくまで視線を逸らしたままで、深々と溜息を吐き出した。
「……お前は物好きだ」
「そうでしょうか?」
「物好きでもなければ、東の国まで遊学などしない」
「ああ、やはり先程の話を聞かれておりましたか」
 ただ階下に降り、そして立ち去っただけでは会話の内容までは聞こえなかったはずだ。ましてオズがナマエの経歴について興味を持ち調べるとも思えない。オズが遊学の件を知っているというのであれば、先程のカインたちとの話を聞かれていた以外に理由は思い当たらない。
 オズがかすかに眉根を寄せた。長い腕を体の前で組み、仏頂面を浮かべる。
「……お前は私について調べてあげているのだろうが、私はお前のことを何も知らない」
「アーサー様の臣下で、ミョウジ家の末娘でございます。父の爵位は伯爵で、代々グランヴェル王朝にお仕えし、文官をたつきとしております」
「そういうことでは……」
「お酒はあまり嗜みません。食べるものならチョコレートが好きです」
 にこりと笑ってナマエがそう付け加えると、オズが何か言葉を飲み込む顔をした。そして「もう、いい」とあたかも不満をこぼすように発する。とはいえその声音は、けして冷たくはない。
「よろしいでしょうか……?」
「つまらぬことを言った」
「つまらないとは思いませんが」
「お前がではない。私がだ」
「尚更つまらないとは思えませんが……」
 いまひとつ噛み合わない会話の中を交わしながらも、ナマエの胸の中にはぽつりぽつりと小さな灯りが灯るように、あたたかな感覚が生まれていく。燃える暖炉の火から火の粉が飛び跳ね棲みついたように、それはナマエの中でじわじわ広がり、内から熱していく。
 知らず識らずのうちに、ナマエは手のひらを胸にあてていた。外から触れても分からぬ熱は、しかし確かに手の下、肌の下にある。
 オズがゆるりとナマエを見た。その視線に応えるべく、ナマエは破顔し言った。
「そういえば。あとひとつ、もっとも大切なことを申し忘れておりました。アーサー様の命のもと、今はオズ様の伝記編纂事業の完遂に向け、日々邁進しております。これからも何卒よろしくお願いいたします」

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