鶸の唄

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 夜が更け朝日が昇るまで、ナマエは一睡もしなかった。ナマエの隣で横たわるオズもまた、同じく眠らず朝を迎えた。この一夜は特別。この先どれだけ生きようと、もう二度と巡ってこないだろう一夜だということは、オズもナマエも正しく理解していた。
 朝が来れば、ふたりはアーサーの臣、アーサーの師としての自分の役に帰る。二人いずれも、それを望んでいた。ふたりにとって最も優先されるべきはアーサーなのだという事実は、たとえ夜をともにしたところで絶対に曲がることはない。

 夜が明けてすぐ、朝食をとった。すでにオズの手に魔力が戻っているので、昨晩の乾いた食卓とは打って変わって、朝はあたたかなパンとコーヒー、それに果物がテーブルに並んだ。
 ナマエの衣装も、ナマエの丈に合うものに変わった。相変わらず自分のために魔法を使ってもらうことへの抵抗があるため、衣装はけして華美なものではない。シンプルなセーターに、スカートとブーツ。スカートは手首に嵌めた腕輪の色に合わせ、きれいな翡翠色をしていた。
 一通りの支度が済んだところで、改めてオズによってナマエの記憶は封印された。前回のときと違うのは、今回は「記憶を封印した」ということだけは覚えていることだ。どんな記憶だったのかは覚えていなくても、大切なことを知り、そして自分の意志で封じてもらったのだということは覚えている。覚えているべきだと言ったのはオズで、ナマエはオズの言葉に従った。

「これからも、私は生涯アーサー様の臣下として、中央の国のために生きていくのだろうと思います。国のため、王子の──未来の王のため、私は生涯かけて尽くす所存です」
 帰り支度をゆるゆると纏めながら、ナマエは傍らのオズにそう言った。オズは肘掛け椅子に腰かけて、ぼんやりと暖炉の火を眺めている。
 あまりオズを直視すると昨晩のことが思い出されて気恥ずかしいので、ナマエはあえてオズに視線を向けないことにしていた。オズも同じ気持ちなのか、朝ともにベッドを出てからというもの、あまりふたりの視線は交わらない。
「どうぞこれからも、オズ様には何かとお力添えいただけると幸いです」
 ナマエの声に、オズは「ああ」と短く返事をした。
 これからも、ナマエとオズの関係は続いていく。しかしそれはあくまでも、アーサーを介した関係であり続ける。今後ふたりの関係に変化を求めることはしないと、これはそういう確認のための遣り取りだった。
 アーサーの足を引っ張るかもしれない関係など、ナマエもオズも望まない。ふたりのどちらも、アーサーのそばにあること以上に優先させたい恋心など、けして望みはしなかった。
 と、帰り支度を終えたナマエが、鞄の中身を確認しながら「ああ」と声を漏らした。オズがつとナマエに視線を送る。ナマエははにかんだように笑いながら、とことことオズの傍へと寄った。
「そういえば。オズ様、こちらをお受け取りいただけますか」
 そう言ってナマエは、ナマエの手のひらサイズの小箱をオズへと差し出した。無言で受け取り、オズは小箱を開く。中に入っているのは、ナマエがオズのためにと頭を悩ませ選んだ、エメラルドの指輪だった。
 台座にのった指輪を、オズはしげしげと眺める。そのままオズが何も言わないので、慌ててナマエが言葉を付け加えた。
「先日この腕輪をいただきましたので、これは返礼の品です。オズ様にいただいた腕輪と違い、何の魔法もかかっていないただの指輪ですが、あの、お気に召したらいいのですが……その、受け取っていただけますか……?」
 最後の方は、ナマエらしくもなく声が尻すぼみになっていた。オズが何も言わないせいだ。気に入ったとも気に入らぬとも言われなければ、ナマエとしてもどうしていいものか分からない。
 ナマエは困り果て、その場でぴしりと固まった。するとオズがやおら視線を上げ、ナマエの顔を眺める。その顔を見て、ナマエは少なからず安堵した。オズの顔に表情はないが、ひとまず不快に思われたということもなさそうだ。
「あの……、オズ様、指輪はお嫌いですか?」
 おずおずとナマエが問う。わずかに思案したのち、オズは答えた。
「嫌いではない。これまで身につける習慣がなかった」
「魔法を使うのに指輪を嵌めていない方がいいとか、そういうこともございませんか?」
「ない。むしろ装身具のたぐいは魔道具によく用いられる」
「この指輪はそのような不思議な品ではないですが」
「それは見れば分かる」
 淡々とした口調で、オズは言った。
「魔法の力など纏わずとも、美しい指輪だ」
 あたたかな、陽だまりのような温もりを持った声だった。ふいに目の奥がじんとして、ナマエは慌てて笑顔をつくった。
 昨晩の幸福はまさに泡沫の夢のようなものなのだ。その幸福な夢を思い出して心恋しがるなど、未練がましいにも程がある。こんなことではアーサーに顔向けできないどころか、オズにも呆れられてしまうことだろう。
 勢いよく頭を振って雑念を散らすと、ナマエは精いっぱいの笑顔を顔に張り付けた。そして未だ台座に嵌ったままの指輪に触れようともせず眺めているだけのオズに、
「僭越ながら、私に嵌めさせていただけますか。お手を」
 そう断ってから、そっと指輪を引き抜いた。
 オズがぎこちなく、自分の左手を差し出す。ナマエは一瞬、差し出された手のどの指に嵌めるか悩んだが、結局は指輪のサイズを見て中指と決めた。不便があれば、後からオズが自分で変えるだろう。
 オズの陶器のような肌を、金の輪がするりと撫でていく。指の付け根におさまった指輪は、まるで最初からそこに嵌っていたかのようにしっくりとオズの手に馴染んでいた。
「よかった、ぴったりですね。ぴったりでなかったら魔法でどうにかしていただこうと思っていたのでよかったです」
 自分の見立てが正しかったことに満足し、ナマエはにこりと笑った。オズの手がナマエの手を離れ、目線の高さに掲げられる。自分の指に嵌った指輪を、オズは不思議なものを見るような顔つきでじっと見詰めた。
「貢物はいろいろと受けてきたが、指輪を貰い受け、実際に指に嵌めたのは初めてだ」
「あっ、けしておかしな意味で指輪を贈ったのではないのですよ! ただ、オズ様にお似合いの気品のある品だと思って選んだだけで!」
 狼狽えて弁解するナマエに、オズが目を眇め首を傾げる。
「何故そこで慌てふためく」
「だ、だってオズ様は言葉数は少ないですが、結構雄弁に表情で語られますので……オズ様はその、先程からしきりに不思議そうなお顔をされておりますし……」
 ナマエの弁解にもなっていない弁解にも、オズはいまひとつぴんと来ないのか、訝し気な顔をするだけだった。二千年以上の長きときを生き、昨夜は愛を交わし合った仲だというのに、オズはナマエが指輪を見て連想するものを察しもしないらしい。変に意味を探られるよりはまあいいか、とナマエは苦笑した。
 窓の外はもうすっかり日が高くなりつつある。そろそろ中央の国に戻らなければ、いずれ誰かが心配してこの城まで様子を見に来かねない。
 オズが椅子から腰を上げた。呪文を唱えるべく口を開き──けれどすぐ、傍らに立つナマエに視線を落とし、口を薄く開いたまま静止した。
 ナマエもまた、物言わずオズを見上げている。
 互いに名残惜しく思っているのだと、何も言わずとも、ふたりの間では通じ合っていた。
「オズ様」と、ナマエがそっとオズを呼ぶ。オズが視線だけで応えた。
 沈黙の重さはこの時間が終わることへの気持ちの重さだ。けれどいつまでもこのままではいられないことは、オズもナマエも分かっていた。
 アーサーのそばにいるためには、ここから外に出なければならない。いつまでも、居心地の良い籠のなかにはいられない。そんなことは分かっているのだ。分かっていても、離れがたい思いが消えるわけではない。
 少しでも気を抜けば、けして言ってはならない言葉を口にしてしまいそうになる。慎重に深呼吸をして心を整えてから、ナマエは覚悟を決めた。
「オズ様、私はこの先誰とも結ばれるつもりはありません」
 やおら切り出した言葉に、オズが小さく息を飲んだのが分かった。それも当然のことだろう。ナマエが貴族の娘として、いつかは家柄の見合う相手に嫁いでいくことは、はじめからオズにも話してある。そのこともあり、オズとのことは一夜限りと決めたのだ。
「何故」
 慎重に、オズは尋ねた。対するナマエは、あっけらかんと笑って見せた。
「どうしてそのようなことを聞かれるのです。私がオズ様のことを大切に思っていることはもうご存知でしょう。意地悪ですか?」
「いや……」
 オズが言い淀む。まさか意地悪しているつもりなどはなかったのだろうが、だからといって正面からどうしてと聞かれても、上手く答えることはできないようだった。
 ナマエもまた、オズの気持ちは理解している。だから茶化すのはやめにして、きちんとオズと向き合った。
「私は器用ではありませんし、二兎を追うような真似も苦手です。ですからアーサー様に尽くすと決めた以上、オズ様に昨晩以上のことを望むつもりはありません。オズ様のことを困らせたくもありません」
「私は──」
「ですが、この身がオズ様以外の誰かのものになるのも、もうすっかり嫌になってしまったのですよ」
 今度こそ、オズは言葉を失った。それではまるで、オズがナマエの貴族の娘としての幸福を潰したようなものではないか。仕事を生きがいとしているナマエにだって、もしかしたら嫁げば相応の幸福が待っているかもしれない。実際、ナマエもそう思って割り切ってきたのだろう。それを、ナマエはみすみす手放そうとしている。はっきりと明言はせずとも、オズに操を立てることを誓って。
「むろん、アーサー様の命で娶せられるとなれば話はまた少し違うのでしょうが、アーサー様はそうした無理強いはなさりませんから心配することもないでしょう。私は安心して、生涯アーサー様に尽くしながら、オズ様おひとりを想い続けるつもりです」
 もはやこれは心に決めたことだった。ナマエの中でのオズへの気持ちは大きく育ちすぎていて、今さらおいそれと捨てることなどできるはずがない。本心を隠して嫁するにしても、オズ以外の誰かが入り込む余地など微塵もありはしなかった。これでは相手にとっても不誠実どころの話ではない。
 そんな不誠実を働くくらいならばいっそ、家族から疎まれようとも一生独り身でいた方がずっとましだった。幸い手に職はある。今は下っ端でも、ナマエは自分がそこいらの文官より余程まじめに働く人間であることを自覚していた。アーサーという後ろ盾もあれば、この先困ることはないだろう。
 しかしそれでも、オズは苦い顔をしていた。ナマエが生涯仕事に身をささげることについて異論はなくても、自分のせいでナマエの未来の可能性を潰すことには納得がいかないらしい。
「いずれ後悔する」
 地を這うような低音に、ナマエはまた苦笑した。オズがこう言うだろうことは想像がついていたが、本当に言われるといっそ笑いだしてしまいそうになる。
「だから、どうしてそのようなことを仰るのです。意地悪ばかり仰らないでください」
「お前のためを思っている」
「そのような思いは今すぐお捨てになってください」
 そう言って笑って。
「後悔などいたしません」
 ナマエははっきりと言い切った。
「それに、オズ様こそ後悔してももう遅いのですよ。私が生涯アーサー様の忠臣であり続けるということは、要するに生涯私はオズ様のおそばに居続けるということでもありますからね。中央の国の魔法使いのオズ様と、中央の国の臣の私はもはや切っても切れない縁で結ばれたも同然です。アーサー様の臣下として、私が望めるのはそのくらいなのですからね。どうかお許しください、オズ様」
 異論を挟ませぬための早口で、一気にナマエは捲し立てた。ナマエの狙い通りオズは口を挟むこともできず、ただむすりと不満げな顔をしてナマエを見下ろしている。
 ──もしかして、少し言い過ぎたかしら……?
 オズのむすりとした視線を受けながら、ナマエは遅まきながら危機感を抱く。相手は世界最強の魔法使いのオズなのだ。そのオズを前に、随分と言いたい放題してしまった。
 さすがに怒られるだろうか。そんなことを思い、ナマエはオズの出方を窺う。と、その時。
「お前は時々、おそろしく身勝手なことを、悪びれることもなく言う」
 オズが呆れたように呟いた。そして、
「もう慣れたが」
 小さく笑って、オズは今度こそ呪文を唱えた。「≪ヴォクスノク≫」耳になじんだ不思議の言葉が、ナマエの前に白い光の束を現す。その光の束はみるみるうちに扉の形をとった。
 扉の先は、正しく現実につながっている。泡沫の夢はここまでだ。帰るべき場所は、この夢の中にはありえない。
 先に扉のノブに手をかけたオズが、ゆるりとナマエに振り向いた。目と目が合う。本当にいいのかと、その目が問うている。
 答えはずっと前から決まっている。
 ナマエは精いっぱいの笑顔を浮かべると、オズが大きく開いたドアをゆっくりとくぐった。何処から飛んできたものか、ドアの向こうからは鶸の唄う声が聞こえた。

 fin.

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